「憎しみ、妬み、神の業」:2020年5月10日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

全国に発令された緊急事態宣言を鑑み、Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)ではオンラインで日曜礼拝を行っています。
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導入

本日からしばらくの間、旧約聖書のヨセフの話から説教を取り次いでいく予定です。

ヨセフの話全体を通して聖書が語ろうとしている大きなテーマの一つは、

神様は私たち人間が行う悪をも善に変え、多くの人々の命を救うことができる

というものです(参照:創世記50章20節)。

全知全能で愛なる神様がいるとしてもこの世から悪が完全になくなる訳ではありません。が、しかし、

神様はその悪をも善に変えることができるお方

また、

この不安と恐れに満ちた世の中にあって、神様は確かに多くの人々を永遠の命という救いに導いておられるお方

でもあるのです。

今日の聖書個所はヨセフの物語のイントロとも呼べる個所です。そこにはヨセフの家庭がどれほど悪・罪に満ちていたか、別の言い方をするならば、ヨセフの家族・家庭がどれほど私たちの家族・家庭と大差がないかが記されています。

しかし、

神様はヨセフのようにごく普通の家庭を用いて、御自分の計画を成し遂げていかれます。

偏愛する父親

今日から共に見ていく聖書個所を「ヨセフの話」と言ってきましたが、この表現は厳密には正しくありません。

実際、聖書には「ヤコブの歴史」とあり(創世記37章2節)、「ヤコブの家族に関する話」というのが正確な表現です。

とはいえ、主な主人公の一人は間違いなくヨセフです。他にはヨセフの父ヤコブとヨセフの兄の一人ユダが主な登場人物といってよいと思います。

ヤコブには4人の女性との間に12人の息子がいました(参考:創世記35章23-26節)。ヤコブはその中でも年を取ってから生まれたヨセフを特にかわいがっていました(創世記37章3節)。

また、ヨセフの母ラケルは、ヤコブの間に子供を産んだ4人の女性のうち、ヤコブが最も愛していた女性でした (29章18節)。が、そのラケルはヨセフの弟ベニヤミンを産んで直ぐに死んでしまっていました(35章16-20節)。

言うなればヨセフは、ヤコブが愛したラケルの忘れ形見のような存在であったのではないかと思います。それ故にヤコブは12人の息子の中でヨセフを特別に可愛がっていたように思われます。

憎み妬む兄弟たち

そうなると面白くないのはヨセフ以外のヤコブの息子たちです。実際、兄弟たちはヨセフを憎んだと聖書は記します(創世記37章4節)。

12人兄弟の中で父親から特別扱いを受けるほどに溺愛され、兄弟たちから憎まれていたヨセフ。そんな兄弟たちの憎しみの火に油を注いだのがヨセフの見た二つの夢です(7、9節)。

どちらの夢にも共通しているのは、

ヨセフの兄弟たちがヨセフにひれ伏す

ということです。

ただでさえ自分たちより年下で父親にひいきにされている憎たらしいヨセフです。そのヨセフが「夢の中で兄さんたちが自分にひれ伏したんだよ」と言った時のヨセフの兄弟たちの驚きと怒りは想像に難くありません。

案の定、彼らはヨセフをそれまで以上に憎むようになり(5、8節)、ヨセフを妬むようにもなります(11節)

成し遂げる神

「聖書」とは文字通り「聖なる書物」という意味の書物です。

しかし、今日読んだ個所からもお分かりのように、

聖書に出てくる登場人物はイエス様を除くと皆、聖なる人物どころかごく普通の人間

です。

もちろん、彼らも時には立派なこと、神様の目から見て善いと思われることをすることはあります。

でも、ほとんどの場合、彼らは神様の目から見て善いと思われることをすることができない、どこにでもいる普通の人間、私たちと同じ類の人間です。

にもかかわらず、

神様は彼らのようなどこにでもいる普通の人間を通して、御自分の計画を成し遂げていかれる

のです。

今日の話の中でヨセフは、兄弟たちが自分にひれ伏すだろうという夢を見ました。この夢はこれから後、20年ほど経って確かに実現します(創世記42章6節)。

神様はヨセフの兄弟たちの憎しみと妬みという感情さえ用いて、御自分の計画を確かに成し遂げられる

のです。

聖書の神様は、私たち人間が行う悪を善に変え、多くの人々の命を救われる。

これこそまさに神様にしかできない業、神の業、「神業」です。

この世に生きる限り、程度の差はあれ、誰もが憎しみや妬みという感情を抱くと思います。この感情は、実はイエス様を十字架にかけた宗教指導者たちがイエス様に対してもっていた感情でもありました。

正しいとは分かっていても、その正しいことをなかなかすることができないことは多いと思います。「わかっちゃいるけどやめられない」という古いセリフもあるくらいです。

「分かっちゃいるけどヤメラレナイ」ことを事あるごとに思い起こさせる存在がいるとすれば、私たちはその人やモノを憎み、目障りだと感じるようにもなるかもしれません。

宗教指導者たちにとって、イエス様に対する憎しみはイエス様を殺そうとまで思うほどになってしまいました(参考:ヨハネによる福音書7章7、19節)。

イエス様を裁判にかけていたローマ総督ピラトは、妬みが原因で人々がイエス様を引き渡したと分かっていました (マタイによる福音書27章18節)。

「妬み」は自分が欲しいと思うモノを持っている人に対して起こる感情です。

宗教指導者たちにとってみれば、イエス様の持っていた人気や知恵、知識、権威などに対する妬みであっただろうと思われます。

現代社会は競争社会です。

今でこそ「ゆとり世代」と呼ばれるようになってきていますが、「ゆとり」があるかどうかを比べながら生きることが強いられています。

情報があふれかえり、どの情報が正しいかを比べながら、他人が何を言っているか・考えているかを知らなければ落ち着かない社会となっています。

消費社会は持っていない人に「妬み」の感情を引き起こさせて購買意欲をそそらなければ成り立ちません。

他人と比べ、他人を羨み憎み妬むというのは、現代社会の根底にある感情だと思います。

クリスチャンであろうとなかろうと誰もが、皆が平等で幸せな社会を望んでいます。その理由の一つは恐らく、皆が平等で幸せあれば、人と比較して妬みや劣等感を味わわなくて済むからではないでしょうか。

イエス様を十字架につけた当時の宗教指導者たちの心の中には憎しみや妬みといった感情がありました。言うなれば、

私たち人間なら誰もが抱く憎しみや妬みといった感情が全くの無実の罪でイエス様を十字架につけた

訳です。

そこに正義や善はありません。
成されたことは完全な悪です。

が、しかし、

神様はそんな悪をも善に変え、多くの人々の命を救う道を切り開かれた

のです。即ち、

人々の憎しみや妬みによって無実の罪で十字架に架けられたイエス様は私たちの罪を背負って、私たちの身代わりとして死んで復活された救い主であると信じるならば、私たちの罪が赦され神様の子供とされ、永遠の命を得ることができるようになった

のです。私たち人間が行う悪を善に変え、多くの人々の命を救う神の業の極致がここにあります。

結論

私たちは現在、新型コロナの影響下で、先の見えない不安と様々なストレスの中に生きています。

このような状況下にあると、神様が何をされているのか、何を語り掛けようとされているのかも分からなくなってしまいます。

そんな時には今一度、思い起こしてください。

今のこの不安定な状況にあって、悪いことばかり、不吉なことばかり、悲しいことばかり、辛いことばかり起こる世の中にあっても、イエス様は確かにあなたと共にいてくださっています。

そして、

あなたと共に神様の御業を成し遂げていこうとされておられます。

今、あなたに求められているのは、

そんな神様・イエス様を信じ信頼して付き従っていこうとする信仰

ただそれだけです。

参考文献および注釈

  • Mathews, Kenneth. Genesis 11:27-50:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005.
  • Walton, John H. Genesis. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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