礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年2月27日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神との本来あるべき関係」
- 聖書個所:出エジプト記4章18-31節1
導入
新型コロナの脅威が収まらない中、ロシアがウクライナに侵攻したというニュースが飛び込んできました。
戦争・紛争は昔から無くなることはありませんが、ここ最近の異常気象や新型コロナの広がりを考えると、
と誰もが思うと思います(比較:ルカによる福音書21章10-11節)。
です(参考:ヨハネの黙示録21章1-5節)。そのとき、
今日の聖書個所は私たちの「本来あるべき姿」の中でもとりわけ重要な「神様との本来あるべき関係」について教えてくれます。
「世の終わり」にもたらされる「本来あるべき姿」に思いを馳せつつ、今のこの世において神様がもたらしてくださる私たちと「神様との本来あるべき関係」について、今日は共に学んでいきましょう。
父なる救い主
神様からエジプトにいるイスラエル民族を導き出すように命じられたモーセは、その時住んでいたミデヤンという場所を離れエジプトを目指して出発します(出エジプト記4章18-20節)。
その途上で神様はモーセに、
であるとおっしゃっています(4章23節)。
それまでイスラエル民族は奴隷としてエジプトのファラオに仕えていましたから、エジプトから救い出されることによって、
ことになる訳です。
何・誰かに仕えること自体は変わりませんが、その違いは大きなものです。
というのも、神様の場合はエジプトのファラオの場合とは異なり、理由もなくただイスラエル民族に仕えることを強要する訳ではありません。
彼らをエジプトにおける奴隷状態から救い出した救い主として(出エジプト記19章4-6節; 20章2節)、また彼らを愛して止まない父親として(4章23節)、彼らが神様に仕えることを望んでいる訳です。
実は、
私たちも救われる前は罪の奴隷であって、その行き着く先は死でした。
しかし、イエス様を信じる信仰によって義とされたとき、私たちは罪の奴隷状態から自由にされると同時に今度は「神の奴隷」となり、永遠の命を得るようになると聖書は語ります(参照:ローマの信徒への手紙6章20-22節)。
また聖書は、私たち人間は生まれながらに罪人だと語ります(詩編51編7節; ローマの信徒への手紙5章12, 18-19節)。
理由も分からず、罪の奴隷として罪に仕えるより他なかった訳です。
けれども、イエス様を信じる信仰によって、その奴隷状態から救い出され、神様の子とされた後は、理由も分からず神様に仕える訳ではありません。
です。
心の割礼
出エジプト記4章24-26節の話は少し理解・解釈が難しい箇所です。
しかしながら、この24-26節の話を読んで誰もが感じるであろうことは「割礼の重要さ」だと思います。
イスラエル民族の間で割礼(男性器の包皮を切り取る儀式)が始まったのは彼らの先祖アブラハムの時代です。
そのとき神様は
ように命じられました(創世記17章9-14節)。
それから時が流れてモーセの時代、神様がイスラエル民族をエジプトから救い出そうとされていたのはアブラハムと交わした契約を果たすためでした(出エジプト記2章24節)。
そのことを出エジプト4:24-26の話教えてくれていると理解できます。
この「割礼の重要さ」について、聖書全体を見てみると、実は
であることが分かります(エレミヤ書9章24-25節;使徒言行録15章1-21節;ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節)。
特にローマの信徒への手紙2章28-29節でパウロの語る「霊によって心に施された割礼」というのは、
だと言えます(参考:レビ記26章41節;申命記10章16節; 30章6節;エレミヤ書4章4節;比較:エレミヤ書31章31-34節;エゼキエル書11章19-20節; 36章26-27節;ヨハネによる福音書3章3-8節)。
この「心の割礼」は、それまでの自分中心的な生き方を悔い改め、イエス様を救い主だと信じ、神様中心の生き方をしようとする人、即ち、全てのクリスチャンに起こる聖霊の働きです。
イエス様を信じる信仰によって救われた後は何でも自由に自分の好き勝手に生きてよい訳ではありません。
神への敬意と服従
今日の聖書個所の最後には、アロンがイスラエルの長老たちにモーセに語られた言葉を告げ、しるしを行ったときの人々の反応が記されています(出エジプト記4章31節)。
この31節の最後の「ひざまずいてひれ伏した」と訳されている箇所は新改訳2017では「ひざまずいて礼拝した」と訳されています。
ヘブライ語を直訳すれば「首(こうべ)を垂れてひれ伏した」とも訳せます。
「首を垂れてひれ伏す」というのは自分より権威・権力のある人の前に敬意と服従を表す姿勢です。
であると言えます。
ここで注意すべきことは、神様の前に敬意と服従の心をもって「首を垂れてひれ伏す」というのは訳も分からず「ただ周りの人たちがやっているから」という理由で行うものではないということです。
先のイスラエルの長老たちのように、
だと言えます。
結論
神様がイスラエル民族をエジプトでの奴隷状態から救い出そうとされたのは、ただ彼らに自由を与えるためだけではありませんでした。
のです。
私たちの造り主なる神様と私たち人間との間の本来あるべき関係、それは
だと聖書は語ります。
しかしながら、最初の人アダムとエバが神様に対して罪を犯してしまって以来、この神様と人間との間の本来あるべき関係は壊れてしまいました。
しかし
そして
ようになりました。
それは私たち人間の側が関係を回復してもらうにふさわしいことをしたからではありません。
むしろ私たちは罪の虜となり、神様を悲しませることばかり行ってきた存在でした。
にもかかわらず、
のです。
私たちの創造主であり、絶対的な主権をもった王の中の王、主の中の主である神様が私たちをこの上ないほどに高価で尊いと思っていてくださる。
御自分の独り子イエス様の命を十字架に架けても惜しくないほどに愛してくださっている。
その神様の愛に触れられたとき、私たちの内側から神様に対する敬意と服従の念が自然と沸き上がってきます。
その
ものです。
むしろ、イエス様を信じてからが本番です。
ことが求められています。
とはいえもちろん、今のこの世の中にあって、神様の望まれる人生を生きるのは決して簡単なことではありません。
でも、
「世の終わり」が近いことを感じずにはいられない世の中にあって、神様の愛と恵みと憐れみに触れられる人たちがより多く起こされていきますように。
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.