礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。
- 日時:2022年5月8日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「区別する神」
- 聖書個所:出エジプト記10章21節-11章10節1
導入
出エジプト記に記されている「10の災い」(出エジプト記7章14節-12章36節)を通して、
が描かれています。この神様の圧倒的な力は、
ところにも表されています。今日の個所に記されている暗闇と初子の災い(10章23節; 11章7節)だけでなくその他の災いについても多くの場合、イスラエル民族はその被害を免れていたことが明記されています(8章18節[新改訳では8章22節]; 9章4, 26節;比較:7章24, 28-29節[新改訳では8章3-4節]; 8章14節[新改訳では8章18節]; 9章11節; 10章15節)。
今日は、
を共に考えていきましょう。
神の完全勝利
「10の災い」をもたらすにあたって、神様がイスラエル民族とエジプト人たちを区別したことが最初に明記されているのは出エジプト記8章18節(新改訳では8章22節)です。
このとき神様はあぶを送って、エジプトの地が荒れ果てるようになさいました。
当時の人々の多くは、
と考えていました。
エジプト人にはエジプト人に、イスラエル民族にはイスラエル民族に固有の神(神々)がいて、民族間の戦いは、それぞれの民族が崇拝する神同士の戦いとみなされることもありました(参考:サムエル記上5章1-8節;イザヤ書36章18-20節)。
このため、イスラエル人の神様がエジプト人の住んでいる土地に災いをもたらすということはある意味、エジプトに住んでいる神々に対する挑戦であると言えなくありません。
実際、10の災いのうちの幾つかはエジプト人たちが「神」と崇めていたモノを用いてもたらされた災いです。
例えば、エジプト人たちはナイル川や太陽を「神」として崇めていました。
そんな彼らにとって、ナイル川が血に変わったり(7章20-21節)、太陽が輝きを失い全地が三日間も暗闇に覆われたりする(10章22節)ことは、
ことを意味します。
しかも、このような災いがエジプト人だけに降りかかり、イスラエル民族には降りかからない訳ですから、
といえます(比較:12章12節)。
神の絶対的主権
なお、当時のイスラエル民族が住んでいた「ゴシェン」という地方はエジプトの辺境にある土地ではありません。
従って、あぶがゴシェンの地方だけを避け、それ以外の土地に群がるというのは実に摩訶不思議な出来事です。
また、エジプト全土の家畜を襲った疫病もゴシェンに住むイスラエル民族の家畜には被害を与えませんでした(出エジプト記9章4節)。
加えて、雹が降ったり(9章26節)、暗闇が臨んだり(10章23節)という天変地異、初子が死ぬという悲劇もゴシェンの地を避けています(11章4-7節)。
あぶという
を見て取れます。
神の愛と義
エジプトの神々に完全勝利を収める絶対的主権をもった神様がイスラエル民族を区別し、遂にはエジプトでの奴隷状態から救い出そうとされるのは、
でした(参照:申命記7章7-8節)。
神様の愛と恵みと憐れみによってエジプトから救い出されたイスラエル民族はその
ことが求められました。そして
と約束されました(申命記28章)。
なお、この「呪い」の中には疫病(申命記28章21節)や腫れ物(28章35節)、ばった(28章38節)による災いも含まれています。
つまり、
という訳です(比較:申命記28章58-64節)。
ことが分かります。
結論
です。
イスラエル民族がエジプト人から区別され災いから守られたのは彼らが能力・性格的に優れていたからではありません。
倫理道徳的に正しかったからでもありません。
のです。この神様の「救い」は時と場所を超え、現代に生きる私たちにも当てはまります。
現代に生きる私たちもまた、
私たちが神様を愛したからではありません。
神様の御心に適うことをたくさんしたからでもありません。
むしろ、
のです。ここに本当・本物の愛があります(参考:ローマの信徒への手紙5章8節;ヨハネの手紙一4章10節)。
お金や科学的な知識・技術、
過去の功績や仕事のキャリア、
家族や親友・恋人、
はたまた
自分自身でしょうか。
もちろん、それらは全て大切なもの、日常生活から切り離せないものばかりです。
ただ、それら
と言えます。
この世にあるモノ・ヒトは全て一時的なもの、状況によって変わってしまう不安定なものばかりです。
対して、
です。また、たとえ世の中の状況が変わったとしても、その
です。
だから、
何があっても神様を信頼し、神様に従っていきましょう!
と言うのは簡単ですが、現実はそれほど簡単ではないように思います。
意識的であろうとなかろうと、
傾向があるからです。
その理由の一つは、
存在だからだと思います。また、
こともその理由の一つとして挙げられると思います。
しかしながら、神様が自分の願いを直ぐに叶えてくれないからといって神様以外のモノ・ヒトの方に流れてしまうとすれば、それはある意味、
状態と言えなくありません。
神様の思い・願いではなく自分の思い・願いを優先させ、自分の思い・願いを実現するために神様を利用しようとしているからです。
この場合、
となっていると言えます。では、このような
「偶像礼拝」状態から脱却するためにはまず、
ことが大事です。そのような
こと。これが二つ目に大事なことだと思います。さらに
ことを忘れてはいけません。
です(コリントの信徒への手紙二5章17節)。そして、この
ことができます。
のです。
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.