「求めなさい」:2024年10月13日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2024年10月13日(日)
  • 場所:立川福音自由教会
  • 説教タイトル・テーマ:「求めなさい」
  • 聖書個所:マタイによる福音書7章7-11節1
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導入

今回の説教個所はマタイによる福音書7章7-11節とさせて頂きました。

この個所を選んだ理由は、この中の7章7節の御言葉が、

私が救われるに至る、直接的なきっかけを与えてくれた言葉

だからです。

このときの救いに至る体験を通して私は、

神様というお方は私たちの祈りを聞かれ、その祈りに答えてくださる

という確信を得ることができました。と同時に、

神様というお方は私たちが祈れば直ぐにその祈りに答えてくださる訳ではなく、神様のタイミングと神様の方法によって答えてくださる

お方だということも学びました。

今日は、この

私たちの祈りを聞かれ、その祈りに対して神様のタイミングと神様の方法によって答えてくださる

という神様のご性質について、マタイによる福音書の文脈を踏まえながら、もう少し考えたいと思います。

理想と現実のギャップ

今日の聖書個所マタイによる福音書7章7-11節は有名なイエス様の「山上の説教」(マタイによる福音書5章3節—7章27節)の一部です。

今日の個所に至るまでイエス様は様々な教えを弟子たちに向けて語られてきました。その内容を大まかに言えば、

  • 兄弟に対して怒ったり、悪口を言ったりするだけでも裁きを免れることはできない(5章21-22節)
  • 情欲を抱いて異性を見ただけでも姦淫を犯したことになる(5章27-30節)
  • 自分の敵を愛し迫害する者のために祈りなさい(5章43-47節)
  • 神様が完全であるように完全でありなさい(5章48節)
  • 人に見せるために善い行いをしてはいけない(6章1-18節)
  • 何よりもまず神の国とその義を求めなさい(6章19-34節)
  • 人を裁くよりもまず自分の行いを悔い改めなさい(7章1-5節)

といった教え・戒めです。

私の場合、このような

「○○しなさい」

「××してはいけない」

といった話が沢山出て来ると、

段々、気分が沈んできます…

というのは、

自分の人生を振り返ると、なかなかそれらのイエス様の教え・戒めを行うことができない自分に気付かされる

からです。そのような、ある意味、「理想と現実のギャップ」を突き付けられると、どうしようもなく惨めで、情けない気分になってきてしまいます。

「良い物」を与える神

しかも、今日の個所の後の個所でイエス様は、

イエス様の言葉(教え・戒め)を聞いて、それを行う

ことの重要性を強調しています(7章15-27節)。

このため、山上の説教を最初から最後まで通して読んでみると、

自分がどれほどイエス様の言葉を聞いて、それを行うことができていないかを思い知らされ、気持ちが暗く沈んでしまいそうになります。

でも、今日の個所は、神様・イエス様の望まれる生き方ができずに暗く沈んでしまいそうな気持ちに一筋の光を与えてくれる箇所です。

とはいえ、マタイによる福音書7章7-8節でイエス様は弟子たちに対して、

弟子たちが望むものは何でも与えられると言っている訳ではありません。

実際、マタイによる福音書7章11節でイエス様は、

天の父なる神様は求める者に良い物をくださる

と言っています。ここの「良い物」というのは、私たちの目から見て私たちにとって「良い物」ではなく、

天の父なる神様の目から見て私たち人間にとって「良い物」

と言えます(比較:ヤコブの手紙4章3節;ヨハネの手紙一5章14節)。

ギャップを埋める神

では、

神様の目から見て私たちにとって「良い物」とは何でしょうか?

ヨハネの手紙一5章14節には、

神様の御心に適った願いであれば、神様は何事でも聞いてくださる

と記されています。このヨハネの手紙一5章14節とマタイによる福音書7章11節を比べてみると、神様の目から見て私たちにとって「良い物」というのは

神様の御心に適ったコト・モノ

即ち、

神様が私たちに願い求めているコト・モノ

神様が私たちに身に着けて欲しいと願っているコト・モノ

神様が私たちに手に入れて欲しいと願っているコト・モノ

と言えます。

それは、「山上の説教」の文脈の中で考えると、

イエス様の教えをただ聞くだけでなく、イエス様の教えを聞いて、それを行う

ことです。その意味で、神様の御心に適った祈りというのは、

神様の求める理想と現実のギャップにもがき苦しみながらも、そのギャップをどうにか埋めることができるようと神様の助けにすがる祈り

だと言えます。

理想と現実のギャップの狭間でもがき苦しみながらも神様の前にへりくだって、その助けにすがるとき、

私たちの知恵や力ではどうしようもならなかったギャップが神様の知恵と力によって、少しずつ埋められていきます。

結論

私たちの目からではなく、

父なる神様の目から見て私たち人間にとって「良い物」を願い求めるとき、神様はそれを与えてくださいます。

神様の目から見て私たち人間にとって「良い物」というのは「神様の御心に適ったコト・モノ」

それは、「山上の説教」の文脈で言えば、イエス様の教えをただ聞くだけでなく、

イエス様の教えを聞いて、それを行う

ことです。別の言い方をすれば、「山上の説教」に記されているような、

神様の望まれる生き方をしようと神様に助けを願い求めるとき、神様はその願いに答えてくださる

ということになります。

ここで大事なことは、

自分の知恵や力、努力によっては神様の望まれるように生きることは到底、不可能だと認める

ことです。

神様の前に自分の無力さ、至らなさ、罪深さを覚え、そんな自分をも変わらずに愛し続けてくださっている神様・イエス様の愛に気付かされる

ことが大切です。

神様・イエス様はあなたが何かできるから愛してくださるのではありません。

あなたが特別な才能を持っているから愛してくださるのでもありません。

あなたが何か特別なことを成し遂げたから愛してくださるのでもありません。

もちろん、あなたが何かできるようになることを、神様は誰よりも喜んでくださっています。

でも、

たとえ何度となく失敗することがあったとしても、

神様はあなたを変わらずに愛してくださっています。

たとえ何度となく神様の期待を裏切ってしまうようなことがあったとしても、

神様はあなたを変わらずに愛してくださっています。

もう今度こそは神様も自分に愛想をつかしてしまったに違いないと思うようなことをしてしまうことがあったとしても、

神様はあなたを変わらずに愛してくださっています。
神様の愛からあなたを引き離すことができるものは何もありません。

たとえ何があったとしても、

どんなことをしてしまったとしても、

神様はあなたが悔い改めて、神様のもとに立ち返ってくるのを待ってくださっています。

その

決して変わることのない無条件の愛を示すために、まだ罪人であった私たちのために、イエス様は十字架で死んでよみがえってくださいました(ローマの信徒への手紙5章8節)。

そして、

今も生きて私たちと共にいて、私たちを守り導いてくださっています。

私が救われたときの体験に関して言えば、救われる前に私が神様に願い求めたことは

神様が本当にいるのなら、その姿を私に分かる形で表してください

というものでした。

これは明らかに、イエス様の教えを聞いて、それを行うことができるようになるように求めるものではありません。

けれども、ある意味で神様の御心に適ったものであったと言えるかもしれません。

というのは、このときの私の祈りは、

壊れてしまっていた神様との関係の回復、つまりは「救い」、を求める祈り

だったからです。

神様の御心、神様が私たち人間に願い求めていることの最たるものは、

私たちが悔い改めて、イエス様を信じ、永遠の命を得る

ことです。

もしあなたが今、神様・イエス様のことがまだよく分からず、イエス様を信じる決心がつきかねているのであれば、是非、

神様・イエス様のことをもっとよく分かることができるように祈り求めてみてください。

直ぐに答えは得られないかもしれません。

でも、神様はきっと私の時と同じように、神様のタイミングと神様の方法であなたのその祈りに答えてくださいます。

また、もしあなたが今、親戚や友人・知人の救いのために祈っていらっしゃるのであれば、

希望を捨てることなく、その救いを求め続けてください。

イエス様はあなたに

求めなさい

と言ってくださっています。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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