礼拝説教の要旨です。
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- 日時:2018年11月25日(日)
- 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「強く雄々しく忠実に」
- 聖書個所:ヨシュア記1章1-9節
1主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。 2「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。 3モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。 4荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。
5一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。 6強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。 7ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。 8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。 9わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)340頁1
導入
今日の箇所を読んで、すぐに目につくのは「強く、雄々しくあれ」という言葉。今日の箇所には三回、繰り返されていますので(6, 7, 9節)、ヨシュア記1章では「強く、雄々しく」あることが非常に強調されています。
この「強く、雄々しくあれ」という言葉が向けられているのはヨシュアという人物。このヨシュアに神様は、彼の先祖アブラハムに与えると約束していた土地にイスラエルの民を導き入れるようにお命じになっています(2-4節)。
この使命はそもそもはモーセに与えられていた使命でした。しかしこのとき、イスラエルの民は約束の地に入るどころか荒野で40年間さまよっていました。その理由は、イスラエルの民が約束の土地を目の前にして神様よりもその土地の住民たちを恐れてしまったからです(参照:民数記13-14章)。
絶えず共におられる神
ここに、聖書の凄さ・人間臭さが表れています。
神様が恵みによって選ばれたイスラエルの民はエジプトを出るとき、様々な奇跡的な体験を通して神様の偉大さ・素晴らしさを身に染みて感じていたはずです。にもかかわらず、彼らは約束の地を前にして神様ではなくそこに住む人々の方を恐れたのです。
また、神様がいつも共におられ、様々な奇跡を行ったモーセですら、その人生において100%完全に神様に従うことはできませんでした(参照:民数記20章7-12節)。
ここに、ある意味の希望・慰めを感じずにはいられません。
イエス様を信じ従おうとするとき、神様の霊である聖霊が私たちのうちに住んでくださって、イエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。そして時には、偶然や「たまたま」では到底説明しきれない奇跡的な出来事を経験することもあります。
しかし、それでもなお、私たちは100%完全に神様に従うことができないのです。神様が望んでおられないことをしてしまいますし、事あるごとに神様の期待を裏切ってしまう不完全で弱い存在です。
神様に対して不誠実であるが故に、イスラエルの民と同じく、私たちもまた荒野でさまようような辛い体験をすることがあります。しかし、かといって、神様が私たちを見捨てた訳ではありません(比較:申命記2章7節)。
が、もちろん神様は、私たちが自分たちの好き勝手にしているのを良しとしている訳ではありません。私たちが悔い改めて神様のもとに戻って来るのを待ち続けてもおられます。
必ず計画を成す神
また、仮に私たちが神様の望まないことをしてしまったとしても、それによって神様の御計画が壊れてしまうことはありません。
です(比較:ヨシュア記)。
ただし、神様は約束したことを必ず果たすとはいっても、そのタイミングと方法は神様のタイミングと方法によります。従って、私たちが思い描いていた通りに物事が進まないことがほとんどです。
しかし、たとえ問題や苦しみの渦中にいるときには分からないとしても、後から振り返ってみると、確かに神様は御自分の計画を一つずつ着実に果たしていかれていくお方であることに気付かされます。
神様のタイミングと方法によって、全ては間違いなく「益」となるように共に働くのです(参考:ローマ8章28節)。
忠実さを求める神
神様は御自分が人間に約束されたことを誠実に果たされるお方です。が、と同時に、
今日の箇所でヨシュアは、これから神様が与えると約束してくださった土地の住民と戦って、その土地を奪い取ろうとしていました。私たちの常識で考えれば、「強く、雄々しくあって、敵対する人々を打ち倒しなさい」と言いたくなる場面です。
が、しかし神様は、約束の地での戦いに勝利を得るため、つまりは御自分の御旨・御計画を果たすため、ヨシュアに「強く、雄々しくあって、神様の教え・律法に忠実でありなさい」(7節)とお命じになっています。
しかし、そもそものところ、私たちに人を救うことはできません。救うのはあくまでも神様です。私たちは神様が御自分の御計画を果たすために用いてくださる器に過ぎません。しかも、その器は完全な器ではなく不完全な欠けだらけの器なのです。
でも、
のです。
結論
神様は、私たちが神様に忠実であろうがなかろうが、いつも私たちと共にいて下さるお方。御自分の交わした約束やあらかじめ定めた御計画は必ず果たされるお方です。また、イエス様を信じて神様の子とされた私たちに対して、どんな苦労や困難に直面しようとも、強く雄々しくあって神様の教えに忠実であるようにと願っていらっしゃいます。
その神様の教えとは、最も広い意味では神様と人を愛することです。そして、
のです。
と、言うのは簡単ですが、もちろん、神様と人を愛するのは簡単なことではありません。しかし、だからこそ神様はおっしゃるのです。
と。
それでもやはり、これまでの説教でも何度となく「神様はいつも共にいてくださる」というのは聞いていたし、頭では分かっているつもりだけど、実際に困難や問題に直面してみると「神様が共にいてくださる」という実感が湧かず不安に思う方がいらっしゃるかもしれません。
確かに、辛いときや悲しいとき、困難や問題に直面しているときには神様の存在を感じることが難しくなります。
と叫びたくなってしまいます。でも、そんなときにこそ、
今でこそ十字架はアクセサリーにも使われていますが、2000年前のローマ帝国においては極悪人の処刑の道具。当時の人々に忌み嫌われていた悪と苦しみの象徴でした。しかし神様は、十字架という誰もが忌み嫌っていた処刑の道具を全人類を救うという最良の「益」をもたらす道具へと変えてしまったのです。イエス様の十字架こそ、
だと言えます。
また、神の独り子であるイエス様御自身が、私たちが受けるべきだった神の怒りをその身に受けられ、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)と叫ばれました。
イエス様御自身が私たちの辛さ悲しさ苦しさ痛さを経験してくださったのです。イエス様ほど私たちの辛さ悲しさ苦しさ痛さを知っている人は他にいません。
私たちの主イエス・キリストの愛と恵みと憐れみが、私たちという欠けだらけの器から溢れ流れ、周りの人々を潤すことができますように。
参考文献および注釈
- Howard, David M. Joshua. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 1998.
- Hubbard, Robert L. Joshua. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2009.