礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2021年4月25日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「罪の奴隷か神の奴隷か」
- 聖書個所:ローマの信徒への手紙6章15-23節1
導入
年明けからずっとローマの信徒への手紙からの説教が続いています。これまで見てきたローマの信徒への手紙の内容の中で大きなテーマの一つは
ということ。専門用語で「信仰義認」です。でも、努力や行いではなく、神様の恵みによって、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われると聞くと、
と思う人が少なからずいらっしゃると思います。
実際、そのような考え・思いは、現代の日本に生きる私たちだけではなく、2000年前のローマ帝国に生きたクリスチャンたちも持っていたようです。
今日は
共に学んでいきたいと思います。
罪か義か
今日の聖書個所の初めにパウロは
しています(ローマの信徒への手紙6章15節)。
パウロによると、私たちは
でした(17節)。けれども、
となりました(18節)。それだから、
とパウロは語っています。
ここで注意が必要なのは「奴隷」という言葉だと思います。
ローマの信徒への手紙の6章で「奴隷」と訳されている言葉は他の聖書個所では「僕(しもべ)」とも訳される言葉です(例:マタイによる福音書25章1-30節)。
ローマの信徒への手紙6章の文脈をみると、
という意味合いで用いられていることが分かります(参考:ローマの信徒への手紙6章6-7, 12-14, 16-20節)。
ですから、「奴隷」というよりも実際は「執事」や「メイド」というイメージに近いように思います。
いずれにしても大事なことは、
ということです(6章16節)。
死か命か
パウロはローマの信徒への手紙6章16節で
と言っています。さらにパウロは20-21節で
だと言っています。対して、
だと言っています(22-23節)。
「死」に対して「永遠の命」が対比されていることから、ここでパウロの意味する「死」とは単に肉体的に死ぬことではなく、永遠の懲らしめ(刑罰)としての死であることが分かります(参考:マタイによる福音書25章41-46節;ヨハネの黙示録20章10, 13-15節)。
罪の奴隷が結ぶ実(ローマの信徒への手紙6章21節)について、例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節には
淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのもの
【ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節】出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)343頁
が挙げられています。対して、
その聖霊に導かれて歩む神の奴隷が結ぶ実(ローマの信徒への手紙6章22節)は
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制
【ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節】出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)343頁
です。これは、一言で言ってしまえば、
と言えます(コリントの信徒への手紙二3章18節)。
結論
この世に生きる私たちは
そのどちらしかないと聖書は語ります。
私たちは皆、イエス様を信じ、神様の前に正しい(義)と認められる前は「罪の奴隷」で、神の怒りを免れることができない存在でした。
その行き着く先は永遠の懲らしめ(刑罰)です。
しかし、
その行き着く先は永遠の命です。
それだけではありません。
その聖霊の助けと導きによって私たちは日々、
のです。
と言われても、です。
そもそものところ、
方がいらっしゃるかもしれません。むしろ
と思われる方は多いのではないでしょうか。
確かに、私たちには自由が与えられています。ですが、問題となるのは、その
です。
あなたにはどんな犠牲を払ってでも喜ばせたいと思う人はいないでしょうか。
どんな犠牲を払ってでも大事にしたいと思う人やモノ、絶対に手に入れたいと願う人やモノはないでしょうか。
もちろんそれらは全てあなたの人生において大事なものです。しかしながら、
といえます。特に、あなたが仕え従っているものが神様以外の何・誰かであるとき、それはあなたの人生の「偶像」であり、あなたは「罪の奴隷」となっていると聖書は語ります。
もしそれが神様以外の何・誰かであるならば、神様を中心とした生き方に改めてほしいと神様は願っていらっしゃいます。
ただし、そのような
神様は教会内だけでなく、私たちの生活全てに関わっておられるからです。
それが聖書の語る「神の奴隷」としての生き方です。そして、そのような
とはいえ、残念ながら、
時には、神様の望んでおられない選択をしてしまうことがあるでしょう。
知らず知らずのうちに、神様以外の何・誰かを人生の中心に置いてしまっていることもあるでしょう。
そんなときは
そして、
自分の非を認めて謝り、過ちを償うというのは誰に対しても、何歳になっても難しいものです。でも、そのようなときにこそ、
きっと聖霊は人間関係の修復に必要な勇気と力を与えてくださいます。
また、時として
もしくは、
クリスチャンとしての義務感から「-しなければならない」または「-してはならない」という思いで毎日を過ごしているならば、そこに喜びはありません。
ですから、喜びに満たされた生活を送るためには
必要があります。
と同時に、
イエス様のように生きることが神様に造られた人間本来の生き方だからです。
と言われても、
確かに、それは人間の力や努力では実現不可能なことです。が、
のです。
参考文献および注釈
- Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
- ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
- Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.