「あるべき姿」:2021年2月7日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

私たちの人生には苦難・苦労がつきものです。

クリスチャンであろうとなかろうと誰もが人生における苦しみや悲しみ、痛みを経験します。そのような辛い出来事を経験すると誰もが

なぜ自分ばかりこんな目に遭うのか。神様は一体何をしているのだろうか?

と疑問に思いたくなってしまいます。

全知全能で愛なる神様がいるんだったら、なぜこの世から全ての苦しみや悲しみ、痛みをなくしてくださらないのだろうか?

と思う人もいるでしょう。今日の聖書個所はそのような私たちの疑問に対して、一つの答えを与えてくれる個所となっています。

今日、皆さんと共に考えたいことは二つです。一つ目は、

なぜこの世は苦しみや悲しみ、痛みに満ちているのか?

そして、

そのような世の中の苦しみや悲しみ、痛みに対して聖書の神様はどのような解決策を与えてくださっているのか?

です。

被造物に認められる神性

今日の聖書個所は「そこで」という言葉で始まっています(ローマの信徒への手紙1章24節)。このことから、今日の話はそれまでの話(18-23節)の続きであることが分かります。

それまでの話の内容を一言でいえば、

異邦人たちが行っている「偶像礼拝」について

です。

偶像礼拝とは、聖書の神様を神様として崇めず、感謝もせず、かえって神様以外の他のモノを拝み仕えること

です(21-23, 25節)。この個所で面白いのは異邦人たちもまた聖書の神様のことを知っているとパウロが語っているところです(19-20節)。

現代においては科学技術が発達したため、非科学的なもの(科学が証明できないこと)は存在しないと公言する人が増えています。

私もそのような科学至上主義の一人でした。

けれども、そのような科学優位の時代にあっても日本では多くの人が占いを気にしたり、神社仏閣で厄除けをしたり、お守りを買ったりします。

ほとんど無意識のうちに、

目に見えない非科学的な何か、自分たちの力(科学)ではどうにもできない何かの存在を感じている

ことの表れだと言えます。被造物の中に確かに認められるその「何か」をパウロは「神性」という言葉で表現しています。

神を神として崇めない人々

日本には「八百万の神々」がいると言われています。この世には数えきれないほどの「神」が存在しているという信仰です。

このため、人間も含め色々なモノが「神様」として神社に祀られています。

まさに

不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えた【ローマの信徒への手紙1章23節】

出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)269頁

のが日本人だと言えます。

ここで注意したいことが一つあります。

それは、

聖書の語る「偶像礼拝」は文字通りの「偶像」を拝むことだけを意味していない

ということです。

お金や権力、家族や親友、人から認められることや愛されることなどなど、あなたの人生において、

神様以上に大事なものがあるとすれば、それらはあなたの「偶像」

となってしまっているかもしれません。また、科学や占いなど、

神様以上に頼りにしてしまっているものがあるとすれば、それらもまたあなたの「偶像」

だと言えます。なお、ここで私は

科学的知識を否定している訳ではありません。

私自身、科学者を志していましたし、いまでも科学は大好きです。しかしながら、

聖書の神様は、科学が対象とする天地万物そのものを創造されたお方です。

言うなれば、

神様は科学そのものを造り出したお方

とも言えます。

医学やITだけに頼るのではなく、それらを上手く利用しながら、最終的にはそれら全てを創造されたお方を信頼することが大切

です。

あるべき姿でなくなった世界

では、

聖書の神様を神様として崇めず、感謝もせず、かえって神様以外の他のモノを拝み仕えるとどうなるのでしょうか?

その答えが記されているのが今日の聖書個所です。特にパウロはローマの信徒への手紙1章29-31節で、人々が様々な悪を行うようになったと説明しています。

人々が神様を神様として崇めず、感謝もせず、神様以外のモノをより大事にしたり神様以上に信頼したりすることは、神様と人間との間の本来あるべき姿ではありません。

神様と人間との本来あるべき関係は、人間が創造主なる神様を神様として崇め、感謝し、ほめたたえるという関係

です(21、25節)。しかし、

その本来あるべき関係が壊れた結果、この世の中もまた本来あるべき姿ではなくなってしまった

のです。ここに、冒頭で投げかけた一つ目の問い「なぜこの世は苦しみや悲しみ、痛みに満ちているのか」に対する答えがあります。即ち、

私たち人間が神様を無視し、否定し、神様ではない他のモノを「神」としている。その結果、この世はあるべき姿でなくなってしまい、あらゆる苦しみや悲しみ、痛みに満ちるようになった

のです。そして、そんな

私たちを最終的に待ち受けているのは、終わりの日に神様の怒りと憤りが下されることによって迎える霊的な「死」

です(32節;参考:ローマの信徒への手紙2章5-8節;6章23節)。

結論

この世は苦しみや悲しみ、痛みで満ち溢れ、私たち人間は最終的に霊的な「死」を迎える定めにありました。

それは、私たちが行う「偶像礼拝」という「罪」が招く必然的な結果です。

仮に神様が何もしてくれないとしても、私たち人間は神様に文句を言える立場にはありません。

が、しかし、

神様はそんな私たちを見捨てることをなさらない愛と恵みと憐みに満ちたお方

です。事実、

私たちをこの世の苦しみや悲しみ、痛み、そして霊的な「死」から救い出すために、神様の独り子イエス様が十字架に架かり、死んでよみがえってくださいました。

私たちが救われるのはただ一方的な神様の恵みによるものです。

私たちに求められているのは、イエス様を救い主と信じ、従おうとする信仰だけ

です。

私たちは皆、神様の前には不完全で弱い罪人

に過ぎません(比較:ローマの信徒への手紙1章29-31節)。

にもかかわらず、

神様はそんな不完全で弱い私たちをお見捨てにならない

のです。お見捨てになるどころか、

神様ご自身が人の形をとってこの世に来られ、私たちが体験する以上の苦しみや悲しみ、痛みを自ら経験されました。

それ故に

神様・イエス様は、この世で私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛みに寄り添うことができる

のです(参考:ヘブライ人への手紙2章18節)。

残念ながら、この世で生きる限り私たちはこの世の苦しみや悲しみ、痛みから逃れることはできません。けれども、

イエス様はいついかなるときも私たちと共にいて、私たちを励まし、慰め、前に進む勇気と力を与えてくださいます。

また、イエス様を救い主と信じ従おうとする私たちにはこの世にあって、決して消えることのない希望があります。それは

イエス様が再びこの世に来られる終わりの日、二度と死ぬことのない栄光の体をもってよみがえり、新しい天地で神様と共に永遠に過ごすという希望

です(参考:コリントの信徒への手紙一15章51-55節;ヨハネの黙示録21章1-4節)。そのとき、

人間だけでなく全ての被造物は本来あるべき姿へと回復されます(参考:ローマの信徒への手紙8章18-23節)。

ある意味、

神様が初めに天地万物を創造されたときの「極めて良かった」(創世記1章31節)状態が回復される

のです。

これこそが神様が最終的にもたらそうとされているこの世の救いです。

その保証となるのがイエス様の復活です(参考:コリントの信徒への手紙一15章20-26節)。

今、自分のうちに

神様以外の「偶像」がないか

を探ってみてください。

神様より大事にしているものはないでしょうか。

神様以上に信頼してしまっているものはないでしょうか。

神様の恵みによって生かされていることを忘れ、自分の力や努力によって生きているかのように思うことはないでしょうか。

神様を神様として崇めず、感謝もせず、神様以外のモノをより大事にしたり神様以上に信頼したりすることがあるならば、今一度、

神様のもとに立ち返ってください。

その過ちを認め、神様のもとに立ち返るならば、真実で正しい神様はあなたを赦し、あらゆる不正から清めてくださいます(ヨハネの手紙一1章9節)。

もし今現在、苦しみや悲しみ、痛みの只中にいらっしゃるならば、

イエス様の十字架と復活を思い起こしてください。

あなたの苦しみや悲しみ、痛みを誰よりもご存知なお方がいつもあなたの傍にいて、あなたを慰め、励まし、力づけてくださっています。

あなたの経験している苦しみや悲しみ、痛みは永遠に続くものではありません。

いつの日か

神様ご自身があなたの目から涙をことごとく拭い去ってくださる

日がきます(ヨハネの黙示録21章3-4節)。その日は

全てのモノが本来あるべき姿へと回復される日、完全なる救いがもたらされる日

です。

参考文献および注釈

  • Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
  • Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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