礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年2月13日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神のしるし」
- 聖書個所:出エジプト記4章1-9節1
導入
皆さんは神様に対して
または
といった形の「しるし」を求めたことがあるでしょうか(例:もしAさんが神様の御心にかなう結婚相手なら、明日、Aさんから連絡があるようにしてください)。
個人的には、神様に何らかの「しるし」を求めるということはあまり良いことではないと考えます。
その動機・目的が何であれ、神様に対して何らかの条件を持ち出し、神様がその条件を呑んでくれれば行動を起こすことは、自分を神様と同等もしくはそれ以上の立場において神様と交渉していると言えなくはないからです。
とはいえ、もちろん、
です。今日は神様がモーセに与えた「しるし」を通して、
を共に考えたいと思います。それによって、日常生活における神様の御業や御心を知る手がかりを得ることができればと思います。
しるしを与える神
今日の個所は出エジプト記の3章から話が続いています。
モーセはホレブという山で神様から、
告げられました(出エジプト記3章7-10節)。
しかし、モーセはその神様からの命令に従うことを躊躇します。
それもそのはず、モーセは殺人を犯して40年間も国外逃亡していた人間です(出エジプト記2章11-22節; 使徒言行録7章30節)。
そんな自分がある日突然、イスラエル民族を救い出すために帰ってきたと言ったところで、誰もその話を信用するはずがありません。
ですからモーセは、
と神様に訴えかけます(出エジプト記4章1節)。
このとき、既に神様はモーセに
とおっしゃっていました(出エジプト記3章18節)。
にもかかわらず、
モーセは、人々は自分の言うことを聞かないだろうと言っている訳です。
神様に対する確固たる信仰よりも恐れや不安を強く感じているモーセの姿が見て取れます。
神様はそんなモーセを非難するどころか、彼の訴えを聞き入れ三つのしるしをお与えになられます。
を感じます。
神様がモーセにお与えになった三つのしるしの一つ目は、モーセの持っている杖を地面に投げるとそれが蛇に変わり、その蛇のしっぽをつかむと元の杖に戻るというもの(出エジプト4:3-4)。
二つ目のしるしは、モーセが手を懐に入れるとその手が既定の病に冒され、再び手を懐に戻すと手が元通りになるというもの(6-7節)。
三つ目のしるしは、ナイル川の水を汲んで乾いたところに注げば、その水が血に変わるというものでした(9節)。
です。
神のしるし
杖が蛇に変わって元に戻る。手が既定の病にかかって元に戻る。ナイル川の水が血に変わる。これら三つのしるしに共通していることは、
そして、
です。このことから、
であることが分かります。言うなれば、
だとも言えます(比較:コリントの信徒への手紙一1章26-29節)。
それが聖書の神様です。
時に神様は私たちには到底できそうにないと思うことをお命じになられます。
けれども、神様はあなたが独りでそのことを成し遂げるように突き放すようなお方ではありません。
そして、
のです。そうすることで、
しるしと信仰
神様がモーセにお与えになった三つのしるしに関してもう一つ、非常に興味深いことがあります。
実は、この三つのしるしの中で
と後の聖書個所に記されているのです(出エジプト記7章11, 22節)。そして、そのために
とも記されています(出エジプト記7章13, 22節)。
ことが分かります(比較:ヨハネによる福音書6章66節)。
結論
モーセは神様の言葉を信じ切れず、人々が自分を信じてくれないのではないかという不安と恐れを抱いていました。
愛と憐れみに富む神様はそんなモーセを咎めるどころか、彼の訴えを聞き入れ、彼に三つのしるしを与えられました。
それら三つのしるしから神様について分かること、それは
お方だということ。別の言い方をすれば、
お方だと言えます。また、神様のしるしを見た人が皆、神様の存在や御業を認める訳ではないことから、
と言えます。
自分の人生における神様の御業や御心が何かを知ろうとすることはとても大切なことです。
しかしながら、
ようにも思います。
実際のところ、
と個人的には感じます。
では、神様の御心を求めることなく、ただ自分の思う通りに生きてよいのかというと、もちろん、そういう訳ではありません。
人生の中で大きな決断をするときはもちろん、些細なことであっても
です。
祈りの中で、聖書の言葉や経験豊かなクリスチャンの先輩たちのアドバイス、自分に与えられている賜物や置かれている環境なども考えながら、心に平安や確信があるかどうかを探ろうとすることも必要でしょう。
ただ、そうすることで毎回、平安や確信が与えられればよいですが、どうやっても平安や確信が与えられないときがあるかもしれません。
祈っても、祈っても、神様の御心が何か分からない。
神様の御業がはっきり見えない。
そんな状況に陥ることがあるかもしれません。
決断を先送りするという選択肢があれば、先送りすることもできます。
けれども、時間的な制約などから、何らかの行動を取らざるを得ない場合もあると思います。
そのような場合に陥ったとき、絶対に忘れないでください。
その決断によって、何らかの失敗を犯したり、損害を被ったりすることがあるかもしれません。
思わぬ悲しみや苦しみに巻き込まれることがあるかもしれません。
周りの人たちをより不幸な状況に陥らせることになるかもしれません。
でも、その結果がどのようなものになったとしても、
神様に対して真摯に真剣に祈り、神様に全てを委ねた上で行動したのであれば、仮に「失敗」してしまったとしても気にすることはありません。
お方だからです。その意味であなたの思う「失敗」は失敗とは言えません。
むしろ
お方です(参考:マタイによる福音書25章14-30節)。
そして
ことでしょう。
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.