前回のブログ記事では、日本のキリスト教界における「1%の壁」の原因について考えました。
詳細は上記ブログ記事に譲りますが、キリスト教界における「1%の壁」というのは、
という事実を表す表現です。
この「1%の壁」の主な原因として、上記ブログ記事では以下の二つが考えられることを見ました。
- 洗礼者(受洗者)の数が増えない
- クリスチャンが教会に根付かない
これらの原因を更に深掘りすべく、今回および次回の二回に分けて、それぞれ
について、プロテスタントの視点から大きく以下の三つの領域に分けて考えていきます。
- 教会の体質に係る諸問題
- 教会の指導者(牧師)に係る諸問題
- 日本特有の伝統・文化に係る諸問題
なお、
あくまでも、
ことを目的としています。
全ての問題がある特定の教会・指導者に当てはまる訳ではありませんし、
ある問題が全ての教会・指導者に当てはまる訳でもありません。
また、
となっています。
「1%の壁」に関する諸問題についての関連書籍を全て検証した訳ではありませんので、内容に偏りがあると感じる方がいらっしゃれば、参考書籍をご紹介いただけますと幸いです。
話の流れは以下の通り。
目次 [非表示]
教会の体質に係る諸問題
牧師中心主義な教会
日本において、
について、「教会の体質」という視点から考えてみるとき、まず注目したいのが
です。1
なところがあると個人的には感じています。
実際、ある人にどこの教会に行っているのかを尋ねると教会名(××教会)ではなく
と答える人は少なくありません。
この答えの背景にあるのは、どこの教会に行っているかよりも、
だという考え方です。
もちろん、牧師は教会の指導者的役割を担いますので、誰が牧師を務めているかは教会を選ぶときに重要な要素の一つとなります。
また、日本では一つの教会に複数の牧師がいることは例外的で、一つの教会には牧師が一人(または牧師夫婦が一組)だけというのが大多数です。
そのため、
とみられても致し方ないところがあります。
しかし、誰が牧師をしているかを第一に考えて教会を選ぶ人の中には、その
ように思います。
こうなると、極端な話、
と疑わしく思えてしまいます。
また、牧師を理由に教会を選ぶ人は、
ところがあります。
その傾向が強くなると、その牧師の言うこと・教えることが絶対に正しく、それ以外の人の言うこと・教えることに耳を傾けようとしなくなってしまうといったことも起こりかねません。
そうなると、ある意味、
ことになってしまいます。2
そのような牧師また教会の状況を客観的かつ冷静に見ることができる人は、その教会の一員になろうとはしない(洗礼を受けようとはしない)でしょう。
また仮に、その牧師に圧倒的なカリスマ性があって、その牧師によって多くの人が洗礼を受けるようになったとしても、その人の信仰は実際のところ、神様に対してではなく、その牧師に対するものかもしれません。
その牧師が教会からいなくなったり、その牧師の言動に不満を覚えるような出来事があったりすると、教会に通わなくなってしまうことも十分にあり得ます。3
いずれにせよ、
傾向があります。
それ故に、
可能性を含んでいます。
このような「牧師中心主義的な教会」のもう一つの特徴は、
だということです。4
教会全体に染み渡った受け身的な態度は伝道(布教)・牧会の面で色濃く現れます。
それは
という態度です。
このような、牧師一人(もしくは牧師夫婦一組)に依存する伝道・牧会体制では、教会はある程度以上、決して大きくなれません。
からです。
事実、日本のプロテスタント教会において、一教師(牧師や宣教師)当たりの信徒数が約64.5人なのは、信徒の教師に対する依存度(もしくは教会の牧師中心度)の高さを表していると言えます。5
他方、カトリックでは一教師(司教や司祭など)当たりの信徒数が約338.5人となっているのは、教師だけでなく教会全体で組織的に伝道・牧会していることを反映しているように思います。6
牧師が何でもする教会(信徒が何もしない教会)は、牧師が元気なときは良いですが、
特に牧師は孤独な職業です。
信徒の相談にのることはあっても、自らの問題を信徒に相談することはまずありません。
一旦、牧師が疲れを覚え、ストレスに押しつぶされ、燃え尽きてしまうようなことがあれば、牧師に依存している教会は立ち直りようがありません。
日本の教会全体を覆う疲労感や閉塞感の原因の一つには、このような「牧師中心的な」教会の体質があるように思います。7
ようになれば、日本の教会はもっと活気にあふれ、洗礼者の数も増えていくでしょうし、教会員の数がある特定の牧師に進退に大きく依存することもなくなるのではないかと個人的には考えます。
自己中心的な教会
日本の教会の体質の一つして、教会自体の自己中心性を挙げることができます。8
ここでいう「教会自体の自己中心性」というのは、
を指します。
日本には教会(および教会員)の数の少ない教団・教派が多数存在していますが、それは
結果だと思われます。9
ただでさえクリスチャン人口が少なく、教会に集う信徒数も少ないプロテスタント教会が、その地域の必要に単独で答えていくことは不可能です。
とりわけ、現代の社会は多様性が重んじられる社会です。
教団・教派を超えた宣教協力がこれまで以上に求められる時代だと言えます。
ことで、キリスト教界全体の受洗者の数は増えていくのではないかと思います。10
知識中心主義な教会
江戸時代の末期に日本が開国してから日本で初めてプロテスタントのクリスチャンとなった人の多くは武士階級だったと言われています。11
武士階級は当時の特権階級でした。
そのため、
となりました。
それは即ち、一般大衆からすれば「敷居の高い」教会でもありました。12
現代においても、教会というのはどこか一般人とは異なる清らかで高貴な「聖人」が集まる場所といったイメージがあるのは、この歴史的な経緯が関係しているかもしれません。
また、武士階級は知識階級でもありましたから、
となっていきます。13
そのことは英語のchurchを日本語で「教会」、即ち「教える会」と訳したことや牧師を「先生」と呼ぶことにも表れています。
牧師が語る聖書のメッセージ(英語でsermon)も「説教」、つまりは「教えを説く」と訳されています。
教会に集う人たちが特権階級かつ知識層ということで、
ようになります。14
結果、
実際、日本の教会はかつて「学生の教会」または「議論する教会」と呼ばれ、多くの学生が集まっていました(最近は、学生はもちろん、若い世代の人々をほとんど見かけなくなっています)。15
彼らの多くは学生時代には熱心に聖書を学び、洗礼も受けますが、大学を卒業して社会人となったり、結婚して家族ができたりすると教会に来なくなり、「卒業信者」と揶揄されたりします。16
「卒業信者」と呼ばれる人たちにとってキリスト教はある意味で、
に過ぎなかったのかもしれません。
そのため、
訳です。
いずれにしても、
と思われますから、洗礼を受ける人の数が多くない(増えない)のも納得ができます。17
また、仮にそのような限られた人の中から洗礼を受ける人がいたとしても、その理解のほとんどは観念的・理想的なものに留まっているのでないかと思われます。
一旦、
人がいたとしても不思議ではありません。
求められているのは
だと感じるのは私一人ではないと思います。18
専門用語が乱立する教会
教会に何度か足を運んだことのある方は経験があると思いますが、教会では
「罪(つみ)」
「罪人(つみびと)」
「贖(あがな)い」
「贖罪(しょくざい)」
「救い」
「交わり」
「献身」
「奉仕」
といった、普段の生活ではまず聞くことのない言葉をたくさん耳にします。
加えて、キリスト教において重要な
「神」
「愛」
「罪」
といった概念は、日本社会で一般的に認識されている概念とは大きく意味合いが異なるものばかりです。
もちろん、
仏教や神道などにも日常生活ではまず耳にすることのない宗教的専門用語はありますし、
一般的な理解とは意味合いの言葉が用いられている場合もあります。
このため、
しかしながら、
初めて教会に来られた方やキリスト教についてよく知らない方に対して気配りや配慮を一切することなく、
これらの専門用語を教会内の当たり前の共通言語として用いるのであれば、
です。
教会内においても身内だけに分かる言葉(宗教用語)で話すのでなく、
必要があるのではないかと思います。19
「神の国」を語らない教会
日本のプロテスタント教会の中には、先にも見たように、知識偏重型でキリスト教を観念的に理解することを好む傾向のある教会が存在します。
このことは、世の中の社会問題(現実)にあまり関心を示さず、教会が大きくなることに注力してきた戦前、戦中のキリスト教界の歴史とも重なります。20
しかしながら、
というのも、イエス様は「主の祈り」(マタイによる福音書6章9-13節)において、
からです(マタイによる福音書6章10節)。
しかもイエス様はただ弟子たちに神の国がこの地の上に来るように祈ることだけを勧めた訳ではありません。
イエス様は実際に「神の国」がこの地の上に来るように、
人々から悪霊を追い出し、
病をいやし、
当時の社会において行き場のない人や虐げられている人、いわゆる「社会的弱者」と進んで関係を築き、
彼らの「友」となられました(例:マタイによる福音書4章23-24節; 9章9-13節)。
教会内に多くの人が集い、神様を礼拝することはもちろん大切なことです。
と同時に、
ことも求められています。21
ようです。
その理由の一つは恐らく、
からではないかと思われます。22
戦後においても、「神国日本」という伝統的な考え方との対立・衝突を避けようとする意識がどこかで働き、「神の国」に関する神学が発展しなかったのかもしれません。23
なお、日本のプロテスタントの中で最も信徒数の多い日本基督教団の中には「教会派」と「社会派」の対立が存在しています。24
「教会派」は社会問題の解決よりも教会が大きくなることを主目的に置きますので、内向き志向で自己閉鎖的になりがちです。
「社会派」は教会が大きくなることよりも社会問題の解決に重きを置きますので、外向き志向ではありますが、特定のイデオロギーと結びつきやすい傾向があります。
となっています。また
と言われています。25
このため、
ように思います。
と同時に、
のではないかとも思います。
問題は「教会派」と「社会派」のどちらが正しい・優れているかではありません。26
ことではないかと思います。27
アイデンティティを見失う(日本社会に迎合する)教会
日本におけるクリスチャンは圧倒的少数派です。
です。このため、
ことがあったとしても不思議ではありません。
しかしながら、
のではないかとも思います。
というのも、「神の国」がどういうものかを考える・語るときには必然的に
神様とはどういうお方か
神様と私たちクリスチャンとの関係はどのようなものか
教会(クリスチャン)とはどういう存在なのか
といった事柄に向き合うことになりますし、そうすることで、
ようになるからです。
私たちクリスチャンの存在そのもの(Being)について目を向け続けている限り、少なくとも、
と思います。
反対に、教会の中で
教会を大きくする(受洗者を増やす)にはどうすればよいか
教会が地域に社会貢献するにはどうすればよいか
クリスチャンとしてどう生きるべきか
といった
ことになりかねません。
仮に教会(クリスチャン)がそのアイデンティティを失ってしまうならば、その教会は例えば、
となってしまいます。28
そうなると、そのような教会と世の中の他の組織・団体との間に大した違いはなくなりますので、教会でわざわざ洗礼を受けようとする人は少なくなるのではないかと思います。
大切なのは
ことです。
ように思います。
「異教」の雰囲気が漂う教会
前項で考えたのは、圧倒的少数派であるが故に周りの社会(世の中)に流されてしまう教会の場合でした。
しかしながら、日本のキリスト教会の中には
もあります。
その一因としては、
ということが挙げられます。29
とはいえ、これは
というのも、特に戦前戦後は、キリスト教に限らず、「外国に追いつけ追い越せと」いう雰囲気で、
ことは否めないからです。
そのような雰囲気の中で、
と考えられます。
その結果、例えばですが、
とされてきました。
聖書の中に「礼拝するときは椅子に座らなければならない」という規定・律法はないにもかかわらず、です。
言うなれば、良くも悪くも、日本のキリスト教には
経緯があるように思います。
そのために、日本的な文化・慣習を否定・排除し、可能な限り、欧米人がやっている通りのことを日本で再現しようとしてきた訳です。
とはいえ、日本的なものを完全に消し去ることはできませんし、外国でやっている通りのことを完全に再現することもできません。
結果、
が醸成されるようになりました。
日本的な文化・慣習を「異教」として否定・拒絶してきたために
一般的な(圧倒的多数のクリスチャンではない)日本人からはかえって「異質」「異教」として見られるようになってしまった
訳ですから、非常に皮肉な出来事だと言えます。
もちろん、「そのような異質・異教的な雰囲気が好き」という方はいらっしゃるとは思いますが、やはり多くの日本人にとっては少し馴染み切れない雰囲気なようにも思います。
その意味でも、日本に必要なのは欧米の文化に根差したキリスト教ではなく、
ことではないかと思います。30
そうしていく中で、
ことを期待します(そのためには日本のクリスチャン人口が相当数を占める必要がありそうですけど…)。
教会の指導者(牧師)に係る諸問題
前節では教会の体質に係る諸問題という視点から日本の教会に洗礼者の数が増えない理由について考えました。
今節では教会の指導者(特に牧師)に係る諸問題という視点から日本の教会に洗礼者が増えない理由を考えます。
なお、ここに挙げる諸問題は
としてご理解ください。
未成熟な人格
牧師も人の子、イエス様を信じる信仰によって、その罪が赦された罪人に過ぎません。31
とはいえ、聖書には教会の指導者(長老、監督、執事・奉仕者など)は人格・性格的にも非難されるところのない人であるべきと記されています(テトスへの手紙1章6-9節;テモテへの手紙一3章1-13節)。
そのため、
それぞれの教団・教派・教会において、何らかの審査・選考・試験があるところがほとんどです(単立の教会の中にはこのような審査・選考・試験のないところもあります)。
ただ、その審査・選考・試験も人間が行うものですから完全・完璧な訳ではありません。
そもそものところ、
とも言えます。
実際問題、
です。
その中には
牧師(指導者)の対応に不満を感じる人もいらっしゃいます。
牧師(指導者)の考え方や言動に疑問を覚える人もいらっしゃいます。
牧師(指導者)の何気ない一言に傷つく方もいらっしゃいます。
ある意味、
ことだと言えます(イエス様も万人から好かれた訳ではありません)。
問題が起きないようにするのも大事ですが、それよりも大切なことは、このような
だと思います。
その過程においては
人が牧師(指導者)に「つまずき」、教会を離れるとき、その大きな原因の一つには間違いなく、
ことがあると言えます(私自身への自戒の言葉でもあります)。
不十分な聖書理解と実践神学
現代においては日本に限らず、牧師になろうとする人はどこかの神学校に行って専門的な教育・訓練を受けるのが一般的です。
しかしながら、
学問的なこと(神学)に重点を置くところもあれば、実践的なこと(伝道、牧会)を強調するところもあります。
学問的なことに重点を置く神学校を卒業して牧師になった人はどうしても「頭でっかち」になる傾向があります(私自身はこのタイプです)。
そのため、やることなすことが
ことが多いと思います。
そのような牧師(指導者)に振り回されることで、教会や牧師(指導者)に対して不平・不満・疑問をもつようになる人々が出て来ても不思議ではありません。
反対に、実践的なことに重点を置く神学校を卒業して牧師になった人は色々なノウハウ(方法論)を知っていますから、一見、非常に頼りがいがあります。
けれども、そのノウハウ(方法論)の裏付けとなる聖書の真理(神学)を当の牧師がしっかりと理解していなければ、その方法論が想定してしない不測の事態が起きた時には対応しきれなくなりますから、
また、そのノウハウ(方法論)が本当に聖書の真理(神学)に根差したものであるかを絶えず吟味しなければ、
ようにもなりかねません。
大事なことは
ことだと思います。
とはいえ、これは一朝一夕でできることではありません。
現実問題、
のではないかと個人的には感じます。32
理想としては、
のが良いのではないかと思います。
とはいえ、牧師の数が不足している現在の日本のキリスト教界では、神学校卒業後に(知識・経験共に不十分なまま)直ぐに牧師として働き始めざるを得ない場合がほとんどというのが実情だと言えます。
未確立な教会観・教会論
神学校では聖書神学や組織神学、実践神学などなど色々なことを学びます。
その中でも特に組織神学の分野には「教会論」というものがあります。
一言で言えば、「教会とは何か?」について聖書を基に論じる学問分野です。
個人的には、その中で、前節で挙げたような
と思うのです。
が、実際のところは
のではないかと思います。
また、現実問題として、
になってしまいます。
結果、「教会とは本来どうあるべきか」といったことをしっかりと考える暇もなく、日々の働きに追われてしまうようになります。
つまりは、
ことになります。33
言うまでもないことですが、教会内外で日々、生じる様々な問題に対応することは重要なことです。
牧師の中に確固たる教会観・教会論が形成されていなくても、多くの問題に対処することはできるとも思います。
が、しかし、
遅かれ早かれ、同じような問題が再発してしまいます。
根本的な問題解決が成されるためには、
ではないかと思います。
難解な(実践に乏しく知識偏重な)説教
前節の「知識中心主義な教会」でも取り上げましたが、日本においてプロテスタントは知識階級(武士階級)を中心に広がっていきました。
それに伴い、教会は学びの場所(牧師が信徒に教える場所)となり、
傾向が出てきました。
日常生活においてクリスチャンとして生きるときに役立つ実践的な知識・知恵よりも観念的・抽象的な知識・知恵が語られる教会が多くなってきた訳です。34
しかしながら、前々項「不十分な聖書理解と実践神学」でもみたように、
です。どちらか一方にだけ偏ってしまうと、それはそれで問題が生まれてきます。
特に
またクリスチャンとして長く生活していても、実生活とあまり関係のない話(説教)ばかりを聞いていては
極端な話、神様・イエス様・聖書のことを考えるのは日曜日に教会に来た時だけという「日曜クリスチャン」となってしまいます。
ではないかと思います。36
日本特有の伝統・文化に係る諸問題
これまでは日本の教会に洗礼者の数が増えない理由について、
- 教会の体質
- 教会の指導者(特に牧師)
という教会内部に係る諸問題という視点から考えてきました。
最後に、
- 日本特有の伝統・文化
という教会外部に係る諸問題という視点から日本の教会に洗礼者が増えない理由をみていきます。
日本のナショナリズム(日本至上主義)
古屋氏が指摘する「二十年周期説」によると、
と考えることができます。37
で、キリスト教の布教にとっては追い風となる「良い時代」です。
反対に
で、キリスト教の布教にとっては向かい風で「悪い時代」と言えます。
こうした「国粋主義」と呼べるものは、見方を変えると
「島国的劣等感」
「西洋コンプレックス」
「『和』を重んじる文化」
「和魂洋才」
といった表現をもって現れることもあります。38
いずれにしても、
が日本でなかなか洗礼者が増えないことの一つの大きな理由となっているのではないかと思います。39
?「宗教」に対する否定的なイメージ
これは日本のいわゆる伝統・文化とは(まだ)言えないところがありますが、ここ20-30年のニュースを振り返ってみると
1995年の「地下鉄サリン事件」
2022年の「安倍元首相襲撃事件」
などをきっかけにして、
ように感じます。
特に最近は「宗教二世」の問題も取り沙汰されています。40
また、NHK放送文化研究所の調査では、
そうです。41
さらには、築地本願寺が2023年2月に実施した「宗教や仏教に関する意識調査」によると、
が挙げられています。42
こうした
がキリスト教の広がりを妨げる一つの要因となっていると考えることができると思います。
が、これを逆に
と捉えるならば、キリスト教が広がるきっかけになり得るとも思います。
まとめ
今回はキリスト教界における「1%の壁」の主な原因の一つと考えられる
ことについて、教会の体質、教会の指導者(牧師)、そして日本特有の伝統・文化という三つの視点から考えました。
結果、以下のような諸問題が複雑に絡み合っていると言えます。
- 教会の体質に係る諸問題
- 牧師中心主義な教会
- 自己中心的な教会
- 知識中心主義な教会
- 専門用語が乱立する教会
- 「神の国」を語らない教会
- アイデンティティを見失う(日本社会に迎合する)教会
- 「異教」の雰囲気が漂う教会
- ?教会の指導者(牧師)に係る諸問題
- 未成熟な人格
- 不十分な聖書理解と実践神学
- 未確立な教会観・教会論
- 難解な(実践に乏しく知識偏重な)説教
- 日本特有の伝統・文化に係る諸問題
- 日本のナショナリズム(日本至上主義)
- 「宗教」に対する否定的なイメージ
なお、冒頭でも述べましたが、
このため、この記事の内容は自分自身の働きに対する反省の意味合いが強いものとなっています。
と同時に、
でもあると思います。
事実、
という経験をお持ちの方も多数いらっしゃると思います。
そのような経験をお持ちの方の多くは、つまるところ、
と感じていらっしゃるのではないかと思いますし、個人的にもそう思います。
とはいえ、それでも、
と信じて、このブログ記事を書いています。
…と、かなり言い訳がましくなってしまいましたが、次回は
ことについて、今回同様、教会の体質、教会の指導者(特に牧師)、そして日本特有の伝統・文化に係る諸問題という三つに加え、本人に係る諸問題という視点も交えて考えます。
ご興味がある方は是非、ご覧ください。
今回(そして次回)のブログ記事の内容を通して、
ことができれば至福の喜びです。
参考文献および注釈
- ベンダサンイザヤ. 日本人とユダヤ人. 角川書店, 1971.
- 古屋安雄. キリスト教新時代へのきざし: 1パーセントの壁を超えて. カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所, 2013.
- ???. なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教. T?ky?: 教文館, 2009.
- ???. 宣教師―招かれざる客か? 教文館, 2011.
- ???. 日本のキリスト教. 再. 教文館, 2003.
- ???. 神の国とキリスト教. 教文館, 2007.
- 古屋安雄, and 大木英夫. 日本の神学. 東京: ヨルダン社, 1989.
- 宇佐神正明. “「日本教」の吟味.” 福音主義神学 19 (1988): 27?49.
- 小林利行. “日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか.” Accessed November 20, 2023. https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf.
- 情報・知識&オピニオン imidas. “イミダス 新・時事用語「宗教2世問題」(イミダス編).” Accessed November 20, 2023. https://imidas.jp/newjijiword/?article_id=l-91-055-22-11-g241.
- 日本福音同盟. 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン. いのちのことば社, 1986.
- 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, ed. FCCブックレットNo.12 データブック2023『神の国の広がりと深化のために』. 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 2023.
- 櫻井圀郎. 「異教としてのキリスト教」からの脱却. 東京: リバイバル新聞社, 2004.
- 浅見定雄. にせユダヤ人と日本人. 朝日新聞社, 1986.
- 研究会Fグループ. 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか?: 共同研究. 東京: いのちのことば社, 2012.
- 築地本願寺. “最近『宗教』に対して不信感が高まった」と10~40代女性の5割が回答。実際のお寺との接点はますます希薄化していることが浮き彫りに!.” Accessed November 20, 2023. https://tsukijihongwanji.jp/wtkjp/wp-content/uploads/2023/03/3e7523588e552793ae280606adc4be9a.pdf.
- 識学総研. “Z世代とは何歳から?年齢や由来、X・Y世代との違いをわかりやすく解説,” August 8, 2023. https://souken.shikigaku.jp/15750/.
- 識学総研. “α世代とは?Z世代・ミレニアル世代との違いや重視する価値観、働き方について解説,” August 2, 2023. https://souken.shikigaku.jp/29605/.
- 隅谷三喜男. 日本の信徒の「神学」. 日本キリスト教団出版局, 2004.
- この項の内容については主に下記を参照。古屋安雄, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教 (T?ky?: 教文館, 2009), 37?41.
- 古屋氏はこの現象を「内なる天皇制」と呼んでいる。古屋, 40?41.
- ここには次回のブログ記事で考える「クリスチャンが教会に根付かない」理由の一つを見て取ることができる。
- 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 37?39; 古屋安雄, 日本のキリスト教, 再 (教文館, 2003), 201?2.
- 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, ed., FCCブックレットNo.12 データブック2023『神の国の広がりと深化のために』 (東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 2023), 35.
- 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 35.
- 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか?: 共同研究 (東京: いのちのことば社, 2012), 14.
- 古屋, 日本のキリスト教, 202?3.
- 2020年時点で日本には190のプロテスタントの教団・教派、グループが存在し、その内の約半数(91教団)は所属教会数が10以下である。また教会数が上位50の教団・教派に全体の80%以上の教会が属している。東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, FCCブックレットNo.12 データブック2023『神の国の広がりと深化のために』, 47, 51.
- 2009年9月の「第5回伝道会議」において、竿代師が同じような趣旨の提言をしている。東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 172.
- 古屋安雄, 宣教師―招かれざる客か? (教文館, 2011), 30?31.
- 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 34.
- 詳細な説明は下記を参照。古屋, 35?37; 古屋安雄 and 大木英夫, 日本の神学 (東京: ヨルダン社, 1989), 215?16; 古屋, 日本のキリスト教, 200?201.
- 対照的に、現代の日本の教会では説教の難しさに問題を感じる人が多くなっていると思われる。研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 17.
- 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 35?36.
- 古屋, 18, 37.
- 古屋氏は、最近の若者は特に観念的な理解よりも経験的な理解を好む傾向があると指摘している。古屋安雄, キリスト教新時代へのきざし: 1パーセントの壁を超えて (カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所, 2013), 92?93.
- 古屋氏と大木氏は大衆向けの伝道によって「せめて十パーセント」のクリスチャン人口を目指すように提言している。古屋 and 大木, 日本の神学, 217?20; 「正しい教理」だけでなく「正しい実践」も必要であることについて、興味のある人は下記を参照。古屋, キリスト教新時代へのきざし, 93?97.
- 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 18; 櫻井圀郎, 「異教としてのキリスト教」からの脱却 (東京: リバイバル新聞社, 2004), 100?101.
- 日本にプロテスタントが伝わった直後は教会も社会福祉活動に熱心だった。けれども、その後の日本政府の思想的弾圧などによって、次第に社会問題を扱わなくなり、軍国主義と衝突しない弁証法神学(特に神の超越性に重きを置き、文化や社会倫理を語らない初期のバルト神学)に傾倒するようになっていった。この辺りの歴史的な経緯について、興味のある人は下記を参照。古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 21?25, 151?55; 古屋, キリスト教新時代へのきざし, 39?40; 古屋安雄, 神の国とキリスト教 (教文館, 2007), 170?71.
- 神の国と教会の関係について、興味のある人は例えば下記を参照。古屋, 神の国とキリスト教, 138?42.
- 古屋, 18?19.
- 古屋, 171.
- 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 21?29; 古屋, 神の国とキリスト教, 168?71.
- “Z世代とは何歳から?年齢や由来、X・Y世代との違いをわかりやすく解説,” 識学総研, August 8, 2023, https://souken.shikigaku.jp/15750/; “α世代とは?Z世代・ミレニアル世代との違いや重視する価値観、働き方について解説,” 識学総研, August 2, 2023, https://souken.shikigaku.jp/29605/.
- 古屋氏は、「社会派」が誕生したのは「神の国」を語らない教会に対する反動で、その「社会派」に対抗する形で「教会派」が生まれたと見ている。その見方に従えば、両者の対立解消のカギは、教会が存在するのは教会のためでも社会のためでもなく、神の国のためであることを認識できるかにあると言える。古屋, 神の国とキリスト教, 141?42, 168?71, 251.
- 古屋, 140?42, 181?82.
- 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 12?13.
- 櫻井, 「異教としてのキリスト教」からの脱却, 4?5, 18?20, 50?52, 61?63, 149?51; 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 23?24.
- 櫻井氏はこれまでの「否定の伝道」から「肯定の伝道」へと宣教の方針を転換して「日本人のキリスト教」を目指す必要があること、また「日本という場の神学」、「日本人のための神学」、「日本語の神学」が必要であることを指摘している。櫻井, 「異教としてのキリスト教」からの脱却, 123, 139, 166?67.
- 今項の詳細な説明は下記を参照。研究会Fグループ, 16?17.
- 研究会Fグループ, 16?18.
- 研究会Fグループ, 18.
- 研究会Fグループ, 17.
- 隅谷氏はこの状況を、牧師が二階で準備した説教を信徒が一階で聞くという「二階建ての教会」になぞらえています。隅谷三喜男, 日本の信徒の「神学」 (日本キリスト教団出版局, 2004), 216?18.
- 古屋氏および隅谷氏は「日本の信徒の神学」の必要性を説いている。古屋, キリスト教新時代へのきざし, 86?88.
- 詳細は下記を参照。古屋 and 大木, 日本の神学, 101?15.
- 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 21?27.
- 古屋 and 大木, 日本の神学, 215; 日本人もしくは日本全体に根付いていると思われる世界観について、山本(イザヤ・ベンダサン)氏は「日本教」という概念を提唱している。「日本教」に関する詳細は下記を参照。ベンダサンイザヤ, 日本人とユダヤ人 (角川書店, 1971); 浅見定雄, にせユダヤ人と日本人 (朝日新聞社, 1986); 宇佐神正明, “「日本教」の吟味,” 福音主義神学 19 (1988): 27?49.
- “イミダス 新・時事用語「宗教2世問題」(イミダス編),” 情報・知識&オピニオン imidas, accessed November 20, 2023, https://imidas.jp/newjijiword/?article_id=l-91-055-22-11-g241.
- 小林利行, “日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか,” 60, accessed November 20, 2023, https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf.
- 築地本願寺, “最近『宗教』に対して不信感が高まった」と10~40代女性の5割が回答。実際のお寺との接点はますます希薄化していることが浮き彫りに!,” 1?2, accessed November 20, 2023, https://tsukijihongwanji.jp/wtkjp/wp-content/uploads/2023/03/3e7523588e552793ae280606adc4be9a.pdf. なお、同調査によると、「仏教」に対するイメージは「宗教」に対するそれよりも悪くない。