聖書に読み方はある?読む時の注意点は?①ー古典としての聖書ー

ご存知の方も多いと思いますが、キリスト教の聖書は世界中で読まれている(買われている?)ベストセラー。

実際、その発行部数の推計は50億以上とされ、「ベストセラー書籍:ノンフィクション部門(Best-selling book of non-fiction)」でギネス世界記録となっています。1

ですので、キリスト教徒であろうとなかろうと、

聖書には一体何が書いてあるのか?

と興味を持つ方も多いと思います。

私はその昔、物理好きの無神論者 (今は物理好きのクリスチャン)でしたが、その時でさえ、ある意味「一般常識」として、聖書を一度は読んでみようと思ったほどでした(もちろん、その時は宗教には絶対ハマらないという自信がありました)。

そして、実際に書店で聖書を手にしてパラパラとめくってみたのですが、新訳聖書の一ページ目に出て来るたくさんの片仮名(イエスに至るまでの系図)を見て、早々とリタイアしました。

元々、活字嫌いな私のような理系人間でさえ一度は読んでみようと思うほどですから(直ぐに挫折はしましたが)、聖書に興味のある方、聖書を実際に読んだことがある方は少なからずいらっしゃるのではないかと思います。

しかしながら、如何せん、聖書は非常に分厚い書物(日本語の聖書では軽く1000ページを超えます)。クリスチャンと呼ばれる人たちですら、最初から最後まで読んだことがある人は少ないのではないかと思われます。

しかも、書いてある言葉も耳慣れないモノが多く、片仮名(人名や地名)もやたらと出て来るため、正直、意味が分かりにくい

さらには、人生の生き方について有益なアドバイスをくれる指南書・倫理道徳本だと思っていたのに、「神様が〇〇に語った」とか「××の病気が一瞬にして癒された」といった超自然的な話が次から次へと出て来ると、段々と現実味がしなくなって興味も色あせてきてしまう

このような経験をしたことがある(私のような)人のために、今回は「聖書の読み方」について、特に「聖書を読む時の注意点は何か?」を考えます。

なお、「聖書を読む時の注意点」を考えるにあたって、「聖書はどのような書物か」に着目しつつ、内容を以下の三つに分けることにしました。

  1. 聖書に読み方はある?読む時の注意点は?①―古典としての聖書―
  2. 聖書に読み方はある?読む時の注意点は?②―文学としての聖書―
  3. 聖書に読み方はある?読む時の注意点は?③―聖典としての聖書―

という訳で、今回は古代(約2000年以上前)の近東地方(バルカン諸国・トルコ・シリア・エジプトなどを含む地域)で書かれた「古典としての聖書」の性質に焦点をあてながら「聖書を読む時の注意点」をみていきます。

残りの二つについては、下記の記事をご参照ください。

聖書に読み方はある?読む時の注意点は?②ー文学としての聖書ー
全世界での発行部数がギネス記録になるほど世界中で読まれている(買われている?)書物。そんな聖書の「読み方(聖書を読む時の注意点)」を3回シリーズで紹介。二回目は人の言葉(言語)で書かれた「文学としての聖書」の性質に焦点をあててみていきます。
聖書に読み方はある?読む時の注意点は?③ー聖典としての聖書ー
全世界での発行部数がギネス記録になるほど世界中で読まれている(買われている?)書物。そんな聖書の「読み方(聖書を読む時の注意点)」を3回シリーズで紹介。三回目は神の言葉が書かれた「聖典としての聖書」の性質に焦点をあてたシリーズの総まとめ版。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

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年代(時間)の隔たりに注意

The Isaiah scroll (1QIsaa) contains almost the whole Book of Isaiah. By Photographs by Ardon Bar Hama, author of original document is unknown. - Website of The Israel Museum, Jerusalem, see link., Public Domain, Link

「聖書がどのような書物か」を考える時、見落としてしまいがちなことが一つあります。それは、聖書は俗に「古典」に分類される非常に古い書物だということ。

日本の古典作品というと、例えば万葉集や源氏物語といったものがあります。そのような古典作品と呼ばれるものは、中学や高校の「古文」の授業に出て来るように、「古めかしい文体」で書かれたものというイメージが強いのではないかと思います。

しかしながら、本屋さんで聖書を開いて読んでみても、そのような「古めかしい文体」では書かれていませんので(文語訳は除きます)、聖書が実は万葉集や源氏物語よりはるか昔に書かれたものだということにはなかなか気がつきません。

事実、聖書は66冊の異なる文書が収められた「文書集」なのですが、66冊の文書の中で一番新しいものでも紀元100年頃に書かれたとされています。これは日本でいえば弥生時代の話

万葉集が奈良時代(8世紀)、源氏物語は平安中期に書かれたとされていますので、聖書は日本の代表的な古典作品よりも700年以上前に書かれたことになります。2

ですから、まずは

聖書は約2000年以上前に書かれた非常に古い書物

であることをおさえておくことが、聖書を読む時に大事なポイントと言えると思います。

聖書が実は日本の古典作品よりも古い書物だと知ることで、たとえ聖書を読むのに苦労が伴うことがあったとしても、(私のように)自分を励ますことができる人は多いのではないかと思います(「古文」の授業で日本の古典作品を苦労して読んだ時のように…)。

距離(空間)の隔たりに注意

「聖書がどのような書物か」を考える時、次に注意すべきことは、

聖書は遠い異国の地で書かれた書物

だということ。

しかも、聖書に収められている66冊の書物が書かれた地域は一か所ではなく、近東地方(バルカン諸国・トルコ・シリア・エジプトなどを含む地域)の様々な場所で書かれています。

簡単に言ってしまうと、聖書に出て来る地名は現代の日本に住む私たちにとって馴染みのない場所ばかりな訳です。例えば、申命記1章1節には次のような記述があります。

これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである。ヨルダンの川向う、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの面したアラバの荒野でのことであった。【申命記1章1節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉312頁

ここにはたくさんの地名が出てきていますが、どこの場所を指しているか(私も含め)分からなかった人がほとんどだと思います。

仮に分かったとしても、「『ヨルダンの川向こう』とあるから、今のヨルダン川の辺りのことだろうな」というくらいではないでしょうか。

場所が分からないということはもちろん、その土地の気候や風土、特産品や主要産業も分からないということになります。

しかし、そのような地理的特徴はその地方の人なら誰もが知っているようなことですから、聖書を書いた作者はいちいち説明はしてくれません。むしろ、誰もが知っていることを「前提」として、話を進めていく訳です。

従って、

時として、その土地の地理的な知識(前提とされている知識)が無いために、聖書の作者の語らんとすることを誤解・曲解することもあり得ます

ので注意が必要です。

と言いながらも、個人的な経験では、仮に聖書に記される土地の地理的知識がなかったとしても、聖書のメッセージを読み解くことにそれほど大きな支障はないことの方が多いように思います。

が、地理的な状況を知っているとより深く「立体的に」聖書を味わう(当時の人々の状況を理解する)ことができるのは間違いありません。3

いずれにしても、

たくさんの片仮名(人名や地名)が出てきても驚くことなく、むしろ積極的に、その人物や場所のことを調べようとする

気概をもつことが聖書を読み解くカギだと思います。

「当たり前」の隔たりに注意

これまで聖書が書かれた時代と場所の隔たりについてみてきました。ここでは、時代と場所の隔たりがもたらす(社会的・文化的・歴史的)隔たりについて考えます。

一言でいえば、

聖書が書かれた時代の「当たり前」と現代の私たちにとっての「当たり前」が同じとは限らない

ことに注意する必要があります。

というのも、聖書が書かれた2000年ほど前の近東地方(バルカン諸国、トルコ、シリア、エジプトなどを含む地域)の人々の「常識」「価値観」は、21世紀の日本に生きる私たちの「常識」「価値観」とは大きく異なるからです。

例えば、聖書が書かれた当時の一般庶民の主な移動手段は徒歩です。

目的地まで何十キロ・何百キロ離れていようが、自転車も車も電車も新幹線も飛行機もありませんので、ただただ何日も何日もかけて歩くしかありません。

道路も今のように舗装されてはいませんから、文字通り、道なき道を歩くこともあります。

従って、例えば、聖書で「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。」【ヨハネの福音書4章6節】と記された場面のイエスの「疲れ」は、現代の私たちが想像するような「旅の疲れ」とはかなり異なるものだったことは間違いありません。

古代近東の人々と現代日本の私たちの間に様々なかたちで存在する「当たり前(常識・価値観)」の隔たり(違い)。その中でも聖書を読む時に特に大きな障害となるのが、「科学的価値観の隔たり」と「『歴史』に対する認識の隔たり」だと思いますので、以下で少し詳しく見ていきます。

科学的価値観の隔たり

今さら言われるまでもないことでしょうが、当時の人々は現代の私たちのような科学的知識をもっていませんでした。地球が太陽の周りをまわっているとは誰も思っていませんでしたし、地球が球体だとは想像すらしていなかった訳です。

Map of the Square and Stationary Earth, by Orlando Ferguson (1893) - The History Blog, actually Library of Congress 2011594831, G3201.A67 1893 .F4, Public Domain, Link

ですから、科学的知識に馴染みのない2000年前の人々の圧倒的多数は、現代の私たちが抱きがちな「宇宙はいつどのように誕生したのか?」とか「人間は何から出来ているのか?」といった科学的な疑問・質問は考えたことすらなかったでしょう。

とはいえもちろん、当時の人々が何も考えていなかった訳ではありません。彼らは彼らなりの疑問・質問を抱きながら日々、生活をしていたはずです。

ただ、彼らが抱いていたであろう疑問・質問というのは、科学的なもの(自然の仕組みや成り立ち)ではなく、自分たちの生活や人生の意義・意味に関わるものであったと思います。

それらは例えば、

「なぜ自分たちは苦しむのか?」
「なぜ正しい人が報われないことがあるのか?」
「なぜ人は死ぬのか?」
「幸せとは何か?」
「どうすれば幸せになれるのか?」

といった問いかけ。

そして

聖書は、当時の人々が抱いたであろうこのような人生の意義・意味に関する疑問・質問に答えるものとして書かれた

と言うことができます。

裏を返せば、

聖書は現代に生きる私たちの抱く疑問(特に科学的な疑問)全てに答えてくれる訳ではない

ということ。

そのことを忘れて、私たちの「常識」や「価値観」を聖書に押し付けてしまうならば、聖書が本来語らんとしていることを見失ってしまう危険性がありますので注意が必要です。4

「歴史」に関する認識の隔たり

The Fall of Man by Peter Paul Rubens. The Yorck Project (2002) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202. , [1]2. Museo del Prado, Madrid, Public Domain, Link

聖書を読んでいくと直ぐに気になってくることがあります。それはたくさんの片仮名(人名や地名)で表される「人物や場所が実在したのか?」ということ。

つまりは、「聖書の歴史的・考古学的信憑性」が気になってくるわけです。

しかしながら、他のブログ記事にも書きましたが、

聖書の歴史的・考古学的信憑性を問うことは、聖書が語ろうとしている大元のメッセージを見失わせてしまう可能性がある

ので注意が必要です。

聖書は信頼できる書物か?③―聖書の信憑性:歴史的・考古学的整合性―
「聖書は信頼できる書物か」について考える三部作シリーズの三つ目。聖書の歴史的・考古学的信憑性を考えるにあたり、「歴史」とは何か(歴史の性質、歴史との接し方)から考えます。聖書の読み方(聖書を読む時の注意点)にもつながる内容です。

でも、

なぜ聖書の歴史的・考古学的信憑性を考えることが聖書のメッセージを見失うことにつながるのか?

というと、古代社会に生きた聖書の作者は現代の私たちほどに歴史的・考古学的信憑性に注意を払っていなかったから

聖書に限らず古代の「歴史書」「歴史作品」と呼ばれるものは、過去の出来事を単純に羅列したものというよりも、その作者が同じ時代を生きる人もしくは後世の人たちに何か(問題の因果関係および打開策、知識、知恵など)を伝えようとして書き残したものなのです。

このため、聖書の作者は自分の伝えたいメッセージを際立たせるために、少なからずの脚色(表現の誇張や出来事の順序変更など)を加えています。

従って、

聖書を読む時に重要となる疑問・質問は「この出来事は本当に起こったのだろうか?」ではなく、「この出来事・表現とあの出来事・表現はどのような関係があるのか?このように話を書き進めることで、筆者は何を言わんとしているのか?」

であることに注意する必要があります。

また、考古学的発見と聖書内の記述の整合性については、考古学に関する下記の二点に注意が必要でしょう。5

  • 考古学の情報は量的にも質的にも非常に限られている
  • 考古学的発見(仮説)は絶対的なものではない(複数の仮説が生じ得るし、新しい考古学的発見によって、いつでも書き換えられる可能性がある)

上記のような「考古学の限定性」を踏まえた上で、あくまでも聖書が本来語ろうとしているメッセージを理解するための補完的位置づけとして、考古学的知見を用いることが大事だと思います。

仮に聖書の話と考古学の見解(仮説)が矛盾しているようにみえたとしても、考古学の限定性や聖書作者による脚色(誇張や省略など)の可能性を考えると、問題は聖書や考古学にあるのではなく、むしろ聖書のメッセージを正しく理解しようとする「読み手の側」にあると言えます。6

なお、念のために一言付け加えておくと、私はここで聖書に書かれていることが全て作り話だと言っている訳ではありません。

むしろ、聖書に記される人々の生活様式や文化を大局的に見たとき、聖書の記述内容は考古学的発見との整合性がよくとれていると言えますので、聖書に描かれる話はその当時、その地域で実際に起きた出来事が基になっていると考えられます。

詳細は以下の記事をご覧ください。

聖書は考古学と矛盾しているか?①―天地創造から青銅器時代まで―
「聖書に出てくる人物や場所は実在したのか?」「聖書は考古学と矛盾しているか?」について、考古学の限定性を考慮しながら、旧約聖書の天地創造から青銅器時代までの歴史的・考古学的背景をみていきます。
聖書は考古学と矛盾しているか?②ー鉄器時代ー
「聖書に出てくる人物や場所は実在したのか?」「聖書は考古学と矛盾しているか?」について、旧約聖書の鉄器時代の歴史的・考古学的背景をみていきます。聖書の強調点は何か、聖書はどう読むべきか、聖書と考古学の望ましい関係は何かを探ります。
聖書は考古学と矛盾しているか?③ーイエスの時代ー
「聖書は考古学と矛盾しているか?」について、イエスに関する新約聖書の記述と考古学的発見が矛盾しているようにみえるものに焦点をあてます。聖書を読み解くために知っておきたい事柄満載の内容です。

まとめ

今回は古代(約2000年以上前)の近東地方で書かれた「古典としての聖書」の性質に焦点をあてながら「聖書を読む時の注意点」をみてきました。

私たちが聖書を読む時、「古典としての聖書」と現代の私たちの間には大きな隔たり(ギャップ)があることを認識することが大事だと思います。

その隔たりとは、

  • 時間的な隔たり
  • 空間的な隔たり

そして、時間的な隔たりと空間的な隔たりによって生じる

  • (社会的・文化的・歴史的な)常識・価値観の隔たり

特に三つ目の「常識・価値観の隔たり」が曲者です。なぜなら、常識・価値観というものは「当たり前」過ぎて、常識・価値観の隔たりがあることすらも分からないことが多いからです。

実際、現代に生きる私たちにとって、科学的価値観の影響は非常に大きいものです。従って、知らず知らずのうちに、科学的な疑問・質問(例えば「天地万物はどのようにできたのか?」や「人は何からできたのか?」など)の答えを聖書に求めてしまいがちです。

しかしながら、

聖書は本来、古代近東の人々が抱いていたであろう疑問・質問(主に人生の意義・意味に関するもの)に答えを与えるもの

です。残念ながら、現代に生きる私たちの抱く疑問(特に科学的な疑問)全てに答えてくれる訳ではありません

このことを忘れてしまうと、私たちの「常識」や「価値観」を聖書に押し付けてしまうことになり、聖書が本来語らんとしていることを見失ってしまう危険性があります。

また、古代社会に生きた聖書の作者は現代の私たちほどに歴史的・考古学的信憑性に関心がなかったことにも注意が必要です。

言い換えるならば、聖書の作者は自分の伝えたいメッセージを際立たせるために、少なからずの脚色(表現の誇張や出来事の順序変更など)を加えているのです。

従って、

聖書を読む時に重要となる疑問・質問は「この出来事は本当に起こったのだろうか?」ではなく、「この出来事・表現とあの出来事・表現はどのような関係があるのか?このように話を書き進めることで、筆者は何を言わんとしているのか?」

つまり、聖書を読む時に大事なことは、その内容の歴史的信憑性を問うことではなく、科学的質問の答えを導き出すことでもありません。

むしろ、

聖書を読む時に大事なことは、聖書が本来語ろうとしているメッセージを理解しようとすること。当時の人々の生活状況を想像しながら、ある意味、当時の人になりきって読むこと

だと言えます(これは日本の古典作品とも共通すると思います)。7

この意味において、考古学的知見は聖書を正しく理解するための補完的役割を果たし得ます。

なお、前述の三つの隔たり(時間的隔たり、空間的隔たり、常識・価値観の隔たり)を埋めるため、ひいては、当時の人々の生活状況を想像しながら聖書のメッセージを理解しようとするためには、聖書が書かれた時代の人々の生活状況(文化的・歴史的背景)を知る必要があります。

そのためには、日本の「古文」の授業でもそうであったように、聖書(古典作品)を読むだけでは限界がありますので、聖書に関する参考書や辞書、注解書といったものを読む必要が出てきます。

具体的な参考資料については下記の記事を参照ください。

聖書の地理的・文化的・歴史的背景に興味がある方におすすめの本
聖書の地理的・文化的・歴史的背景を学ぶと聖書の内容が立体的になり、聖書の理解がより一層深まる。とは言われても、どこから手を付けてよいか分からない…。という方のために、聖書の地理的・文化的・歴史的背景を学ぶのに役立つお薦め書籍を紹介します。

次回は下記の記事で「文学としての聖書」の性質に注目しながら「聖書を読む時の注意点」を考えます。

聖書に読み方はある?読む時の注意点は?②ー文学としての聖書ー
全世界での発行部数がギネス記録になるほど世界中で読まれている(買われている?)書物。そんな聖書の「読み方(聖書を読む時の注意点)」を3回シリーズで紹介。二回目は人の言葉(言語)で書かれた「文学としての聖書」の性質に焦点をあててみていきます。

参考文献および注釈

  1. “Best-selling book of non-fiction,” Guinness World Records, accessed January 24, 2018, http://www.guinnessworldrecords.jp/world-records/best-selling-book-of-non-fiction; 宗教・思想関連書籍の発行部数では、この他に中国の「毛主席語録」が9億部(65億部とも)、イスラム教の「コーラン」が8億部、エホバの証人の「神はわたしたちに何を求めていますか」が2億部、モルモン教の「モルモン書」が1億2000万部とされているようです。“ベストセラー本の一覧,” Wikipedia, December 21, 2017, accessed January 24, 2018, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&oldid=66695393.
  2. 万葉集と源氏物語の成立年代は「広辞苑 第五版」を参照。
  3. 地理的な知識が聖書を理解する助けとなることについて、具体的な例は下記を参照。William W. Klein et al., Introduction to Biblical Interpretation, Revised Edition, Revised & Updated. (Nashville, Tenn.: Thomas Nelson, 2004), 16.
  4. 現代の私たちの「常識」「価値観」を聖書に押し付けてしまう危険性について、興味のある方はこちらのブログ記事を参照ください。
  5. 詳細はこちらの記事をご覧ください。
  6. 詳細は下記のブログ記事を参照ください。「聖書は考古学と矛盾しているか?②―鉄器時代―」「聖書は考古学と矛盾しているか?③―イエスの時代―」
  7. 社会的・文化的・歴史的な隔たり(ギャップ)を考慮しないときに陥る可能性がある不適切な聖書の読み方について、興味のある方は下記を参照。Sidney Greidanus, The Modern Preacher and the Ancient Text: Interpreting and Preaching Biblical Literature (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1988), 158–166.
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