なぜ日本でキリスト教が広まらないのか③:クリスチャンが教会に根付かない理由

前回、前々回と

なぜ日本でキリスト教が広まらないのか?

特に日本のキリスト教界における「1%の壁」の原因およびその理由について考えています。

なぜ日本でキリスト教が広まらないのか①:キリスト教界の「1%の壁」とその原因
第二次大戦以降の約80年間、数多くのクリスチャンによる伝道・布教活動にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことはありません。この「1%の壁」の原因は一体何なのか?なぜ日本ではクリスチャンが一定数以上、増えないのか?今回はこの疑問・問題について考えます。
なぜ日本でキリスト教が広まらないのか②:洗礼者(受洗者)の数が増えない理由
第二次大戦以降の約80年間、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことはありません。この「1%の壁」の主な原因の一つと考えられる「洗礼者(受洗者)の数が増えない」ことについて、教会の体質、教会の指導者(特に牧師)、そして日本特有の伝統・文化という三つの視点から考えます。

キリスト教界における「1%の壁」というのは、

第二次大戦以降の約80年間、数多くのクリスチャンによる伝道・布教活動にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことがない

という事実を表す表現です。

今回はこの「1%の壁」の理由として

なぜ日本の教会にクリスチャンが根付かないのか?

について、プロテスタントの立場から以下の四つの項目に分けて考えたいと思います。

  • 教会の体質に係る諸問題
  • 教会の指導者(牧師)に係る諸問題
  • 日本特有の伝統・文化に係る諸問題
  • 本人に係る諸問題

なお、前回と同じく、今回のブログ記事も

特定のキリスト教界の教派・教団・教会の宣教活動を非難・糾弾・批判する意図は一切ありません(私自身の牧師としての経験に基づく個人的な反省は含みます)。

あくまでも、

キリスト教界に存在する「1%の壁」という現実に対して考え得る問題・課題を洗い出し、体系的に整理することを目的

としています。

また、前回同様、ブログ記事の内容はほぼ全て私独自の考えではなく、参考文献の内容を私なりに解釈して紹介したものとなっています。

「1%の壁」に関する諸問題についての関連書籍を全て検証した訳ではありませんので、内容に偏りがあると感じる方がいらっしゃれば、参考書籍をご紹介いただけますと幸いです。

なお、内容としては前回の記事と重複するところがありますので、その部分は前回の個所を参照していただくことを予めご了承ください。

話の流れは以下の通り。

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教会の体質に係る諸問題

「つまずき」を与える教会

教会は俗にいう清く正しく美しい「聖人」の集まる場所ではありません。

むしろ、

教会は様々な弱さや欠点をもった(と共に強さと長所も兼ね備えた)「赦された罪人」の集まるところ

です。

それ故に、(牧師・宣教師を含む)教会内の人々が

相手の思いを無視した心無い言動を取ってしまう

こともあります。

互いに互いを裁き合い、人間関係が収拾のつかないほどまで悪化してしまう

こともあります。

自分の間違い・過ちを認めて、素直に相手に謝れない

こともあります。

相手が真摯に謝ろうとしてきても、その謝罪を受け入れきれない

こともあります。

その理由・原因が何であれ、

教会内の人間関係に「つまずき」、教会を離れてしまう人は一定数、存在

します。1

もちろん、これには教会を離れる本人自身にも問題がある場合もあります。2

いずれにしても、

教会に集う人々(牧師・宣教師も含む)が神様に愛され赦された罪人として、互いに愛し合い、赦し合うことができるように

と祈ります(参照:ヨハネによる福音書13章34節;エフェソの信徒への手紙4章32節)。

律法主義的な教会

この世の中には様々なルール・決まり・法律があります。

このため、私たちは皆、ほぼ無意識のうちに、

何らかのルール・決まり・法律を守っていくことが「良い」ことである

と意識づけられています。

もちろん、それらのルール・決まり・法律は社会活動を維持するために必要なものですので、社会の中で生きていく上でそれらを守ることは大切なことです。

ただ、その縛りが余りにも強いため、私たちは無意識のうちに

ルール・決まり・法律を守れば守った分だけ、もしくは破れば破った分だけ、それにふさわしい報いがある

といった社会通念を持っています。

しかしながら、このような社会通念を聖書の中の律法(神様の定める倫理道徳的規範)にまで当てはめようとすると、聖書の語る教えと異なる考え方が出てきます。

それは例えば、

聖書の律法(牧師や指導者たちの言うこと)をたくさん守るクリスチャンが「良い」「清い」「優れた」クリスチャンだ

とか、

聖書の律法(牧師や指導者たちの言うこと)を守らないクリスチャンは「悪い」「汚れた」「劣った」クリスチャンだ

とか、

聖書の律法(牧師や指導者たちの言うこと)をきちんと守っていないと神様の救いにあずかれなくなる

とか、

聖書の律法(牧師や指導者たちの言うこと)をたくさん守れば、神様がたくさん願い事を聞いてくださる

とか、

神様が願いを聞いてくれないのは律法をきちんと守らないからだ

とかいった考え方です。

確かに聖書の中にも決まり・ルール・法律と呼べる「律法」がありますが、それらは別にクリスチャン内の優劣や清濁を判断するために与えられている訳ではありません。

イエス様を救い主として信じた人が、それまでの自分中心的な生き方から神様中心的な生き方へと方向転換するとき、その

神様中心の生き方(神様がクリスチャンたちに望まれる生き方)がどのようなものかを教えてくれるのが聖書の中の「律法」

です。

そもそものところ、

聖書内の律法を全て完璧・完全に守り切ることは人間には不可能

です。

私たち人間が律法を全て完璧・完全に守り切ることができないからこそ、

律法を守り切ることによってではなく、イエス様を信じる信仰によって救われる道が開かれた

とキリスト教は教えます。

信仰によって救われた人が、救われた後で律法を完璧・完全に守り切れないことがあったとしても、その救いが帳消しにされることはありません。

でも、だからといって、

救われた後に自分の好き勝手に生き続けてよい訳でもありません。
聖霊の助けにより頼みながら日々、イエス様のように生きることができる者へと変えられていく

必要があります。

さらには、神様は私たちの行い応じて(律法をたくさん守ったかどうかに応じて)、私たちの願いを聞いてくださる訳ではありません。

神様は恵みによって、私たちに必要のものを必要なときに与えてくださるお方

です。

たくさん祈り求めたとしても、その祈りがかなえられないのは、その願い事がかなうことが私たちにとって本当に必要なものではないからなのかもしれません。

まだしばらくの間、祈る必要があるのかもしれません。

祈りを通して、神様が何かを教えようとしているのかもしれません。

いずれにしても、

神様が私たちの行い応じて私たちの願いを聞いてくださるお方ではないからこそ、私たちは行いではなく信仰によって、神様の恵みによる「救い」を受けることができる

訳です。

このように、私たちの社会を支配している「ルール・決まり・法律を守れば守った分だけ、もしくは破れば破った分だけ、それにふさわしい報いがある」という考えを神様にも当てはめようとすると、無理なところが出てきます

また、そのような社会通念が支配的な教会では

律法主義的な考え方(神様の定める倫理道徳的規範に従って生きることが一番大切だとする考え方)もまた支配的

になってしまいます。3

そして、

教会内の人々が互いに互いを裁き合う

ようになってしまいます。

律法主義的な教会においては、教会の教える模範的で「良い」生活を送れているときには特に大きな問題はありません。

が、ちょっとした失敗や惰性によって「良い」生活を送れなくなってしまうと途端に教会内での居心地が悪くなってきます。

そして次第に教会から足が遠のき、最終的には教会を離れてしまうようになります。4

もちろん、律法に反することは反することとして、互いに注意し合うことも必要です。

けれども、

神様の目から見れば私たちのしていることは「どんぐりの背比べ」、皆が「赦された罪人」

に過ぎません。

お互いに弱いところ、不完全なところがあることにも目を向け、どんなかたちの「どんぐり」であれ、神様は変わらず愛してくださることを覚える

必要があります。

そして、

相手が悔い改めるならば、神様と同じように、その人を赦し、受け入れ、愛する

ことが求められています。

物質主義的な教会


近代文明、特に科学の発達以降、世の中では精神的な(目に見えない)ものよりも物質的な(目に見える)ものを重要視する「物質主義的な考え」が大勢を占めてきているように感じます。

聖書的には

精神的な(目に見えない)ものと物質的な(目に見える)もの、そのどちらも大事

です。

実際、イエス様は肉体的な癒しを数多くなさいましたし(マタイによる福音書4章23-24節)、人々に日々の糧を得ることができるように祈りなさいとも勧めています(マタイによる福音書6章11節)。

と同時に、目に見えない精神的なこと、とりわけ神様と人間との関係に関して、神様と人を愛することの重要性も説いています(マタイによる福音書22章37-40節)。

また、イエス様は

目に見えない神の国と神の義を求めるならば、目に見える日常的に必要なものは全て与えられる

とも教えています(マタイによる福音書6章33節)。

しかしながら、教会において、

物質主義的な考えが支配的になり、精神的(霊的)なことよりも物質的なことが重視されるようになる

ことがあります。5

物質主義的な教会では、

教会に集う人々が物質的・精神的(霊的)に満たされることよりも、教会の財政が物質的に満たされる

ことに注意が向けられます。

キリスト教を伝えて人々を教会に呼び集め、教会を大きくするのも、つまるところ、

教会(の指導者たち)が経済的に豊かになるため

という考えになってしまいます。

そうなると、(無意識のうちに)教会に集まる人々を「人」ではなく「(献金してくれる)モノ」としてしか見なくなってしまいます。

そのような教会の態度やあり方に傷つき、教会を離れる人がいたとしても不思議ではないように思います。6

教会内の役割・働きの負担が大きい教会

教会内外の活動は

多くの人が様々な役割・働きを担う

ことで成り立っています。

一つの礼拝を執り行うためにも、

会堂の掃除や飾りつけをする人、

受付をする人、

司会をする人、

賛美曲を選ぶ人、

賛美曲を演奏する人、

プロジェクターを操作する人、

音響の設定・操作をする人、

説教をする人、

献金を集める人

などなど、多くの人の協力が必要です。

このため、

教会に集う人の数が少ない場合、一人当たりの負担は相当なもの

となってきます。

とりわけ、ほとんどの教会では、そのような役割・働きを担うのはノンクリスチャンではなくクリスチャン(特に教会員)だと思います。

従って、クリスチャンになる(洗礼を受ける)まではそのような役割・働きを任せられることはほとんどなく、その存在すら知らない(気付かない)人もいることになります。

そのような人たちが

クリスチャンになった途端に突然、様々な役割・働きを担わされるようになると、その負担の大きさに辟易する

ことになってしまいます。

結果、次第に教会に行くのが億劫になり、教会から足が遠のいていくことにもなってしまいます。7

信徒の教育・フォローが不十分な教会


これまでに見てきた通り、日本でのクリスチャン人口は非常に少なく、残念ながら、受洗者の数も伸び悩んでいます。

とはいえもちろん、その状況を教会の指導者たち(特に牧師・宣教師)が黙って許している訳でもありません。

牧師・宣教師たちはそれぞれに試行錯誤を繰り返しつつ、キリスト教の布教・伝道活動に全力を傾けています。

と同時に、教会に集う人たちがケガや病気をしたときにお見舞いに行ったり、冠婚葬祭の司式を執り行ったりもします。

また、クリスチャンの数が少ない教会においては、教会内の様々な役割・働きの多くを牧師が担うところも少なくありません。

このように

忙しく動き回る牧師・宣教師たちにとって、クリスチャンたちの成長の助けとなる教育・フォローの優先順位はどうしても低くなってしまう

という現実があります。8

結果、

洗礼を受ける前までは熱心に教育・指導をしたとしても、洗礼後の継続的な教育・フォローがどうしても手薄になってしまいます。

このような、

洗礼を受ける前と後での教育・フォローに対する熱量の違いに戸惑う

クリスチャンは多いのではないかと思います。

また、牧師・宣教師がリードすることなく、クリスチャン同士が集まって励まし合い、学び合える環境を構築することができている教会は良いですが、そこまでの環境・体制を作る余裕がない教会がほとんどというのが現実だと思います。

実際にクリスチャンとして生活するときに直面する多くの問題・課題に対して、助言を受けたり、互いに励まし合ったりする場所がない(少ない)

のであれば、クリスチャンとしての生活を続けることができなくなり、教会を離れるようになってしまったとしても致し方ないように思います。

教会の指導者(牧師)に係る諸問題

今節では日本の教会にクリスチャンが根付かない理由に関して、教会の指導者(牧師)に起因する諸問題を考えたいと思います。

しかしながら、これらの諸問題については、日本で洗礼者の数が増えない理由に関連して前回のブログ記事で取り扱った「教会の指導者(牧師)に係る諸問題」がそのまま当てはまります。

ですので、ここでその内容を繰り返すことはしません。ご興味のある方は是非、前回のブログ記事の該当箇所をご参照ください。

日本特有の伝統・文化に係る諸問題

次に、なぜ日本の教会にクリスチャンが根付かないのかに関して、日本特有の伝統・文化がもたらす諸問題という観点から考えてみます。

多忙な生活(仕事、習い事、学校のクラブ活動等)


日本では昨今、「働き方改革」が叫ばれ、業務の効率化を高めて残業(時間外労働)時間を減らそうとする動きが高まっています。

とはいえ、まだまだ前途は多難で、状況が直ぐに改善するように感じていないのは私だけではないのではないでしょうか。

このため、

せっかく仕事が休みとなる(はずの)土日祝くらい、自分や家族、友人のために出来るだけ時間を割きたい

と思う人は多いと思われます。

しかしながら、

教会関連のイベント・行事・活動はこの土日祝(特に日曜日)に集中

します。

せっかくの貴重なお休みが教会関連のイベント・行事・活動のために潰れてしまう

ことになってしまいます。

大人だけではありません。

日本の子供たちは学校での勉強以外の活動(クラブ活動や塾や習い事など)で週日はもちろん、週末も忙しい

生活を送っています。特に

クラブ活動や習い事の練習や催し物(試合や大会、発表会など)は土日祝(特に日曜日)に広く行われます。

このため、

(日曜日の)教会を取るか、クラブ活動・習い事を取るか、という選択に終始、頭を悩ませる

ことになってしまいます。

こうした教会外の生活の忙しさに身を置いていると、知らず知らずのうちに教会から足が遠ざかってしまったとしても仕方がないと言えるかもしれません。9

キリスト教と異なる価値観(世俗主義、世の誘惑等)

日本のクリスチャン人口が少ないということは、当然のことながら、

キリスト教的なモノの見方・考え方・価値観といったものは日本では少数派

ということになります。

例えば、クリスチャンたちの多くは、キリスト教に馴染みのない日本人の多くがすることをしません(例えば、初詣をしに神社に行ったり、お盆の時期にお墓参りに行ったりすること)。

反対に、キリスト教徒の多くはキリスト教徒でない日本人の多くがしないことをします(例えば、日曜日に教会に行って礼拝をしたり、食事の前に祈ったりといったこと)。

それは、

キリスト教でタブーとされていることが、クリスチャンではない日本人の多くから見ればタブーとはみなされない

ことがあるから、また反対に、

キリスト教で大切・大事・重要とされていることが、日本人の一般的な「常識」では大切・大事・重要でないとされる

こともあるからです。

そのため、

周りの人の顔色を伺いながら、日本人ならではの「同調圧力」に負けてしまい、クリスチャンとしての自らの意思や思いとは反する行動をとってしまう

ことがあります。10そうすると、

自責や後悔の念にかられ、多くの人がクリスチャンであり続けることが難しいと感じる

ようになってしまいます。11

そして次第に教会からも離れていくようになっていまいます。

本人に係る諸問題

なぜ日本の教会にクリスチャンが根付かないのかについて、ここまでは教会を離れていってしまうクリスチャンたちの周りの環境(教会、指導者、伝統・文化)に目を向けてきました。

最後に、教会を離れていってしまうクリスチャンたち本人に関係する問題について考えてみます。

この点に関しては大きく一つのことが挙げられると思います。それは、個々人の神様・イエス様に対する信仰の度合いの問題です。

信仰が未確立


これまで見てきたように、日本の教会からクリスチャンたちが離れていってしまう原因・要因には様々なものがありました。

しかしながら、それらの原因・要因の中には、

当の本人が神様・イエス様に対する確固たる信仰をもっていれば、ある程度は対処できるものもある

ように思います(信仰だけではどうにもならないことも、もちろんあります)12

特に人(牧師・宣教師や他の信徒など)や教会に対する「つまずき」を乗り越えるためには、

人ではなく神様を見て、神様に信頼し続ける

ことが大切です。13

その意味で、

自分が何を信じているのか、

神様・イエス様はどのようなお方か、

キリスト教の核心的な教え(救い)は何か、

クリスチャンとしてどのように生きるべきか、

といったことに対する認識・理解を深めておくことは重要だと言えます。14

これはつまり、

洗礼を受けてからの勉強や教育が大事

だということになります。

が、先にも見ましたように、

日本では諸々の事情から、信徒の教育・フォローが十分でない教会が少なくありません。

そのような状況にあって、

このブログの中の記事が少しでも皆さんのキリスト教理解および神様・イエス様に対する認識・信仰を深める助けになれば、この上ない喜び

です。

まとめ

今回のブログ記事は、第二次大戦以降、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことがないというキリスト教界の「1%の壁」に関して、とりわけ、

なぜ日本の教会にクリスチャンが根付かないのか?

について考えました。

特に日本の教会にクリスチャンが根付かないことに影響していると思われる諸問題に関して、教会の体質、教会の指導者(牧師)、日本特有の伝統・文化、本人という四つの視点から考えました。

その結果を箇条書きにすると以下になります。

  • 教会の体質に係る諸問題
    • 「つまずき」を与える教会
    • 律法主義的な教会
    • 物質主義的な教会
    • 教会内の役割・働きの負担が大きい教会
    • 信徒の教育・フォローが不十分な教会
  • 教会の指導者(牧師)に係る諸問題
    • 未成熟な人格
    • 不十分な聖書理解と実践神学
    • 未確立な教会観・教会論
    • 難解な説教(実践に乏しく知識偏重)
    • 律法主義的な説教
  • 日本特有の伝統・文化に係る諸問題
    • 多忙な生活(仕事、習い事、学校のクラブ活動等)
    • キリスト教と異なる価値観(世俗主義、世の誘惑等)
  • 本人に係る問題
    • 信仰が未確立

ここで、繰り返しになりますが、

今回の記事の内容も含め、前回、前々回の記事の内容は全て、ある特定のキリスト教界の教派・教団・教会の宣教活動を非難・糾弾・批判するつもりで書いた訳ではありません。

ただ個人的に、

日本の「1%の壁」をどうにかして打破できないか

という思いが強く、そのためにはやはり、その理由や原因について整理する必要性を感じ、個人的に書籍を読み漁ってある程度、体系立ててまとめたものを記事にした次第です。

ですから、前々回からの記事の内容は目新しいものではありませんし、キリスト教界に革新・改革をもたらそうとする意図のものでもありません。

実際、牧師や宣教師の方々はもちろん、聖職者ではないクリスチャンの方々にとっても、前々回からの三つの記事の内容はどこかで聞いたことがあるものだと思いますし、ご自身でも実際に感じて・考えていらっしゃったことも多くあったのではないかと思います。

とはいえ、やはり

「1%の壁」の理由とそれに関連する諸問題を体系的に整理することには意義がある

と思い、前々回からの三つの記事の内容を一般に公開することにしました。

なぜ日本でキリスト教が広まらないのか①:キリスト教界の「1%の壁」とその原因
第二次大戦以降の約80年間、数多くのクリスチャンによる伝道・布教活動にもかかわらず、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことはありません。この「1%の壁」の原因は一体何なのか?なぜ日本ではクリスチャンが一定数以上、増えないのか?今回はこの疑問・問題について考えます。
なぜ日本でキリスト教が広まらないのか②:洗礼者(受洗者)の数が増えない理由
第二次大戦以降の約80年間、日本のキリスト教徒の数が総人口の1%を超えたことはありません。この「1%の壁」の主な原因の一つと考えられる「洗礼者(受洗者)の数が増えない」ことについて、教会の体質、教会の指導者(特に牧師)、そして日本特有の伝統・文化という三つの視点から考えます。

ちなみに、本来であれば、教会や指導者たち、そして個々のクリスチャンたちの問題をただ(無責任に)指摘するだけでなく、その問題解決のための施策(案)などを提示するのが筋だと思います。

事実、私が読んだ参考文献の中にも問題解決に対する施策(案)が多数、挙げられていました。

けれども、今回は勝手ながら、それらの施策(案)の説明は省略させて頂きたいと思っています。

その代わり、施策(案)の大枠(キーワード)だけを箇条書きで記すことに留めさせて頂きます(一部、私案も含みます)ので、ご興味のある方は是非、参照文献をご一読ください。

「1%の壁」を乗り越えるための施策(案)

  • 教会の体質改善・改革(案)
    • 異教としてのキリスト教から日本(人)のためのキリスト教
      • 「否定の伝道」から「肯定の伝道」15
      • 「日本という場の神学」、「日本人のための神学」、「日本語の神学」16
    • 知識層中心(内向き志向)から大衆中心(外向き志向)
      • 「神の国のための教会」17
      • 「福音=神の国の到来」を語る説教18
      • 「正統主義(オーソドキシー)から正しい実践(オーソプラクシー)へ」19
      • 「正しい実践(文脈的神学)」20
      • 「日本の信徒の神学」21
      • 子供を意識した礼拝22
    •  牧師中心から信徒中心
      • 信徒教育・訓練23
      • 相互牧会(信徒同士で励まし合い、学び合える環境・人間関係)24
      • 家の教会25
      • Missional Church(宣教的教会)の日本文化・文脈への適応26
    • 伝道一極集中型から教会形成バランス型(礼拝、牧会、伝道)
      • Missional Church(宣教的教会)の日本文化・文脈への適応27
    • 日本文化迎合主義(物質主義、律法主義)から福音中心主義28
    • 各個教会中心から普遍教会中心
  • 牧師(信徒リーダー含む)の成長支援および育成体制の改善(案)
    • 日本文化に根差した伝道牧会のための(実践)神学及び弁証法の教育29
    • 教会観・教会論の確立支援30
    • 実生活と結びついた説教指導31
    • 神の愛と恵みを土台とした倫理道徳観を促す説教指導32
    • 人格や信仰面の未成熟さをフォローするメンタリング及びネットワーク形成

少し見て頂くと分かると思いますが、上記の施策(案)は「言うは易く行うは難し」で、

個人の力だけで成し遂げることはまず不可能

と言ってもよいと思います。

それは裏を返せば、これらの施策(案)の効果・成果が本当の意味で広がっていくには、

日本のキリスト教界全体の意識が変わる必要がある

と言えると思います。

実際問題、これまでに多くの人たちが「1%の壁」を打ち壊すべく、様々な取り組み(施策)を行ってきましたが、その効果・成果は限定的で、残念ながら、「1%の壁」が崩れるまでには至っていません。

と言ってしまうと、

途方もなく大きな「壁」を前にして、成す術が全くない

ように感じてしまいます。

が、しかし、実際のところ、

日本に住む日本人が神様・イエス様を信じるようになるのは、私たち人間の力ではなく神様の力による

ものです。言うなれば、

「1%の壁」を打ち破るのは私たちではなく神様

ということになります。

ですから、

「1%の壁」を前にしても希望を捨てることなく、人にとっては不可能なことも神様にとっては可能であることに期待しつつ、今、神様に委ねられていることに忠実に生きていきたい

と個人的には願います(ルカによる福音書18章27節)。

参考文献および注釈

  1. 日本福音同盟, 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン (いのちのことば社, 1986), 37, 42.
  2. 少し前のデータになるが、人々が教会を離れる原因として、牧師たちは第一に本人の信仰体験(32%)、第二に教会内の人間関係(28%)、第三に対社会的要因(17.3%)を挙げられている。対して、教会員たちは第一に個人の信仰の問題(57.8%)、第二に牧師へのつまずき(27.2%)、第三に教会へのつまずき(26.2%)、第四に教会員の人間関係(23.3%)を挙げられている。日本福音同盟, 37, 42.
  3. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか : 共同研究 (東京: いのちのことば社, 2012), 13–14.
  4. このような「律法主義的な教会」は前回のブログ「なぜ日本でキリスト教が広まらないのか②:洗礼者(受洗者)の数が増えない理由」でも取り扱った「アイデンティティを見失う(日本社会に迎合する)教会」とも関連があると思います。
  5. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 12.
  6. このような「物質主義的な教会」は前回のブログ「なぜ日本でキリスト教が広まらないのか②:洗礼者(受洗者)の数が増えない理由」でも取り扱った「アイデンティティを見失う(日本社会に迎合する)教会」とも関連していると思います。
  7. 教会員の数が少なく、教会内の役割・働きの負担が大きい教会が律法主義的でもあると、事態は更に悪化することになる。
  8. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 13–14; 古屋安雄, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教 (Tōkyō: 教文館, 2009), 141–42; 日本福音同盟, 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン, 37–38.
  9. 日本福音同盟, 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン, 37, 43.
  10. 日本福音同盟, 37.
  11. 先述の「律法主義的な教会」では、この傾向が更に強いのではないかと感じる。
  12. 日本福音同盟, 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン, 37, 42.
  13. 詳しくは下記を参照。日本福音同盟, 31–32.
  14.  日本福音同盟, 24–31.
  15. 櫻井圀郎, 「異教としてのキリスト教」からの脱却 (東京: リバイバル新聞社, 2004), 123.
  16. 櫻井, 139, 166–67.
  17. 古屋安雄, 神の国とキリスト教 (教文館, 2007), 35–36, 140–42, 181–82, 251.
  18. 古屋安雄, キリスト教新時代へのきざし: 1パーセントの壁を超えて (カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所, 2013), 121–24.
  19. 古屋, 93–97, 102–4.
  20. 古屋, 93–97.
  21. 古屋, 87.
  22. 古屋, 131–32.
  23. 研究会Fグループ, 日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか, 13–14; 古屋, なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教, 141–42; 日本福音同盟, 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン, 37.
  24. 日本福音同盟, 誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.23 名目上のクリスチャン, 38.
  25. 東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, ed., FCCブックレットNo.12 データブック2023『神の国の広がりと深化のために』 (東京基督教大学国際宣教センター 日本宣教リサーチ, 2023), 168–69.
  26. 詳細な議論は下記を参照。Motoaki Shinohara, The Church as God’s Missionary Community: Towards an Evangelical Missional Ecclesiology with Implications for the Japanese Church (Trinity Evangelical Divinity School, 2012).
  27. 詳細な議論は下記を参照。Shinohara.
  28. 福音中心の教会形成について、興味のある方は下記を参照。ケラーティモシー, センターチャーチ バランスのとれた福音中心のミニストリー, ed. 篠原基章, trans. 廣橋麻子 (いのちのことば社, 2022).
  29. 「日本という場の神学」、「日本人のための神学」、「日本語の神学」、「日本の信徒の神学」、「正しい実践(文脈的神学)」を実際の現場に適用したもの。
  30. 上記「教会の体質改善・改革(案)」に基づく。
  31. 福音中心の説教、「日本の信徒の神学」、「神の国のための教会」、「正しい実践(文脈的神学)」などを参考。
  32. 福音中心の説教、「神の国のための教会」などを参考。
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