礼拝説教の要旨です。
礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。
- 日時:2018年3月25日(日)
- 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「有難い愛」
- 聖書個所:ヨハネによる福音書3章16-17節
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)167頁1
導入
今日は十字架に顕された神様の愛に注目していきます。
造り主の底知れぬ愛
ヨハネによる福音書3章16-17節には「世」という言葉が四回出てきています。「神は…世を愛された」「神が御子を世に遣わされた」それは「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」。
ここに神様が「世」というものをこの上なく愛しておられることが記されています。その愛の程度というのは、「世」を滅びから救い出すためには、御自分の独り子であるイエス様の命を与えることさえ厭わないほど。神様の、ある意味、「世」を救わんとする必死さが伝わってくる。そんな箇所ではないでしょうか。
これほどまでに神様に愛されている「世」ですが、ヨハネによる福音書において、「世」は神様を認めず受け入れず憎みさえする存在として描かれています。例えばヨハネによる福音書1章10-11節に次のようにあります。
10言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)163頁
この前後を読むと、「言(ことば)」というのは神の御子イエス様のことを指していて、イエス様は神であること、天地万物が造られる前から神様と共にいたこと、天地万物はイエス様(神)によって造られたことが分かります(1章1-3, 14節)。そして1章10-11節には、イエス様(神)によって造られた「世」即ち人間は、イエス様(神)を認めず受け入れなかったと記されています。また、ヨハネによる福音書7章7節には「世は…わたし(イエス様)を憎んでいる」とも書かれています。
造り主と造られたモノ
天地万物の創造主なる神様が丹精込めて唯一無二の最高傑作としてお造りになったのが私たち人間です。しかし、神に造られた存在である私たち人間は、自分たちを造り出してくださった神様のことを愛するどころか、認めず受け入れず憎みさえしている。御自分が手塩にかけて造り出し、これ以上ないほどに愛している存在に認められず受け入れられず憎まれる神様・イエス様の気持ちはどのようなものか。私たち人間には到底計り知ることはできませんが、恐らくは、反抗期の子をもつ親の気持ちに近いと言えるかもしれません。
しかし、親と子の関係と神と人の関係には決定的な違いが一つあります。親と子の関係は、共に同じ人間という意味において、対等の立場にあります。対して、神と人の関係は造った者と造られたモノという関係。そこには根本的な違いがあって決して対等とはいえません。聖書には神様を陶工、人を粘土にたとえている箇所があります(例:エレミヤ書18章1-6節;ローマの信徒への手紙9章20-21節)。陶工が粘土から意のままに色々な形の器を造り出すように、神様は土のチリから御自分に似せて人を造られました(創世記1:26; 2:7)。陶工に造り出された器が造り主である陶工に口答えできないように、神様に造り出された人間は、本来、造り主である神様に口答えできるような立場にはいないのです。神と人との間にはどうしようもできない決定的かつ根本的なギャップ(違い)が存在しているのです。
造り主の有り得ない愛
聖書が語る創造主なる神様の被造物なる人間に対する愛というのは、どんなたとえを用いても決して表し尽くすことができません。なぜかというと、創造主なる神様(子なる神様)が被造物なる人間を救うために被造物の姿をとって世に来られたというのは、この世のどんなたとえを用いても絶対に表し得ないからです。先ほどの陶工と粘土のたとえでいうならば、「陶工(神)が粘土(人)になった」と言えますが、これは全く意味不明な表現、完全に私たちの理解の範疇を超えた出来事です。
仮に、今ここで「はい、それではこれから皆さんで粘土になってみましょう」と言われても、ピンとこないと思います。それくらい、否、それ以上に神様と人では住む世界(次元)が異なるのです。にもかかわらず、子なる神様は自ら人となって、この世に来られたのです。しかも、人から崇められ仕えられて当然のお方が僕の身分をとり、人に仕えるためにこの世に来られたのです(比較:フィリピの信徒への手紙2章7節)。私たちの常識で考えると有り得ないことだらけです。
でも、なぜそんなにも有り得ない話が現実となったのでしょうか。なぜ創造主なる神様を認めず受け入れず憎んでいた人間を滅びから救うために、子なる神御自身が被造物なる人間の姿をとって、仕えられるためではなく仕えるために、その命を捧げられたのでしょうか?それは私たち人間を愛されたからだと聖書は語ります。知れば知るほど、考えれば考えるほど、被造物の人間の常識では有り得ない創造主なる神様の愛。その神様の有り得ない愛が顕されたのがイエス様の十字架です。
結論
人間の「慣れ」というのは怖いもので、クリスチャン生活が長くなればなるほど神様の愛や恵みが「当たり前」になってきて、その「有難さ」を忘れ「有難み」が薄れてくることがあります。神様が敵対している人間を無条件で愛するのは「当たり前」。創造主なる神様が被造物なる人の姿をとってこの世に来たのは「当たり前」。神様の独り子が私たちの罪を背負って十字架で死んだのは「当たり前」。といった具合です。
しかし、これらのことは決して「当たり前」なことではなく、むしろ常識的に考えて有り得ないこと、「有難い」ことです。どれほど有難いかは神様の立場に自分自身を置いてみると明らかです。「あなたの敵を愛しなさい」と言われて、「そんなの愛して当り前だよ」と答えられる人がどれほどいるでしょうか。「今日から粘土になって暮らしなさい」と言われて、「そんなの当たり前のことだから問題ないよ」と答えられる人がどれほどいるでしょうか。「この粘土が台無しにならないようにするために、あなたの独り息子を身代わりに捧げてくれ」と言われて、「そんなの頼まれるまでもありません。ぜひウチの息子の命をその粘土の身代わりとして使ってください」と答えられる人がどれほどいるでしょうか。
しかし、このように「有難い」こと全てを神様は成し遂げてくださったと聖書は語ります。それは、他の誰でもないあなたを神様が愛しておられるから。あなたの天の父として、また親友として、あなたといつも共にいたいと切に願っておられたからなのです。イースター(復活祭)前の最後の日曜日、今一度、十字架に顕された神様の有難い愛を覚えるときをもちましょう。イエス様の愛をより深く味わい知り、心から「神様、有難うございます」という感謝を捧げることができますように。
参考文献および注釈
- Burge, Gary M. John. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2000.
- Carson, D. A. The Gospel according to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
- Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.