礼拝説教の要旨です。
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- 日時:2018年4月29日(日)
- 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「恐れを包む安心感」
- 聖書個所:マルコによる福音書16章1-8節
1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)97頁1
導入
ほとんどの聖書学者は、マルコによる福音書が16章の8節で終わると考えています。しかし、8節まで読んでも話が終わる気がしない人は多いのではないでしょうか。実際、括弧付きではありますが、マルコによる福音書には9-20節の話が含まれています。
なぜ8節で話が終わる気がしないのか。その理由の一つは恐らく、ハッピーエンドでないからでしょう。今日の話に登場する三人の女性たちは恐れのあまりに天使と思われる人物の言い付けを守ることができませんでした。つまり、8節までだと彼女たちの失敗談で話が終わってしまうのです。でもマルコはここで福音書の話を終わろうとした。それは一体なぜか?
復活の知らせに恐れる人々
今日の箇所に登場するマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメの三人は、イエス様が復活するとは夢にも思っていませんでした。「油を塗る」(1節)という行為は死んだ人を丁重に葬るための行為です。
イエス様が死んだことに落ち込んでいた彼女たちにとって、イエス様が復活なさったということはこれ以上ない素晴らしい知らせだったはずです。しかも、その信じられないニュースを伝えたのは天使としか思えないような人物ですから、偽ニュースなはずがありません。
従って、天使からイエス様復活の知らせを聞いた女性たちは喜びに満たされて直ぐに他の弟子たちにそのことを伝えに行きそうな気がします。が、しかし、マルコは復活の知らせを聞いて恐れる女性たちの描写(8節)で福音書全体の話を終えたのです。なぜでしょうか?
弱い人々を見捨てない神
実はマルコは、この女性たちだけでなく他にも沢山の人が「恐れる」様子を描いています。しかも彼らはイエス様の行いや言葉に対して恐れるのです(参照:4:41; 5:15, 33; 6:50; 9:6; 10:32)。
そこに記される人々の「恐れ」は、「畏れ敬う」という意味の「恐れ」ではなく、恐怖のあまりにパニック状態に陥り、イエス様・神様の望んでおられることができなくなってしまうような「恐れ」がほとんど。
つまり、マルコによる福音書に出て来る人々は、イエス様の弟子たちも含め皆、イエス様・神様の望んでおられることを(したいとは思っていてもなかなか)することができない弱い存在として描かれています(参考:14:38)。
しかし、それと同時にイエス様は、そんな弱い人々、失敗ばかりの人々、期待を裏切ってばかりの人々を決して見捨てないことも描かれています。
イエス様がゲツセマネの園で捕らえられたとき、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました(14:50)。ペトロはイエス様との関係を三度否定しました(14:66-72)。
しかしイエス様は、そんな弟子たちはもちろんペトロをも見捨てませんでした。見捨てるどころか、復活後に天使を遣わし「弟子たちとペトロ」(16:7)とわざわざ名指しをして、彼らをガリラヤで待っているというメッセージを女性たちに託したのです。私たちを決して見捨てることのない神の愛が表れています。
弱い人々を通して御旨を成す神
またイエス様・神様は、私たちが神様の望んでおられることをやりたいとは思っていてもなかなかできない弱い存在であることをご存知なお方です。神様は全てご存知の上で、弱い私たちを通して、御旨を成していかれるのです(参考: 14:27-31)。
イエス様は、マルコ16章の女性たちが他の弟子たちと違って恐れることなく大胆に宣教できるだろうと期待していたから、彼女たちを選んで復活の良い知らせ、福音を託した訳ではないのです。イエス様は彼女たちも他の弟子たちと同じく弱い存在であるのを知った上で彼女たちを選び、復活のメッセージを託されたのです。神の恵みによる選びの業が見て取れます(比較:コリント第一1:26-31)。
結論
この神の愛と恵みに触れる時、私たちの心の中で変化が起こります。「こんな自分でも大丈夫なんだ」「こんな自分でも神様は見捨てることなく愛してくださってるんだ」「何もできない自分でも神様は必要としてくださってるんだ」と感じる時、私たちの心に言葉では言い表しがたい安らぎが生じます。それは「ああ、このままでいいんだ」「こんな自分でも神様は見捨てずにいつも共にいてくださっているんだ」という絶対的な安心感。
この安心感は私たちの内に住まわれる神の霊、聖霊によって深められるもの。そして、その(聖霊によってもたらされた)絶対的な安心感は、たとえ何かに失敗して挫折を味わい絶望のどん底にあったとしても、私たちに今一度、生きる希望と勇気と力を与えてくれるものです。
神様の愛と恵みに根差した絶対的な安心感が私たちに生きる希望と勇気と力を与えてくださる。そうするとき初めて、無理なく自然に、義務感からではなく喜びに満ちて自ら進んで、神様のことをもっと知りたい、神様のために何かしたいという気持ちが沸き起こります。
ペトロを含めた弟子たちはもちろん、16章に出て来る女性たちも同じだったはずです。そうでなければ、復活したイエス様のことが2000年の時を超えて現代の日本にまで伝わっているはずがないからです。
私たちはこの世で様々なプレッシャーを経験します。「あれに失敗したらどうしよう…」「これだけは絶対に成功させなければ…」そのようなプレッシャーは決して悪いことではありません。適度なプレッシャー(負荷・運動)がなければ怠け者になり、身体はかえって弱くなってしまいます。
しかし、過度なプレッシャーで押し潰されてしまうとなると話は別です。家にいても、学校にいても、職場にいても、教会にいても、「―なければならない」というプレッシャーを感じてしまうのは、神様ではなく人の目が気になり過ぎているからかもしれません。人の期待に応えるために、もしくは人との関係を保つために、「―なければならない」と自分を追い込んではいないでしょうか。「―なければならない」に押し潰されそうになったときには、神様の愛と恵みに目を向けてみてください。
神様は、あなたが何かをしたから・するから、あなたを愛してくださるのではありません。あなたが期待に応えられなかったからといって、あなたを嫌いになるようなお方ではありません。あなたが恐れのあまりに何かに失敗したからといって、関係を切るようなお方でもありません。
神様にとって、あなたの失敗は全て織り込み済みなのです。その上でなお、あなたの存在そのものを受け入れ、御自分の独り子の命に代えても惜しくないほどにあなたを愛していらっしゃいます。たとえあなたが恐れで身動きが取れなくなってしまったとしても、その恐れを包み込む絶対的な安心感を与えてくださるお方です。この神様の愛と恵みからくる絶対的な安心感に支えられて日々、神様と共に歩んでいきましょう。
参考文献および注釈
- Edwards, James R. The Gospel according to Mark. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002.
- Garland, David E. Mark. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 1996.