礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。
- 日時:2021年1月10日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「表された愛」
- 聖書個所:マルコによる福音書15章33-39節1
導入
今日の聖書個所はイエス様が十字架上で息を引き取られた場面です。
この「十字架」というのは今でこそキリスト教のシンボル、神様の愛の象徴となっていますが、2000年前のパレスチナ地方では誰もが忌み嫌う最低最悪の象徴でした。
なぜなら、「十字架刑」というのは国家に対する反逆者や重罪人に対して見せしめを兼ねて行われた非常に残酷かつ屈辱的な刑罰だったからです。
しかし、
のです。
今日は暗いニュースばかりが続く今の世にあって、
と思います。と同時に今一度、
と思います。
耐え忍ばれたイエス
十字架刑がいかに残酷かつ屈辱的であったかについては、今日の聖書個所の少し前から読むと分かると思います。
まず十字架刑にかけられることが決まったイエス様は鞭打ちを受けました(マルコによる福音書15章15節)。この鞭打ちはそれだけで命を落とすこともあるほど苦痛に満ちたものであったようです(比較:マルコによる福音書15章21節)。
その後でイエス様はローマ兵から侮辱されます(16-20節)。
それから、イエス様は見せしめのために十字架を担いで街中を歩かされ、町はずれの処刑場で十字架につけられます。
このとき、イエス様の手は十字架に釘付けにされ (参考:ヨハネによる福音書20章25-28節)、着ていた衣類は全てはぎとられ(マルコによる福音書15章24節)、素っ裸で十字架につけられていたと考えられます。
まさに苦痛と恥辱にまみれた処刑法です。
それで終わりではありません。
十字架につけられたイエス様に対して、今度はそこを通りがかった人々や祭司長たちや律法学者、そしてイエス様と一緒に十字架に架けられていた犯罪人たちまでもがイエス様を罵ります(29-32節)。
一般市民に始まって指導者層、そして同じ十字架刑にかけられるような重罪人から罵られるイエス様。
しかも、
にも関わらず、です。
見捨てられたイエス
このような苦痛と屈辱に満ちた十字架刑によって息を引き取る間際、イエス様は
わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか【マルコによる福音書15章34節】
出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)94頁
と大声で叫ばれたとマルコは記します。
このイエス様の叫びは詩編22編1節の引用となっていますが、その解釈については聖書学者の間でも意見が分かれています。
ある学者は一人の人間として十字架で死のうとするイエス様の苦悩がこの言葉に表されていると解釈します。
またある学者は詩編22編全体を通した詩編作者の思いと十字架上のイエス様の思いをこのセリフを通して重ねようとします。
というのも、詩編22編は最終的には苦しみから救ってくださった神様に対する賛美で終わるからです。
つまり、イエス様は確かに十字架によって一時の苦しみを経験するけれども、その後の復活によって神様が死から救い出してくださることを確信していることを示すため、詩編22:1を引用したと解釈する訳です。
さらに別の学者は文字通り、たとえ一時であったとしても、イエス様は確かに神様から見捨てられたのだと考えます。
個人的には、この最後の解釈に二番目の解釈を足したものではないかと考えています。即ち、
という訳です。ただし、もちろん、イエス様が神様から見捨てられた状態にあるときも、
永遠の昔から永遠の未来に至るまで、いついかなるときも神様は三位一体なお方です。
表された愛
では、
残念ながら、
とはいえ、子なる神イエス様が、たとえ一時であれ、愛してやまない三位一体の父なる神様から見捨てられるということには、私たち人間の想像をはるかに超えた苦しみや悲しみ、痛みが伴っていたことは間違いないでしょう(比較:マルコによる福音書14章33-36節)。
でも、
それは、
言い換えるならば、
のです。
だから、
のです。
結論
出血多量で意識がなくなりそうなくらいに鞭打たれ、人々からは嫌というほど罵られました。
その状況を一瞬にして覆すことができるほどの圧倒的な力と権威をもっていたにもかかわらず、イエス様はその力や権威を一切用いることなく、あらゆる屈辱、恥辱、苦痛に耐えられました。
そして、最終的には
罪を犯したことのない完全なお方が、本来受けるべきではないはずの屈辱、恥辱、苦痛を受けられた…。
絶対にあってはならないこと、全知全能で愛なる神様がいるならば、決して起こり得るはずのないことが起きた訳です。
なぜでしょうか。
神様が全知全能でなかったからではありません。
神様が愛なるお方でないからでもありません。
それは、
でした。
のです。ここに神様の絶対的な主権が表れています。
また、
のは、私たちが他の誰かよりも優れた才能・素質をもっているからではありません。
私たちが何か立派なことをしたからでもありません。
私たちが神様の役に立つからでもありません。
のです。
これが神様の愛であり恵みです。
と言われても、そんな神様の愛を感じないときがあるかもしれません。
と神様に不平不満を言いたくなるときがあるかもしれません。そんなときは
それは
からです。
です。御自身が同じような、否、それ以上の苦しみ、悲しみ、痛みを経験されたからです(比較:ヘブライ人への手紙2章18節)。
参考文献および注釈
- Edwards, James R. The Gospel according to Mark. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002.
- Garland, David E. Mark. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 1996.
- Stein, Robert H. Mark. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker, 2008.