「祈りの中心」:2024年1月21日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

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導入

2024年が始まりましたが、新年早々、悲惨なニュースが相次いでいます。

そのような悲惨な出来事を耳にすると、被害状況の回復のために祈る人は多いと思います。

また、個人的な生活において悲劇・災難に直面すると誰もが「神様、この悲惨な状況をどうにか元に戻してください」と祈ると思います。

今日は私たちの日常でも馴染みのある「祈り」について、少し考えたいと思います。

特に今日の聖書個所に出て来るヒゼキヤという王様の「祈り」を通して、

神様はどのようなお方であるか?

また

神様は私たちにどのように祈ることを願っておられるか?

を考えたいと思います。

神中心の祈り

今日の聖書個所に出て来るヒゼキヤ王の時代、南ユダ王国はアッシリア帝国によって滅ぼされようとしていました(参照:列王記下18章13, 17節)。

このときアッシリアの王センナケリブは降伏を勧めるべくヒゼキヤに使者を遣わします(列王記下18章19, 31節; 19章10節)。

そして、イスラエル民族の神様は信頼に足る神ではなく彼らをアッシリア帝国から救い出すことはできないと罵ります(列王記下18章35節; 19章10-11節)。

この言葉を聞いたヒゼキヤは神様に祈りますが、その

祈りの中心はイスラエルの人々や国ではなく神様

にありました(参照:列王記下19章16, 19節)。

神様の御名が罵られ、神様の名誉が傷つけられた。

だから、その名誉を回復すべく、イスラエルの民を救い出してください。

そうすれば、地上の全ての人々は神様だけが唯一まことの神であることを知るようになるでしょう。

そう彼は祈ります。

神中心の祈りを聞く神

神様はそのような神様中心のヒゼキヤの祈りを聞き、奇跡的な方法でイスラエル民族をアッシリアの手から救われました(列王記下19章35-37節)。

ここで注目すべきは、ヒゼキヤの祈りに対する神様の最後の言葉(列王記下19:34)です。

というのも神様は、

神様が南ユダ王国をアッシリアから救い出すのはヒゼキヤのためではなく、神様ご自身のため、またダビデのため

だとおっしゃっているからです。

神様ご自身のためというのは、イスラエルの神様だけが絶対的な主権をもった唯一まことの神であることを示すため

という意味です。

ダビデのためというのは、その昔、神様がイスラエルの王ダビデと交わした約束に由来

しています(サムエル記下7章16節)。

そのとき神様は、イスラエルの王とその民が神様だけに付き従うならば、その王国が永遠に続くと約束されていました(列王記上9章4-9節)。

ところが、イスラエルの王とその民は何度となくイスラエルの神様から離れ、他の神々に従うようになっていました。

それ故に神様はアッシリアを用いて北イスラエル王国を滅ぼし、今や南ユダ王国も滅ぼそうとされていた訳です(参考:列王記下17章7-20節; 18章25節; 比較:18章13節; 19章25-26節)。

けれども、

愛と恵みと憐れみに富む神様は、その昔にダビデと交わした約束を思い起こし、神様に対して反抗的で不従順な民を救おうとされた

訳です。

心からの切なる祈り

実はこの列王記下19章34節とほとんど同じ言葉が今日の聖書個所となる列王記下20章6節に出て来ています。

これはヒゼキヤが死に至る病の癒しを神様に祈り求めたとき、神様が彼に語った言葉です。

絶対的な主権をもち、愛と恵みと憐れみに富む、約束に誠実な神様は列王記下20章6節の言葉の通り、ヒゼキヤを病から救い、エルサレムの町をアッシリアから救われました。

ここでヒゼキヤの病が癒されたのは、彼が神様の前に忠実に生きてきたからだと思う方がいらっしゃるかもしれません(比較:列王記下18章3-7節; 20章3節)。

しかしながら、彼の神様に対する信仰(従順さ)は決して揺るぎないものではありませんでした。

事実、ヒゼキヤはアッシリアの王センナケリブがユダの町々を占拠したとき、神様に助けを求めるどころか、センナケリブに貢物を送って和睦を申し入れました(列王記下18章13-16節)。

ヒゼキヤは神様の助けに信頼するよりも自らの知恵・策略により頼んだ

訳です(比較:列王記下20章12-18節)。

心からの切なる祈りを聞く神

神様に信頼しきれず、自らの知恵・策略により頼もうとするヒゼキヤなのにもかかわらず、神様は彼の祈りを聞かれ、その病を癒されました。

それは、

神様がヒゼキヤの信仰や行いではなく、彼の涙をご覧になったから

です(列王記下20章5節)

神様に信頼しきれず、自らの知恵・策略により頼もうとするヒゼキヤの姿には神様に信頼しきれず、他の神々により頼もうとするイスラエル民族の姿が重なります。

神様はそのように神様に不忠実で欠けたところのある人々を見捨てることができず、愛と恵みと憐れみをもって窮地から救い出してくださるお方、その心からの切なる祈りを聞いてくださるお方

です(比較:創世記16章11節; 21章17節; 出エジプト記2章23-25節;サムエル記上1章19-20節)。

結論

神様は絶対的な主権をもち、愛と恵みと憐れみに富む、約束に誠実なお方

です。その

神様のことを第一に考える神様中心の祈りを捧げるとき、神様はその祈りを聞いてくださいます。

また、たとえ私たちが神様に信頼しきれず、神様以外のモノ・ヒトにより頼むことがあったとしても、神様中心の祈りを捧げられないことがあったとしても、神様は私たちを見捨てるようなお方ではありません。

私たちが神様の前にへりくだって、心からの切なる祈りを捧げるとき、神様はその祈りを聞いてくださいます。

ここで大事なことは、

神様は私たちの行いに応じて祈りに答えてくださるお方ではない

ということです。

神様がご覧になるのは私たちの行いではなく、私たちの心

だからです。

あなたが神様にお祈りするとき、その心の中心には誰・何がいるでしょうか?

自分や自分に近しい人たちの思い・願いがかなえられることだけを祈ってはいないでしょうか。

もちろん、自分や自分に近しい人の思い・願いがかなえられることを祈ること自体は悪いことではありません。

今日の個所のヒゼキヤも自分の病が癒されるように祈っています。

しかしながら、神様は私たちの願いを何でもかなえてくれるランプの精ではありません。

神様は私たち人類を含む天地万物の創造主であり、全てを治める絶対的な主権者

です。と同時に、

神様は愛と恵みと憐れみに富むお方

でもあります。

私たちにできることは

祈りの中で、この神様の愛と恵みと憐れみにすがる

こと、ただそれだけです。

自分にはどうにもならない状況に陥ったとき、どうして良いか分からないとき、

自分の無力さを認め、神様の前にへりくだって、神様の助けを祈り求めてみてください。

神様の思い・願いが何であるかを示してくださるように祈り求めてください。

自分の思い・願いではなく神様の御心がなるように祈り求めてみてください(参考:マタイによる福音書26章39節)。

そうすればきっと神様はあなたのその祈りに答えてくださるでしょう。

ただし、

その答えが必ずしもあなたの願い通りの答えであるとは限りません。

大切なことは、

どのような結果になろうとも全てを神様に委ねる心、神様に対する絶対的な信頼・信仰をもつ

ことです(参考:サムエル記下12章15-23節)。

祈りの中心に神様を置く。

神様の御心がなるように祈り求める。

神様に対する絶対的な信頼・信仰をもって祈る。

と言うのは簡単ですが、実際問題、そのような神様中心の祈りをするのは簡単なことではありません。

私たちは誰もが神様以外のモノ・ヒトを神様よりも優先しがちな罪深い性質を持っている

からです。この

私たちの罪は神様と私たちとの関係を壊し、私たちの祈りが神様に届かないようにしていました(参考:イザヤ書59章1-2節)。

でも神様はそのような状態をよしとはされず、その独り子イエス様をこの世に遣わされました。

そして、

イエス様が私たちの罪をその身に背負って十字架で死んでよみがえってくださったおかげで、イエス様を救い主と信じる私たちは神様に大胆に近づくことができる

ようになりました(参考:エフェソの信徒への手紙2章13, 18節)。

イエス様の十字架と復活の御業のおかげで、私たちは神様のことを「父」また「お父さん」と親しく呼びかけ、祈ることができるようになった

訳です。

この特権もまた私たちの行いによるのではなく、神様の愛と恵みと憐れみによるものです。

神様に祈る度に是非、この神様の愛と恵みと憐れみを思い起こしてみてください。

あなたが神様に祈ることができるのは神様の愛と恵みと憐れみにおかげ、

神様があなたの祈りを聞いてくださるのもまた神様の愛と恵みと憐れみのおかげ

です。この

愛と恵みと憐れみに富む、偉大なる神様の御心が天に行われる通りにこの地にも行われますように。

参考文献および注釈

  • Wray Beal, Lissa M. 1 & 2 Kings: An Introduction And Survey. The Apollos Old Testament Commentary. Downers Grove, Ill.: Apollos, 2014.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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