「差し伸べられる神の御手」:2021年6月27日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

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導入

ここ最近の説教個所を読みながら旧約聖書からの引用が多いことに気付かれた方はいらっしゃいますか?

実際、ローマの信徒への手紙の9-11章には他の章に比べて約2倍も多く旧約聖書が引用されています(全16章の中に約80回の引用があり、9-11章内の引用回数は24回)。

でも、

なぜローマの信徒への手紙の9-11章には旧約聖書がたくさん引用されているのでしょうか?

その主な理由は、

神様の救いの計画が旧約聖書に預言されている通りに着実に進んでいることをパウロが示そうとしている

からです。今日の聖書個所を通して今一度、聖書の神様がどのようなお方かを確認していきましょう。

聞いても信じない人々

当時のユダヤ人たちの多くはイエス様を信じていませんでした。

イエス様を信じる信仰によってではなく、神様から与えられた律法を守ること、つまりは行いによって、神様の前に正しいと認められようとしていたからです (ローマの信徒への手紙9章30-31節)。

しかも

ユダヤ人たちは神様の律法を守り行おうとすることに熱心でした。

けれども、その熱心さは自分自身の正しさを証明するための熱心さであって、神様の正しさに従おうとする熱心さでなかったとパウロは言っています(ローマの信徒への手紙10章2-3節)。

彼らの生き方は自分の弱さを認めて神様の恵みに頼ろうとするのではなく、自分自身の努力や才能、知識や経験によって人生を切り開こうとする生き方だと言えます。

神様ではなく自分に頼る。
信じられるのは、頼ることができるのは結局のところ自分だけ。

そのように生きる人たちにとって、

神様・イエス様がもたらす救いは必要ありません。

事実、ユダヤ人たちがイエス様を信じなかったのはイエス様のことを知らなかったからではありません。

彼らは

イエス様のことを聞いていたにも関わらず、イエス様のことを信じなかった

のです(10章18節)。

良い知らせ(福音)を聞いた人が皆、イエス様を信じる訳ではありません(10章16節)。

その一つの例が当時のイスラエル民族でした。

人々を救う神

ローマの信徒への手紙10章18節に続く19節でパウロは

それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。
【ローマの信徒への手紙10章19節】

出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)283頁

と質問を投げかけています。これは文学的な表現で、

「もちろん、分かっていた」

という答えを期待する投げかけとなっています。

つまり、「イスラエルは分かっていた」とパウロは言っている訳です。

が、しかし、

一体「何を」分かっていたのかについては明確に記されていません。

前後の文脈を見ると、これまでの話の中心はイエス様のこと(福音)となっています。

このため、イスラエル民族は福音について聞いていただけなく、その内容もきちんと分かっていたとパウロが言っているとする解釈が可能です。

しかしながら、イスラエル民族が福音について分かっていたと解釈すると、続く個所に引用されている旧約聖書の預言との関連性が良く分からなくなってきます。

というのも、パウロは19-20節で「異邦人の救い」について語っているからです。具体的には、

神様が異邦人たちを救われるという出来事を通して、ユダヤ人たちは妬みと怒りを覚えるようになることが預言されていた

とパウロは語っています。

手を差し伸べる神

このことから、

イスラエル民族が分かっていたことは福音ではなく、神様の救いの御業が異邦人にもおよぶことだった

と理解できます。では、

なぜイスラエル民族は、異邦人たちが旧約聖書の預言の通りに救われていく様子を横目でみながら、自分たちが救われることを拒んだのでしょうか?

その主な理由の一つは恐らく、

自分たちが予想・期待している方法で異邦人たちが救われていなかったから

だと思います。

神様はそんな頑なで反抗的なイスラエル民族を見捨てるどころか、絶えず手を差し伸べていた

と聖書は語っています(ローマの信徒への手紙10章21節)。

ここにイスラエル民族を何としても救いたいと願う神様の愛をみることができます。

神様は自分のことを愛するどころか無視し、反抗する人々に日夜、手を差し伸べておられるのです(比較:マタイによる福音書6章43-48節)。

他の人たちを彼らよりも先に救っているのは、彼らのことを嫌いになったからでも、見捨てたからでもありません。

他の人々を先に救うことで彼らの内に妬みと怒りを引き起こし、自分の方を振り向いてもらうため。

持てる力の全てを用いて、自分のことを無視し反抗する人々を救おうとされている神様

の姿が垣間見えます。

結論

イスラエル民族の多くはイエス様のことを救い主だと信じ、その名を呼び求めようとはしませんでした。

それはイエス様のこと(福音)を聞いたことがなかったからではありませんでした。

ユダヤ人たちは福音を聞いていたけれども、イエス様を信じることによって、神様の恵みによって救われるという良い知らせを受け入れることができなかった

のです。

彼らにとって、救いというのは神様の恵みによるものではなく、あくまでも自分たちの行いによるものだと固く信じて疑わなかったから

です。

でも、そんなにも強情で傲慢で身勝手なイスラエル民族を神様は見限ることも見捨てることもなさいません。

ご自分のことを無視し、絶えず反抗するような人々であったとしても、神様は変わらずに彼らを愛し続け、どうにかして彼らを救おうとその御手を差し伸べておられる

のです。

今日の聖書個所は主にイスラエル民族についての話ですが、異邦人である私たちについても当てはまることがあります。

イスラエル民族は神様の救いが異邦人たちにも及ぶであろうことは知っていました。けれども、それはあくまでも彼ら自身が考える方法による救いでした。

言ってしまえば、

ユダヤ人たちは自分たちなりの理解の中に神様を押し込めようとしていました。
自分の思いや考えを神様の思いや考えよりも優先させてしまっていた

訳です。

自分の思い・考えを神様の思い・考えよりも優先させるというのは、現代の私たちもしばしば陥りやすい過ち

です。とりわけ、

自分の思いや考えと聖書(神様)の教えを照らし合わせ、自分にとって都合の良い教えだけ、自分の好きな言葉だけを覚えているということはないでしょうか?

例えば、

「神様は自分をありのままで愛してくださっている」
「神様は自分の全ての罪を赦してくださっている」

という言葉。

これらはもちろん、聖書の語る真実であり真理です。

が、しかし、

実際はそれだけで終わらずに続きがあります。

神様は確かにあなたをありのままで愛してくださっています。でも、それだから、

その神様の愛に答えるべく神様の望まれる生き方をするように神様は願っていらっしゃいます。

それまでと同じで、何も変わらない・変えない生き方でよい訳ではありません(参考:ローマの信徒への手紙6章19-23節)。

また、神様は確かにあなたの全ての罪を赦してくださっています。その罪の赦しのために神の子イエス様が十字架で死んでよみがえってくださいました。その

イエス様の十字架と復活に表されている神様の愛と憐みを覚え、今も生きて共にいてくださるイエス様と一緒に、聖霊の助けにすがりながら、自分の周りの人にも愛と憐みを示すように神様は願っていらっしゃいます。

どうせ罪は赦されるのだからと高をくくって、好き勝手に生きてよい訳ではありません(参考:マタイによる福音書18章21-35節)。

自分にとって都合の良い部分だけ、自分の好きな言葉だけを切り出すのではなく、聖書全体の教えをバランスよく理解する

ことが大事です。

もう一つ、自分の思い・考えを神様の思い・考えよりも優先させることについて考えてみます。

皆さんは人生の中で自分の思うように物事が進まないとき、神様に対して憤り、神様に不平不満をぶつけることはないでしょうか?周りの人たちに対してはどうでしょうか?

神様に対してであれ、人に対してであれ、怒りや妬み、不平不満が生まれるのは大抵、自分の中の「○○なはずだ」「××なはずがない」という思い・考えが強い事柄に関してではないかと思います。

自分の思いや考えが(神様を含め)誰よりも正しいと思っているとき、その自分の正しさを否定する現実を前にして私たちは怒ったり、妬んだりすることが多い

ように思います。

神様や人に対して怒りや妬み、不平不満といった感情が沸き起こっているとき、

自分の心の奥底を探る時間を取ってみてください。

誰か・何かに対して怒りや妬み、不満を感じるとき、

自分の思いや考えが神様の思いや考えよりも強くなってはいないでしょうか。
他の人の立場や状況を省みず、自分中心で独りよがりの考え・思いになってはいないでしょうか。
自分は絶対的に正しく、他の人や周りの環境・状況が間違っていると断定してはいないでしょうか。
自分自身が神になってはいないでしょうか。

怒りや妬みの感情が生まれた時はある意味、神様に近づくチャンスだと言えます。

祈りの中で自分の心の奥底にある思いや考えと向き合ってください。
自分の思いや考えを神様の思いや考えに近づけてもらうように祈り求めてみてください(参考:ローマの信徒への手紙8章26-27節)。

直ぐには変わらないかもしれません。

神様の思いや考えがなかなか分からず、

やはり自分は神様から見捨てられたんだ…

と途方に暮れることがあるかもしれません。でも、

神様があなたを見捨てることは決してありません。
神様は変わらぬ愛をもって、あなたの思いや考えが神様の方を向くようにと絶えず手を差し伸べておられます。

参考文献および注釈

  • Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
  • ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
  • Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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