礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2021年6月27日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「差し伸べられる神の御手」
- 聖書個所:ローマの信徒への手紙10章14-21節1
導入
実際、ローマの信徒への手紙の9-11章には他の章に比べて約2倍も多く旧約聖書が引用されています(全16章の中に約80回の引用があり、9-11章内の引用回数は24回)。
でも、
その主な理由は、
からです。今日の聖書個所を通して今一度、聖書の神様がどのようなお方かを確認していきましょう。
聞いても信じない人々
イエス様を信じる信仰によってではなく、神様から与えられた律法を守ること、つまりは行いによって、神様の前に正しいと認められようとしていたからです (ローマの信徒への手紙9章30-31節)。
しかも
けれども、その熱心さは自分自身の正しさを証明するための熱心さであって、神様の正しさに従おうとする熱心さでなかったとパウロは言っています(ローマの信徒への手紙10章2-3節)。
彼らの生き方は自分の弱さを認めて神様の恵みに頼ろうとするのではなく、自分自身の努力や才能、知識や経験によって人生を切り開こうとする生き方だと言えます。
そのように生きる人たちにとって、
事実、ユダヤ人たちがイエス様を信じなかったのはイエス様のことを知らなかったからではありません。
彼らは
のです(10章18節)。
その一つの例が当時のイスラエル民族でした。
人々を救う神
ローマの信徒への手紙10章18節に続く19節でパウロは
それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。
【ローマの信徒への手紙10章19節】出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)283頁
と質問を投げかけています。これは文学的な表現で、
「もちろん、分かっていた」
という答えを期待する投げかけとなっています。
つまり、「イスラエルは分かっていた」とパウロは言っている訳です。
が、しかし、
前後の文脈を見ると、これまでの話の中心はイエス様のこと(福音)となっています。
このため、イスラエル民族は福音について聞いていただけなく、その内容もきちんと分かっていたとパウロが言っているとする解釈が可能です。
しかしながら、イスラエル民族が福音について分かっていたと解釈すると、続く個所に引用されている旧約聖書の預言との関連性が良く分からなくなってきます。
というのも、パウロは19-20節で「異邦人の救い」について語っているからです。具体的には、
とパウロは語っています。
手を差し伸べる神
このことから、
と理解できます。では、
その主な理由の一つは恐らく、
だと思います。
と聖書は語っています(ローマの信徒への手紙10章21節)。
ここにイスラエル民族を何としても救いたいと願う神様の愛をみることができます。
神様は自分のことを愛するどころか無視し、反抗する人々に日夜、手を差し伸べておられるのです(比較:マタイによる福音書6章43-48節)。
他の人たちを彼らよりも先に救っているのは、彼らのことを嫌いになったからでも、見捨てたからでもありません。
他の人々を先に救うことで彼らの内に妬みと怒りを引き起こし、自分の方を振り向いてもらうため。
の姿が垣間見えます。
結論
イスラエル民族の多くはイエス様のことを救い主だと信じ、その名を呼び求めようとはしませんでした。
それはイエス様のこと(福音)を聞いたことがなかったからではありませんでした。
のです。
です。
でも、そんなにも強情で傲慢で身勝手なイスラエル民族を神様は見限ることも見捨てることもなさいません。
のです。
今日の聖書個所は主にイスラエル民族についての話ですが、異邦人である私たちについても当てはまることがあります。
イスラエル民族は神様の救いが異邦人たちにも及ぶであろうことは知っていました。けれども、それはあくまでも彼ら自身が考える方法による救いでした。
言ってしまえば、
訳です。
です。とりわけ、
例えば、
という言葉。
これらはもちろん、聖書の語る真実であり真理です。
が、しかし、
神様は確かにあなたをありのままで愛してくださっています。でも、それだから、
それまでと同じで、何も変わらない・変えない生き方でよい訳ではありません(参考:ローマの信徒への手紙6章19-23節)。
また、神様は確かにあなたの全ての罪を赦してくださっています。その罪の赦しのために神の子イエス様が十字架で死んでよみがえってくださいました。その
どうせ罪は赦されるのだからと高をくくって、好き勝手に生きてよい訳ではありません(参考:マタイによる福音書18章21-35節)。
ことが大事です。
もう一つ、自分の思い・考えを神様の思い・考えよりも優先させることについて考えてみます。
神様に対してであれ、人に対してであれ、怒りや妬み、不平不満が生まれるのは大抵、自分の中の「○○なはずだ」「××なはずがない」という思い・考えが強い事柄に関してではないかと思います。
ように思います。
神様や人に対して怒りや妬み、不平不満といった感情が沸き起こっているとき、
誰か・何かに対して怒りや妬み、不満を感じるとき、
怒りや妬みの感情が生まれた時はある意味、神様に近づくチャンスだと言えます。
直ぐには変わらないかもしれません。
神様の思いや考えがなかなか分からず、
と途方に暮れることがあるかもしれません。でも、
参考文献および注釈
- Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
- ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
- Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.