礼拝説教の要旨です。
- 日時:2022年3月20日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「系図に透ける神の思い」
- 聖書個所:出エジプト記6章13-27節1
導入
物語調になっていて話が分かりやすい箇所は比較的読みやすいと思います。
でも、律法が記されているところを飛ばさずに読むのは結構な忍耐を必要とします。
さらに厄介なのは今日の個所に出てくる「系図」だと思います。
聖書は「神の言葉」で一言一句にも意味があると聞いてはいても、系図を通して神様からのメッセージを受け取るのは簡単ではないと思います。
今日は、
を共に考えたいと思います。
系図の挿入
今日の個所に出てくる系図(出エジプト記6章14-25節)は一見すると、それまでの話の流れを中断するようなかたちで挿入されているように思えます。
しかも、今日の聖書個所(13-27節)の前後、即ち、10-12節と28-30節を見比べると、ほとんど同じ内容・言葉が記されています。
現代のテレビ番組の中には視聴者の理解を助けるため、CMが終わった直後にそのCMに入る直前の話が少しだけ繰り返されるものがあると思います。
今日の聖書個所の前後の文章構成は、それと全く同じ構造となっています。
言うなれば、「出エジプト記」というテレビ番組(物語)の中に突然、割って入るCMに相当するのが今日の聖書個所という訳です。
とはいえ、今日の個所に出てくる系図は話の筋と無関係なテレビCMとは似て非なるものです。その特徴・意義を考えるためには系図の中身を詳しく見ていく必要があります。
系図の特徴
出エジプト記6章14-25節に記される系図の特徴の一つは、イスラエル(ヤコブ)につらなる子孫が全て記されているのではなく限られた特定の人物の名前だけが記されていることです。
6章14節にあるように、あくまでも
訳です。
また、この家系図の中心はモーセではなくアロンとなっています。
事実、モーセは名前こそ出てきますが、彼の子供たちの名前は一人も出てきません(比較:出エジプト記18章2-4節)。
対して、アロンは妻の名前も含め子供4人と孫が1人記されています。
モーセ・アロンの孫の世代の中で名前が記されているのはアロンの孫ピネハスただ一人ですから、アロンの家系に特別な焦点が当たっていることが分かると思います。
系図の意義
モーセではなくアロンがこの系図の中心となっているのは、
からです(出エジプト記7章1-2節;比較:4章14-16節)。つまり、
と言えます。
なお、アロンの孫のピネハスは民数記25章において、聖書の神様以外の神々を拝んでいたイスラエル民族に対する神の怒りを鎮めた人物として登場します(民数記25章1-13節)。
このことから、ピネハスという人物は最初に出エジプト記を読んだ人たち(恐らくはモーセと同年代およびモーセの子と孫の世代)なら誰でも知っている「超有名人」だと言っても過言ではないでしょう。
最初に出エジプト記を読んだ人たちは恐らく、
と思いながらこの系図を読んでいたと思われます。
結論
出エジプト記6章14-25節に記される系図は一見すると、それまでの話の流れを遮るかたちで挿入されているように思えます。
しかしながら、最初に出エジプト記を読んだ読者たちにとってその系図は、
ために重要な役割を果たしています。
また別の見方をすれば、この系図は
ものだとも言えます。
とはいえもちろん、この系図がアロンと読者たちとの間の「距離」を縮めてくれるというのは全ての読者に当てはまる訳ではありません。
モーセの時代から何千年も後に生まれ、21世紀の日本で暮らす私たちが系図を読んでみても、アロンとの「距離」が縮まったように感じることは難しいと思います。
が、しかし、(モーセを通して)出エジプト記を書き記された
訳です。
そんな神様の思い・願いに応えるため、現代に生きる私たちが
だと思います。そうすることで、
と思います。
聖書の中の登場人物(特にアロン)との距離を縮めてもらいたいという他にもう一つ、今日の個所の系図に透けて見える神様の思いについて考えてみます。
出エジプト記6章23節にはアロンの妻エリシェバの名前が記されると同時に彼女の父アミナダブと兄弟ナフションの名前も記されています。
このナフションは当時のユダ部族の指導者でした(民数記2章3節)。
実は、このナフションの孫はボアズで、ボアズのひ孫はダビデです(マタイによる福音書1章4-6節)。そして、ダビデの家系から救い主イエス・キリストが生まれます。
ですので、
ことが分かります。
このことから、もしかしたら
のかもしれません。実際、アロンとイエス様との間には血縁関係以上の結びつきがあります。
アロンはイスラエル民族の中で初めて祭司となった人物です(出エジプト記28章1節)。
そして
アロンを始め、彼の血を引く者は「大祭司」として一年に一度、幕屋および神殿の中で最も神聖な場所に入り、イスラエルの民全体のための贖いの儀式を執り行いました(レビ記16章;ヘブライ人への手紙9章7節)。
そのときには雄山羊と雄牛がいけにえとして用いられます(レビ記16章11-28節)。
しかしながら、
この意味で、アロンが務めた大祭司という役職、および一年に一度執り行った儀式は、後の時代にイエス様によって成し遂げられる永遠の贖いを指し示すものであったと言えます(比較:ヘブライ人への手紙10章1節)。
だと思います。
経済的にも政治的にも状況がどんどん悪くなっています。
誰もが
といった疑問を持つと思います。
今日の聖書個所に関しても聖書の作者である神様の思い・考えが良く分からず
と思いたくなります。
しかしながら、
たとえ私たち人間が完璧に理解することができないとしても、そこには
そんな神様の思い・考えを知るためには、
もっと情報が必要なのかもしれません。
視点を変える必要があるのかもしれません。
時間が経って、全体像が見えた時に初めて分かるのかもしれません。
いずれにしても、確かなことは、
ということです。その最もよい例が
です。
当時の人々はイエス様の弟子たちも含め、誰ひとりとして救い主であるイエス様が十字架に架かるとは思っていませんでした。
誰もが十字架上で息を引き取られたイエス様を見て
「神様の思い・考えが良く分からない」
「神様はなぜこの状況を許しておられるのだろうか」
と思ったはずです。
が、しかし、
のです。
「神様の思い・考えが良く分からない」
「神様はなぜこの状況を許しておられるのだろうか」
と思うような時こそ、
そこに表されている、
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.