礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。
- 日時:2022年6月12日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神の初子(ういご)」
- 聖書個所:出エジプト記13章1-16節1
導入
先々週の聖書個所(出エジプト記12章29-42節)において、
することができました。
物語としては一つのクライマックスを迎え、これからどんな話が待っているのだろうと誰もが興味津々の中、その期待をじらすかのように先週(12章43-51節)、そして今週(13章1-16節)と過越祭に関する記述が挿入されています。
実は、この
形で記載されています(参照:12章1-28節)。
そこには出エジプト記を書いた作者(神様)の明確な意図が表れています。その意図とは
を伝えることです。今日の聖書個所通して今一度、神様の救いの御業について思い巡らしていきましょう。
初子を神に献げる
今日の聖書個所の始め(出エジプト記13章2節)で神様はモーセに対して、
とおっしゃっています。
「聖別する」という言葉は「聖なるものとして区別する・取り分ける」という意味です。
聖書では聖なるお方は神様ただ一人だけですので、
と言えます。
神様のものである初子を神様に献げる具体的な方法については出エジプト13:11-13に記されています。
そこにはまず、神様がこれから導き入れようとしている約束の地カナンに入ってから初子を献げるように命じられています(11節)。
次に、ろばの初子は小羊で贖うか、贖わない場合は首を折って殺すようにとあります(13節)。
それ以外の家畜の初子についての記載はここにはありません。
けれども、他の聖書個所(例えば民数記18章7節)をみると、牛、羊、山羊の初子は殺して神様に献げるように定められています。
必要があります(出エジプト13章13節)。この贖いについては民数記3章44-48節によると、
ように定められています。
ただし、当時のイスラエル民族の初子の数はレビ人の数よりも多かったため、その差分は一人当たり銀5シェケル(約57グラム)で贖うように命じられています。
なお、当時は欠陥のない雄羊が二シェケル相当の価値があったようです(参考:レビ記5章15節)。
初子は神のもの
ここで大事なことは
であるということです。
神様のものであるということは、人間の好き勝手に扱うことができないということになります。
そのため、家畜であれば殺して神様に献げる必要がありますし、ろばや人の場合であれば殺す代わりに別のモノ・ヒトを身代わりとする必要があるということになります。
という訳です。
この意味において、イスラエル中の初子が生き残る代わりにエジプト中の初子が死ぬという出来事(出エジプト記12章29-36節;比較:12章21-28節)は、
であったと考えることができます(比較:13章14-15節)。別の言い方をすれば、
そのことをこの悲劇は教えてくれているとも言えます。
- 神様のものとして生きるためには贖いが必要
- 死から救われる(贖われる)ためには他の何かによる犠牲が必要
このどちらも、後に現れるイエス様による救いを暗示しています。
神の初子による贖い
しかしながら、私たちが神様のものとして生きるためには贖いが必要となります。
が、その贖いこそ、
だった訳です(参考:コリントの信徒への手紙一6章19-20節)。
です。この場合、死からの救い(贖い)は私たちの罪の赦しと直結しています。
というのも、
だからです(ローマの信徒への手紙6章23節;ヤコブの手紙2章10節)。
従って、
があります。そして、
のです(参考:ヘブライ人への手紙9章26節)。
なお、イエス様を信じて「神様のものとなった人」は「神様の長子」と言えます(参考:ヘブライ人への手紙12章23節;比較:出エジプト記4章22節;エレミヤ書31章9節)。
つまり、
と言えることになります。そして、その「長子の中の長子」というべき存在が神様の独り子イエス様です(ローマの信徒への手紙8章29節;比較:コロサイ人への手紙1章15, 18節)。
ですから、
ということもできます。
結論
でもあります。しかし、
そもそものところ私たち人間は罪にまみれた存在です。
そのため、神様の民になろうとする以前に、聖なる神様の顔を見ることさえできないからです(参考:イザヤ書6章5-7節)。
神様はそれほどまでに神聖で清いお方ですから、
が、しかし、残念なことに、その
私たちは一生かかっても返しきれないほどの負債(罪)を神様に対して負っているからです(参考:マタイによる福音書18章21-35節)。
でも、だからこそ、
訳です。この
私たちは善い行いをすることによってではなく、
のです。
イエス様の贖いの御業を信じ、神様の望まれる人生を生きようとするとき、私たちは罪赦され、神様のものとなる。
と言われても、
人がいらっしゃるかもしれません。
「○○のもの」と聞くと、自分の意思・意見が全く尊重されず、人ではなく物として扱われるイメージを抱きかねないからです。
しかしながら、
ことを意味します。それはつまり、
ことです。そして私たちを創造された神様の価値観に基づいて生きるとき、私たち人間は最も人間らしく生きることができるとも言えます。
また、
お方です。そうでなければ、子なる神イエス様ご自身が私たちのために十字架で死んでくださるはずがありません。
という訳です。
ただ、
この世の中の価値観は神様の価値観とは相容れないことが多いからです。
神の御子イエス様でさえこの世にあっては多くの苦難・困難を経験されました。
世はイエス様を憎んだ訳です。
それと同じく、この世の中から選び出され、神様のものとされたクリスチャンは世から憎まれるようになります(参照:ヨハネによる福音書15章18-19節)。
しかしもちろん、
のです(ヨハネによる福音書16章33節;マタイによる福音書28章18-20節)。
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.