「祈りとは何か」:2023年8月20日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

導入

突然ですが質問です。

皆さんは祈るときにどのように祈っているでしょうか?
祈るときの態度や言葉遣い、祈りの内容はどのようなものでしょうか?
祈るときに気を付けていること、意識していることなど何かあるでしょうか?

今日は、今日の聖書個所を通して、私たちの生活に身近な

「祈り」とは何か?

について、共に考えていきたいと思います。

子なる神の祈り

ルカによる福音書11章1節も含め、ルカによる福音書にはイエス様ご自身が祈っておられたと記されている箇所が沢山あります(ルカによる福音書3章21節; 5章16節; 6章12節; 9章18, 28節; 22章41, 44節)。

これは、神様に対して祈ることの大切さを福音書の作者ルカが強調しようとしていると理解できます。

神様の独り子であり、三位一体の神ご自身でもあるイエス様が父なる神様に祈っているのだから、イエス様を信じ従おうとする私たち(イエス様の弟子たち)もまたイエス様のように、もしくはイエス様以上に祈る必要がある

と言えます。

父なる神への祈り

イエス様が祈り終えたのを見て、弟子たちはイエス様に祈りを教えてくれるように頼みます。

するとイエス様はルカによる福音書11章2-4節で、具体的にどのように祈るべきかをお伝えになります。このルカ11:2-4から、祈りについて少なくとも3つのことが分かります。

一つ目は、

祈りは父なる神様に対するもの

だということです(ルカによる福音書11章2節)。

天地万物を創造し、統べ治めておられる唯一まことの神様を自らの「父」として親しく呼びかけ、その近しい関係の中で自分の思い悩みや願いを打ち明けることができる。

それはイエス様を信じ、神様の子供とされた私たちクリスチャンに与えられた特権です。

神を優先する祈り

ルカによる福音書11章2-4節から祈りについて分かることの二つ目、それは

祈るときには自分たちのことよりも神様のことを優先する姿勢・態度が重要

だということです。

事実、ルカによる福音書11章2節でイエス様は「父よ」と呼びかけた後で、神様の名が聖とされること、また神様の国が来ることを願っておられます。

そしてその後に、日々の食料や罪の赦し、試みからの守りといった日常的な生活における望み・願いが続いています(11章3-4節)。

まず神様について、それから自分たちのことについて祈る。

自分たちのことよりも神様のことをまずは優先する姿勢・態度が祈りには欠かせません。

共同体のための祈り

ルカによる福音書11章2-4節から祈りについて分かることの三つ目、それは

自分個人のためだけでなく、自分以外の人たち、特にクリスチャンの共同体の中の人たちのために祈ることも重要

だということです。これは3節と4節で記されている神様に対する願いが全て「私たち」という複数の人々に関するものであることから明らかです。

とはいえもちろん、自分個人のために祈っていけない訳ではありません。

イエス様自身もゲツセマネの園では、自分個人に対する「杯」を取り除けてもらえるようにとお祈りしています(ルカによる福音書22:42)。

しかしながら、いつも自分や自分に近しい人のことについて祈るのではなく、自分の属する信仰共同体(地域教会)の人たちのために祈ることも大切です。

なりふり構わない祈り

続くルカによる福音書11章5-8節でイエス様は一つのたとえを用いて、

なりふり構わず執拗に神様に祈ることの大切さ

を伝えようとしています。別の言い方をすれば、

私たちは神様の前に格好つけずに恥や外聞を捨てて、正直に自分の思いを打ち明け続ければよい

と言えます。

神様は、恥や外聞を捨てて、なりふり構わず執拗に祈り求める人に対して、その人に必要なものを喜んで与えてくださいます。

神の心に適った祈り

最後に、ルカによる福音書11章9-13節でイエス様は父親と子供との関係を引き合いに出しながら、

祈り求める人に対して神様が霊的に必要な(良い)ものを与えてくださる

ことを教えておられます。

この最後の13節で、天の父なる神様は求める者に「聖霊を与えてくださる」と記されています。

神様が求める人に聖霊を与えるというのは、

神様が祈り求める人に対して聖霊を通して神様の御心を成すために必要な力を惜しみなく与える

と理解できます(参考:ルカによる福音書24章49節;使徒言行録1章8節; 2章1-4節)。

これは裏を返せば、

イエス様は私たちの祈りを何でも適えてくださる訳ではない

ことを意味します。

祈り続けることで与えられるのはあくまでも、私たちにとって霊的に必要な(良い)もの、それは即ち、聖霊を通して与えられる神様の御心を成すために必要な力

です。

私たちが自分の思いではなく神様の思いを優先させ、神様の御心に適った祈りを捧げ続けるとき、信じる者の内に住む聖霊を通して、その祈りが現実のものとなっていく

と言えます(比較:ヤコブの手紙4章3節;ヨハネの手紙一5章14節)。

結論

今日は祈りについて、幾つかのことを見てきました。

まず

祈りというのは、天地万物を造り、統べ治められている神様との親子のように近しい関係の中でなされるもの

ということを見ました。しかも、神様の独り子であり、三位一体の神ご自身でもあるイエス様も事あるごとに父なる神様に祈っていますので、

父なる神様との関係において祈りは無くてはならないもの

だと言えます。また

祈りにおいては自分たちのことよりも神様のことを優先する態度・姿勢が重要

です。特に

自分の思いではなく神様の思いを優先させ、神様の御心に適った祈りを捧げ続けるとき、信じる者の内に住む聖霊を通して、その祈りが現実のものとなっていきます。

さらに

個人的なことだけでなく、信仰の共同体の人たちのために祈ることも大切

です。そして

神様は、神様の前に格好つけず、恥や外聞を捨てて正直に自分の思いを打ち明けることを望んでおられます。

なお、そもそものところになりますが、私たちが神様を「父」と呼び、親子のように近しい関係の中で神様に祈ることができるのは

イエス様の十字架と復活による救いの御業のおかげ

です。

イエス様の十字架と復活がなければ、私たちが父なる神様に祈ることすらできませんでした。

その意味で、

父なる神様に対して祈れること自体が神様の恵みであり祝福

です。

祈りの中で神様を「父」と呼びかける度に、この神様に祈れる恵み・祝福を覚えることも大切

だと言えるでしょう。

今日学んだことを手掛かりにして「祈りとは何か」と考えてみると、

(父なる)神様との関係性が具現化したもの

と言えると思います(もちろん、他にも色々な角度から「祈りとは何か」について答えられます)。

神様に対してどのような態度・姿勢で、どれくらいの頻度で何を祈り求めるか、そこにあなたと神様との関係性がはっきりと表れている

と言えるからです。

あなたはどれくらいの頻度で神様に祈っていますか?
祈るときの神様に対する態度・姿勢はどのようなものでしょうか?
その祈りの内容はどのようなものでしょうか?
祈れることが当たり前になりすぎて、父なる神様の前に祈れる恵み・祝福そのものを忘れてはいないでしょうか?

今すぐにこれらの問いに答える必要はありません。

家に帰って、父なる神様の御前に心静め、祈りの中で今一度、自分が神様に対してどのような態度・姿勢で、どれくらいの頻度で何を祈り求めるかを思い巡らしてみください

そして、その祈りの中で、神様に対してどのような態度・姿勢で、どれくらいの頻度で何を祈り求めるべきかを示されたならば、それを実行に移してみてください

仮に、全てを実行できなくても、神様のあなたに対する愛は変わりません

祈りはあくまでも「(父なる)神様との関係性が具現化したもの」です。

どのような態度・姿勢で、どれくらいの頻度で何を祈り求めるにせよ、

その祈りを通して、父なる神様とあなたとの関係がより一層、深められていきますように。

参考文献および注釈

  • Bock, Darrell L. Luke 9:51-24:53. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker Bk House, 1996.
  • Edwards, James R. The Gospel According to Luke. Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2015.
  • France, R. T. Luke. Teach the Text Commentary Series. Grand Rapids, Mich.: Baker Books, 2013.
  • Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
スポンサーリンク
レクタングル(大)広告