礼拝説教の要旨です。
- 日時:2024年7月14日(日)
- 場所:軽井沢リトリートセンター
- 説教タイトル・テーマ:「神からの呼びかけ」
- 聖書個所:サムエル記上4章1-11節1
導入
昨年はまだ新型コロナの影響が心配されていましたが、最近ではマスクをしている人の方が少なくなってきて、ようやくポスト・コロナの時代が本格的にやって来たように感じるのは私だけではないと思います。
ただ、いつの時代もそうですが、「一難去ってまた一難」というように、
と言っても過言ではないと思います。
皆さんもそれぞれ人生における問題や課題、悩みといったものを持っているのではないかと思います。
今日の聖書個所に出て来るイスラエル民族もまた、彼らの人生における大きな問題・課題、悩みに直面していました。
それは
でした。今日はこの個所を通して、
特に
を考えたいと思います。
神から離れる人々
今日の聖書個所はサムエル記上から取っています。
その当時、
ようになっていきました(士師記21章25節)。
このような無秩序状態のイスラエル民族を神様の下に立ち帰らせる存在として登場するのが「サムエル記」という名前の元となっている預言者サムエルです。
当時のユダヤ人たちの無秩序ぶりは、その時の指導者であった祭司エリ(サムエル記上4章18節)の二人の息子ホフニとピネハスの様子から見て取れます。
サムエル記上2章12節にはホフニとピネハスの二人がならず者で、神様に心から仕えようとはしなかったと記されています(参照:サムエル記上2章13-17, 29節)。
神様はそんな彼らに対して裁きをくだし、
という預言がエリに告げられていました(2章34節; 3章12-14節)。
今日の聖書個所の最後(サムエル記上4章11節)でホフニとピネハスの二人が戦死しているのは、この預言の成就となっています
神に裁かれる人々
さて、内容が前後しますが、今日の聖書個所の始めには
場面が描かれています(サムエル記上4章1b-2a節)。
ここでサムエル記の作者は、なぜイスラエル民族とペリシテ人が戦うことになったのかという理由を記していません。
しかし、それまでのイスラエルの歴史、特に士師記の内容を思い出してみると、イスラエル民族がペリシテ人と戦うことになった理由は、
だと推測できます(比較:士師記2章10-19節; 3章7-11節)。
事実、サムエル記上7章3節にははっきりと
ことが記されています。そして、
とも記されています。これは裏を返せば、
だということになります。
今日の聖書個所の話に戻ると、
その理由もまた
だと言えます。
特に
と言えます。
ところが、イスラエル民族は敗戦の理由が自分たちの罪にあるとは考えず、神様が彼らと共にいなかったからだと考えました。
そして、神様の臨在の象徴であった契約の箱を戦いの場に運んでこさせました(3-4節)。
しかしながら、ここでもイスラエル民族はペリシテ人に再度、敗北を喫します(10節)。
しかも、その戦いの最中、
結論
今日の聖書個所に描かれる当時の
実際、
それ故に
結果、
ところがイスラエル民族は、戦いに敗れた理由を自分たちの罪が裁かれたためではなく、神様が彼らと共におられないためだと考えました。
そして、神の箱を戦いの場に運んでこさせますが、イスラエル民族は再度、ペリシテ人に打ち負かされてしまいました。
と同時に、
今日の話を通して神様について分かること、それは
ということ。特に
ということです。
事実、当時のイスラエル民族の心と行いは神様から離れてしまっていました。
また異民族のペリシテ人は神様に敵対する人たちでした。
けれども神様はそのように神様に敵対する人や不従順な罪深い人間をも用いて、その預言を実現された訳です。
だと言えます。
そのような絶対的な主権をもち、約束を必ず果たされる誠実な
と約束してくださっています。
ただ、神様・イエス様がいつも共にいてくださるからと言って、
今日の個所のイスラエル民族はペリシテ人の侵攻によって苦しみや悲しみ、痛みを経験しました。
でもだからと言って、神様が彼らと共にいなかった訳ではありませんでした。
実際、神様は、彼らが神様から離れてしまっていても、彼らを見捨てるどころか、サムエルという預言者を起こして彼らをご自分の下へと招き入れようとしておられました。
では
その理由の一つとして、今日の個所から考えられることは、
かもしれないということです。その意味で、
と言えるかもしれません。
それらの出来事を通して、
と神様が語り掛けておられるのかもしれません。
それらは神様の思い・考えよりも自分の思い・考えを優先しているが故の問題や課題、悩みではないでしょうか。
神様の目に正しいことではなく、自分の目に正しいと思うことを行ってしまった故の問題や課題、悩みではないでしょうか。
もし神様よりも自分のことを優先してしまっていることがあるとすれば、今一度、
自分の思い・考えよりも神様の思い・考えを優先してみてください。
自分の目に正しいことではなく、神様の目に正しいことが何かを見極め、行うことができるよう祈り求めてみてください。
と言うのは簡単ですが、実際に
でも、そんな
ことを決して忘れないでください。
イエス様の時代の人々は、宗教指導者たちはもちろん、イエス様の弟子たちも含め皆が神様よりも自分のことを優先し、神様ではなく自分の目に正しいと思うことを行っていました。
その結果、全人類の救い主イエス様が十字架に架けられてしまったのです。
しかしながら、神様はそれによって、私たち人類の罪をイエス様に背負わせ、私たちの罪の代価をイエス様に支払わせました。
私たちが行いによってではなく、イエス様を信じる信仰によって罪赦され、神様の子供となるためです。
たとえ神様第一の生活が出来なくても、
神様の思いよりも自分の思いを優先してしまうことがあるとしても、
神様の目ではなく自分の目に正しいことをしてしまうことがあるとしても、
たとえ何があったとしても、
参考文献および注釈
- Arnold, Bill T. 1 & 2 Samuel. First Edition. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003.
- Firth, David G. 1 & 2 Samuel. Apollos Old Testament Commentary. Nottingham, England : Downers Grove: IVP Academic, 2009.David G. Firth, IVP Academic (2009/10/30)