「苦しみにあってささげる感謝と賛美」:2019年12月29日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

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導入

今日の聖書個所である詩編56編の作者は非常に辛い状況にありました(2-3、6、7節)。1

しかし彼は、そんな困難な状況にあって神様に感謝と賛美を捧げています(11-13節)。今日は

苦しみの只中にあった詩編の作者がなぜ神様に感謝と賛美をささげることができたのか?

をみていこうと思います。

苦しみにあってささげる感謝と賛美

詩編56編はダビデがガトでペリシテ人に捕らえらえていたときに書かれたものとされています(1節)。

その当時、イスラエル王国の初代の王サウルは恐れと妬みからダビデの命を狙っていました(サムエル記上18―19章)。そして、恐らくは身の安全を確保するため、ダビデはガトの王アキシュのもとを訪れます(サムエル記上21章1節;比較:サムエル記上27章1-4節)。

しかし、アキシュの家臣は、ダビデがガトの町を侵略しに来たと思ったのか、ダビデを捕えてしまいます(サムエル上21:11-12)。

そのような絶体絶命の状況でダビデは神様に助けを求めます(2-3節)。と同時に、ダビデは神様に対する信頼も言い表しています(4-5節)。

更にダビデは、苦しみの只中にあって神様の御言葉を賛美し(5、11節)、神様に感謝しています(13節)。

なぜダビデは苦しみの只中にあってそれほどまでの強い信仰をもつことができたのでしょうか?

詩編56編から、少なくとも三つの理由を挙げることができます。

誠実な神

苦しみの只中にあって、ダビデが神様に感謝と賛美をささげることができたのは、

神様の御言葉は信頼に足る

と彼が知っていたからだと思います。

イザヤ書55章8-11節で神様は、預言者イザヤを通して、

御自分の道と思いは人間の道と思いを高く超えていて、御自分の望むこと・与えた使命を必ず果たす

と言っています。

神様は私たちが何か良いことをしたから、私たちを助けてくれる訳ではありません。

神様が私たちを助けてくれるのは、神様が憐み深く、御自身の約束を果たす誠実なお方だから

です。また神様の道と思いは人知を超えていますから、その助け方はしばしば私たちの想像を超えたものでもあります。その最も良い例がイエス・キリストの十字架です。

当時のユダヤ人たちにとって、救い主(メシア)は政治的な解放者、ローマ帝国に代わって新しい王国を打ち立ててくれる存在です。イエス様の弟子たちも含め誰一人として、メシアが十字架に架かるとは思っていませんでした。

しかし、

神様は歴史上最悪とも言える出来事(イエス様の十字架)を通して、御自分の望むこと(救いの御業)を成し遂げられました。

神様は最悪なものから最高のものを生じさせることができる全能なお方です。

たとえ今の状況がどんなに悪く見えたとしても、神様は必ず御自身の約束を果たされるお方。

そう思えるとき、ダビデと同じく私たちもまた苦しみの只中にあって、神様に感謝と賛美をささげることができるのではないでしょうか。

正しい神

苦しみにあってダビデが神様に賛美と感謝をささげることができた二つ目の理由。それは、

神様は正しいお方である

と彼が知っていたからだと思います。

詩編56編8節でダビデは神様に悪を行う人たちに対して怒りを発し、屈服させるように願い求めています。

ここで注目すべきことは、ダビデ自身が自ら悪を行う人たちを屈服させようとしてはいないことです。ダビデは神様に依り頼み、神様の裁きに委ねています(比較:マタイによる福音書5章39節;ローマの信徒への手紙12章19-21節)。

復讐・報復は私たちではなく神様がなさること。

言い換えれば、

神様は御自分の正義に基づいて全てを裁く正しいお方

です。聖にして義なる神様はいかなる悪も見過ごすことができません。このことが最もはっきりと示されているのがイエス様の十字架です。

というのも、子なる神であるイエス様自らが十字架上で私たちの罪の罰である死を受けてくださったからです。言うなれば、

子なる神が私たちに代わって裁かれ苦しまれたからこそ、イエス様を救い主として信じる人は永遠の命を得ることができるようになった

のです。また、子なる神イエス様が私たちのために十字架で死なれたのは、私たちが何か良いことをしたからではなく、私たちを愛しておられるからです。この意味で、

十字架には神様の愛と正しさが表されている

と言えます。

更に、

イエス様が再び来られる時、イエス様は全てを裁く

と聖書は約束しています(ヨハネの黙示録21章11-15節;マタイによる福音書25章31-46節)。俗にいう「最後の審判」です。

ですから、

たとえ今の状況がどんなに悪く見えたとしても、神様は最終的には御自分の正義に基づいて全てを裁く正しいお方

だと言えます。しかも、そのお方は御自分が約束したことは必ず果たす全知全能にして誠実なお方。そう思えるとき、ダビデと同じく私たちもまた苦しみの只中にあって、神様に感謝と賛美をささげることができるのではないでしょうか。

力をもった神

苦しみの只中にあってダビデが神様に感謝と賛美をささげることができたもう一つの理由。それは、

神様は私たちを悪から救い出す力をもったお方

であると彼が知っていたからだと思います(詩編56編10章)。

事実、14節においてダビデは、神様は彼の魂を死から救い出すことができる力をもったお方であると謳っています。この神様の力はイエス・キリストの復活においてはっきりとみることができます。

私たち

人類にとって、最悪にして最強の「敵」とも呼べる存在は死

だと思います。しかし聖書は、この

人類の究極的な敵とも呼べる死すら、イエス様が再び来られる時には打ち負かされると約束しています(コリントの信徒への手紙第一15章54節)。

イエス様の復活は、私たちもいつの日かイエス様が復活した時にもっていた身体と同じ身体をもって復活することの確証と希望を与えてくれるものです(フィリピの信徒への手紙3章21節)。

そして、そのときには死も悲しみも嘆きも苦しみもないと聖書は約束しています(黙示録21:4)。

たとえ今の状況がどんなに悪く見えたとしても、最終的に神様は私たちを悪から救い出すだけでなく、全てを新しくする力をもったお方

なのです(ヨハネの黙示録21章5節)。そして、そのお方は御自分が約束したことは必ず果たす誠実なお方、また御自分の正義に基づいて全てを裁く正しいお方。そう思えるとき、ダビデと同じく私たちもまた苦しみの只中にあって、神様に感謝と賛美をささげることができるのではないでしょうか。

結論

苦しみの只中にあって、ダビデは神様に依り頼むことができただけでなく、神様に感謝と賛美をささげることができました。それは彼が、

神様は誠実で正しく力をもったお方

であると知っていたからです。別の言い方をすれば、

神様は約束を必ず果たされるお方、御自分の正義に基づいて全てを裁かれるお方、私たちを悪から救い出し全てを新しくすることができるお方

です。このような神様の性質は全て、イエス様の十字架と復活の中に示されています。

もし今現在、辛い状況にあって神様に心からの感謝と賛美をささげることができないと思う方がいらっしゃれば、

イエス様の死と復活を通して神様が成してくださったことを思い起こしてください。

神様はあなたが永遠に苦しまれることを望んではおられません。むしろ

神様はあなたといつも一緒にいたいと願っていらっしゃいます。

そのために、神様御自身がこの世に来られ、十字架上で死んでよみがえられたのです。確かに、この世に生きる限り苦しみから逃れることはできないでしょう。

でも、決して忘れないでください。

たとえ今の状況がどんなに悪く見えたとしても、誠実で正しく力をもった神様の独り子イエス様があなたといつも共にいてくださっています。

そして、

イエス様が再びこの世に来られるとき、全ては新しくされるのです。

参考文献および注釈

  • Tate, Marvin. Psalms 51-100. The Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Thomas Nelson, 1991.
  • VanGemeren, Willem A. Psalms. Revised edition. Vol. V. The Expositor’s Bible commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2008.
  • Wilson, Gerald H. Psalms. Volume I. The NIV Application commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2002.
  1. この記事の引用聖句は新共同訳聖書の章節番号に従います。新共同訳聖書の詩編56編と新改訳聖書の詩篇56篇とでは節の番号が一つずつずれています。
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