「苦しみと栄光」:2025年7月20日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2025年7月20日(日)
  • 場所:軽井沢リトリートセンター
  • 説教タイトル・テーマ:「苦しみと栄光」
  • 聖書個所:ローマの信徒への手紙8章18-30節1
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導入

タイトルから想像できるかと思いますが、今日のメッセージの大きなテーマの一つは「苦しみ」です。

残念ながら聖書は、クリスチャンになれば苦しみが無くなる、苦しみから解放されるとは約束してくれていません。

むしろ反対に、

クリスチャンになっても苦しみがある

と聖書は語ります。ただ聖書は、これから詳しく見るように、

苦しみだけではなく、いつの日か栄光をも受けることを約束

しています。

今日は、今日の聖書個所を通して、

私たちクリスチャンはこの世の苦しみに対してどのように向かい合えばよいのか?

を一緒に考えたいと思います。

救いの栄光

まずパウロはローマの信徒への手紙8章18節で

今のこの世の苦しみは、来るべき世の栄光に比べると大したことはない

と言っています。

イエス様が再びこの世に来られ、最後の審判が下され、この世の終わりが来るとき、

イエス様を信じる私たち

神様の子たちは罪と死の支配から解放された本当の意味の「自由」を得ます(21節;比較:ローマの信徒への手紙6章22-23節)。
私たちの肉体は贖われ、イエス様が復活したときに持っていた朽ちることのない栄光の体へと変えられます (ローマの信徒への手紙8章23節;参考:フィリピの信徒への手紙3章21節;コリントの信徒への手紙一15章51-55節)。
私たちイエス様を信じる者たちがイエス様を長子(長男)とする神様の本当の子供であることが明らかにされます(ローマの信徒への手紙8章19, 23, 29節)。

これらは全て、聖書の語る完全な救いがもたらされた状態です。

そして、

来るべき世において実現される完全なる救いの素晴らしさ(栄光)を思い浮かべることで、この世の苦しみを耐え忍ぶことができる

とパウロは語っていると理解できます。

救いの希望

さらにパウロはローマの信徒への手紙8章19-21節で、

人間だけではなく被造物もまたそのような完全なる救いがもたらされる世の終わりのときを待ち望んでいる

と語ります。

神様は、人間と神様との関係だけではなく、人間以外の被造物の状態も本来あるべき状態に戻そうとされている

訳です(参考:ヨハネの黙示録21章1-5節; 22章1-5節)。

人間だけでなく天地万物全ての被造物が本来あるべき状態に戻されるというのが聖書の語る完全なる救いです。

来るべき世で実現される、この完全なる救いの約束があるからこそ、私たちはこの世の苦しみの中で希望をもって耐え忍ぶことができる

とパウロはローマの信徒への手紙8章24-25節で語っています。

聖霊の助け

パウロはローマの信徒への手紙8章26-27節で続けて、

神様の霊なる聖霊が私たちを助けてくれることで、私たちはこの世の苦しみを耐え忍ぶことができる

と語ります。これは、別の言い方をすると、

神様は、御心に適った聖霊による執り成しの祈りに答えてくださり、その聖霊の祈りを通して、神様の御業を成し遂げていかれる

と言えます(比較:ヨハネの手紙一5章14節)。

私たちは苦難困難の中でどのように祈ればよいかも分からないほどに途方に暮れてしまうことがあります。

でもそんな弱い私たちを聖霊が助けてくださり、神様の御心に従って私たちのために執り成してくださいます。

そして神様はその聖霊の執り成しの祈りに答え、私たちの経験する苦難困難を通して、私たちの計画ではなく、神様のご計画を確かに実現していかれます。

今のこの苦しみを通して、神様の御業が表わされると思えるとき、その苦しみを耐え忍ぶ力が心の底から湧き上がってくる

のは私だけではないと思います。

神の主権

最後にパウロはローマの信徒への手紙8章28-30節において、

神様は私たちを完全なる救い(栄光に満ちた状態)へと導くために全てのことを用いることができるお方である

と語ります。

特に29節でパウロは、

神様は私たちクリスチャンを御子なるイエス様のかたちに似たものにしようと予め定められた

と語っています。

そしてそれは、

神の子イエス様が私たちクリスチャンの中で長子となられるため

と語っています。

私たちクリスチャンがイエス様のかたちに似たものにされ、イエス様が私たちの長子となるというのは、ローマの信徒への手紙8章18節以降から見てきた完全なる救いが実現された状態、つまりは私たちに将来現わされる栄光を指しています。

そして30節でパウロは、この

将来クリスチャンたちに現わされるはずの栄光を神様が既にクリスチャンたちにお与えになった

と語ります。これはつまり、

クリスチャンたちに栄光が現わされること、即ち、完全なる救いが実現されることは神様にとっての「決定事項」で、神様は万事を用いて必ず完全なる救いをもたらしてくださる

ということです。

このようにローマの信徒への手紙8章18-30節全体の話の流れを考えると、28節の

「益」というのは「完全なる救い」、「将来現わされる栄光」

と考えることができます。

そして、

「万事が共に働いて益となる」というのは、「神様が万事を働かせて私たちを完全なる救い(栄光に満ちた状態)へと導かれる」

と解釈できます。

神様はこの世の全ての人やモノを用いて、その救いの御業を必ず実現することができるお方です。

その

神様の絶対的な主権を覚えるとき、この世の苦しみの中にあっても私たちは神様を信頼して耐え忍ぶことができます。

結論

今のこの世には苦しみがあります。

クリスチャンになったからといって苦難・困難のない喜びと楽しみに満ちた毎日を送れる訳ではありません。

けれども、それは

聖書の語る救いがまだ完全には実現していないから

です。

聖書の語る完全な救いは、イエス様が再びこの世に来られる世の終わりのときに実現

します。

皆さんの人生の中で苦しみや悲しみ、痛みで押しつぶされそうになるとき、

来るべき世において実現される救いの素晴らしさ(栄光)に思いを馳せてみてください。

現状があまりにも苦しくて、神様に対してどのように祈ればよいか分からないほどに途方に暮れしまったとき、

あなたの内であなたのために執り成してくださっている聖霊の働きに心を向けてみてください。

目の前の苦難困難に精一杯になってしまって、神様のことを感じられなくなってしまうとき、

苦難困難を含めた全てのモノやヒトを用いて救いの御業を成し遂げておられる神様の主権を思い起こしてください。

何が起きたとしても、どんなことがあったとしても、

神様は天地万物を本来あるべき状態に戻されます。

そのとき、私たちは

罪と死から解放された本当の意味の自由を得ます。
朽ちることのない復活の体を与えられ、イエス様のかたちに似たものへと変えられます。

そして、

神様の本当の子供であることが明らかにされ、イエス様を長子とする神様の家族と永遠に過ごすようになります。

と言われても、

イマイチ、その完全なる救いに対する実感が持てない

とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。

そんな方は

イエス様の十字架、そして復活の御業を思い起こしてください。

イエス様が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったおかげで、

イエス様を救い主と信じるとき、

私たちの罪は赦され、

私たちは神様の前で義(正しい)と認められ、

神様の子供とされます(ローマの信徒への手紙3章23-24, 28節; 8章14-15節)。

しかしながら、

聖書の語る救いはここで終わりません。

聖書の語る救いには

私たちが死から解放される

ことも含まれています。

というのも、

罪と死は切り離せない関係にある

からです。事実、聖書は

私たち人間(アダムとエバ)が罪を犯したため、この世に死が入ってきた

と教えます(ローマの信徒への手紙5章12節)。

罪のために死が入って来たのだとすれば、

イエス様を信じることで私たちの罪が赦され、罪の支配から解放されるとき、

死の支配からも解放されるはずです。

そして、

私たちが実際に死から解放されるであろうことを保証してくれるものがイエス様の復活

です(比較:コリントの信徒への手紙一15章26, 54節)。

ですから、

イエス様が十字架で死んで復活したという出来事は、

私たちもいつの日か、罪だけでなく死の支配からも解放された完全なる救いを得ることができることを確信させ、この世における希望を与えてくれる

ものだと言えます。

今のこの世には苦しみがあります。

けれども、

来るべき世には栄光があります。
この来るべき世の栄光に対する確信と希望を与えてくれるイエス様の十字架と復活の御業を覚え、
聖霊の助けにすがりながら、
神様の絶対的な主権に信頼を置いて、
この世での一日一日を歩み続けることができますように。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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