「十字架刑の真実」:2019年1月27日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2019年1月27日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「十字架刑の真実」
  • 聖書個所:ローマの信徒への手紙5章8節

     8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)279頁1

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導入

今回のテーマは「十字架刑の真実」。多くの人がアクセサリーとして身に着けることもある十字架。クリスチャンにとっては、私たちを罪の滅びから救うためにイエス様が十字架で死んでくださったという「愛の象徴」ですが、まず「十字架刑」とはどのような処刑方法だったのかを確認しておきます。

最も残酷な処罰

古代ローマの政治家であり哲学者でもあったキケロという人物は十字架刑のことをその当時「最も残酷で屈辱的な処罰」と言っています。何がそこまで残酷で屈辱的だったのでしょうか。

まず残酷さについて、十字架刑に処せられることが決まった罪人は、はりつけにされる前にむち打ちを受けました。このむち打ちは相当に酷いもので、十字架に架けられる前に出血多量で死んでしまうこともあったようです。

十字架にはりつけにされる時には両手・両足を木に釘付けにされました。イエス様自身も復活後に弟子たちに会われたとき、弟子たちにイエス様の手に触って釘の跡を確かめるようにおっしゃっています(ヨハネ20章20, 24-29節)。想像するだけでも気分が悪くなってしまうほどの痛さです。

十字架に架けられた後のことを考えるとその残酷さは際立ってきます。十字架刑というのは十字架にはりつけた後は死ぬまで放置するのが原則です。場合によっては数日間、はりつけにされたままです。

そんなとき、囚人たちは真っ裸ではりつけけられていますので、寒ければ凍えそうになりますし、暑ければ喉が渇きます。食事も与えられません。糞尿は垂れ流しですので、臭いもひどいものです。また、むち打ちによって全身血まみれ状態ですから、その血の匂いをかぎ分けてカラスや野犬が群がってきますが、されるがまま。誰も助けてはくれません。

最も屈辱的な処罰

十字架刑は最も屈辱的な処罰でもありました。ユダヤ人にとって十字架刑に処せられる人というのは「神様に呪われた者」という意味合いをもっていました(申命記21章23節)。

またローマ帝国内において、十字架刑は周りへの見せしめとしての役割がありました。事実、十字架に架けられたのは主に国家への反逆者です。十字架刑に架かった本人だけでなくその人の家族や親戚さえ周りからは白い目で見られることもあったようです。つまり十字架刑というのは非常に不名誉な処罰と言えます。

実際に処刑が執行されているときも集まってくる見物人の嘲りと罵りの的となります。処刑地に至るまで自ら十字架(の横木)を担いで移動する道すがら、多くの人から「国家に反逆を企てたが失敗した愚か者」と見下され蔑まれます。

はりつけ時には衣服が脱がされますので、その恥辱は言うに堪えません。はりつけられた後も糞尿は垂れ流しで、その現場を他の人に目撃されることになります。人としての品位・品格が極限まで貶められる処刑方法と言っても過言ではありません。

苦しみに寄り添う十字架刑

想像もしたくないほどの肉体的かつ精神的な苦痛が長い間続いた後で息を引き取る十字架刑。まさに当時、「最も残酷で屈辱的な処罰」と呼ばれるにふさわしいものですが、ここで改めて考えてみたいのは

なぜイエス様はそこまで残酷で屈辱的な処罰を受ける必要があったのか?

その理由の一つとしては、私たちの苦しみに寄り添うためと言えます。

神の御子なるイエス様御自身がこの世で考え得る最も残酷かつ屈辱的な処罰を経験することによって、この世で私たちが経験するであろう辛さ痛さ悲しさを誰よりも理解し、その辛さ痛さ悲しさに寄り添ってくださる

のです。

私たちが生活する上で経験する苦しみや悲しみの多くは人間関係によるものだと思います。

人から悪口を言われたり、無視されたり、裏切られたりするとき、人は得も言われぬ苦しみを経験します。また、他の人から人としてではなくモノとして扱われるとき、人としての尊厳と品位・品格を無視されるとき、深い悲しみを経験します。さらには、自分にとってかけがえのない人を亡くしたとき、それまで大事にしていた人間関係が途絶えてしまったとき、途方に暮れない人はいないと思います。

イエス様は多くの人からいわれのない誹謗中傷を受けました。最も身近で生活していた弟子たちには見放され、ユダには裏切られ、ペトロには関係を三度も否定されました。ローマ兵からは人ではなくモノとみなされ、一切の同情を受けることはなく血まみれになるまで鞭打たれました。衣類を脱がされ、水も食物も与えられず、人間としての尊厳、品位・品格が完全に無視された扱いを受けました。そして最終的には、一時的ではあれ、唯一無二の神様との関係すらも断ち切られることになります。

誰にも理解されず、誰にも助けてもらえず、一人孤独に息絶えていかれたイエス様…。でもそれは、

私たち「試練を受けている人たちを助ける」(ヘブライ人への手紙2章18節)ためだった

のです。

罪深さを明らかにする十字架刑

イエス様がそこまで残酷で屈辱的な処罰を受けた理由の二つ目は、私たち人間のもつ罪深さ、残酷さが明らかにされるためです。

イエス様は神の御子として無実の罪で十字架刑に処せられました。人間が他の人間に対してここまで残酷になれるのかと思うほどの刑罰を悪いことを何もしていない神の御子に与えてしまうことの中に、私たち人間のもつ罪深さと残酷さの極みが表れています。

私たちの罪深さというのは、正しいと分かっていることがなかなかできない傾向の中にはっきりと表れるもの。その「正しいこと」をすることで自分の立場や利益が危うくなる場合、その傾向は一層強くなります。正しさよりも自分の可愛さを優先してしまいがちだからです。

時には、もっともらしい言い訳をつけて、やらない自分を正当化することもあるかもしれません。またある時には、自分が出来ていない「正しいこと」をしている人に対して「偽善者だ」「格好つけたいだけだ」と陰口をたたくことさえあるかもしれません。

このように、「正しいこと」を拒否したり、毛嫌いしたりする私たちの罪深さが、最も最悪な形で表されたのがイエス様の十字架です。この意味において、

私たちの罪深さがイエス様を十字架につけた

と言えます。

罪の罰から救う十字架刑

そしてここに、イエス様が十字架につけられた理由の三つ目があります。イエス様は、私たち人間の罪深さが招く罰をその身に背負い、私たちを罪の滅び・裁きから救い出すため、無実の罪で十字架刑に架かる必要があったのです。

別の言い方をすれば、

この世で最高に善な神の御子イエス様が、その当時考え得る最高に悪な処罰である十字架刑を受けられたからこそ、全ての人の罪が清算された

ということができると思います。

しかも、イエス様が私たちの罪のためにその当時最も残酷で屈辱的な処罰を受けてくださったのは、私たちがイエス様のことを先に愛したからではありません。

私たちがイエス様のことを知る遥か前から神様は私たちを愛してくださっていました。また私たちがイエス様や神様のことを拒否したり・毛嫌いして神様に敵対したとしても、神様は変わらずに私たちを愛してくださっています。

そんな神様の無条件の愛がイエス様の十字架には表されています。

結論

十字架刑は当時のローマ帝国において最も残酷かつ屈辱的な処罰でした。

想像を絶する肉体的な苦痛を伴うことはもちろん、精神的にも非常な辱めを受け、人間としての尊厳や品位・品格も貶められる処刑方法です。

それほどまでに残酷で屈辱的な十字架刑を神なる御子イエス様が無実の罪で受けられた。その理由は、

私たちの苦しみに寄り添うため、私たちの罪深さが明らかにされるため、そして私たちの罪深さが招く罰から私たちを救うため

でした。

そこに表されているのは、

私たちが神様を知らないときであっても、神様に敵対していたときであっても、神様の望まれない生き方をしているときであっても、どんなときであっても、私たちを変わらずに愛し続けてくださる神様の無条件の愛

です。

わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。【ローマの信徒への手紙5章8節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)279頁

イエス様が私たちのために十字架上で耐え忍んでくださった肉体的精神的苦痛を覚え、そこに表されている神様の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができますように。

注釈

  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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