「恵みに満ちた救い主」:2019年5月12日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2019年5月12日(日)
  • 場所:長野県軽井沢町での日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「恵みに満ちた救い主」
  • 聖書個所:イザヤ書42章14節-43章7節

    42:14わたしは決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ/激しく息を吸い、また息を吐く。 15わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。 16目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。 17偶像に依り頼む者/鋳た像に向かって/あなたたちがわたしたちの神、と言う者は/甚だしく恥を受けて退く。
    18耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。 19わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。 20多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。21主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
    22この民は略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せと言う者はない。 23あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。 24奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。 25主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。
    43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。 3わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。 4わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。 5恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。 6北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。 7彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)1129-1130頁1

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導入

今回、特に覚えたいのは神様の恵み深さ。たとえ日々の忙しさや人間関係の中で辛く苦しい状況にあったとしても、神様はいつも私たちと共にいてくださって、神様の時と方法で私たちを助けてくださる救い主だということを見ていきたいと思います。

黙してうめく神

今日の聖書個所の始めに書かれているのは「神様の沈黙」です(14節)。

しかし、神様はただ静かにボーっとしていた訳ではなく、心の中では非常に苦しんでいた様子が出産時の女性の苦しみにたとえられています。

そして22節を読むと、このとき神様はイスラエル民族が他の民族(周辺諸国)にかすめ奪われ、略奪され、穴の中に陥れられ、獄屋に閉じ込められる様子に対して、苦しみ悶えながらもじっと黙っていたことが分かります。

でも

なぜ神様はご自分の民とされたイスラエル民族が苦しんでいるのをじっと黙ってみておられたのでしょうか。

その理由は、イスラエル民族が神様の道に歩まず、その教えに聞き従わなかったから (24節)。言うなれば、イスラエルの民の「自業自得」です(比較:申命記28章)。

しかしながら、ここで覚えたいのは、

たとえ私たちの自業自得が招く結果であれ、神様は私たちが苦しんでいるのをただボーっと見ておられるお方ではない

ということ。むしろ、

神様は私たちの苦しむ姿を見て、女性が出産のときに呻き苦しむほどの辛さをじっと静かに耐え忍んでおられる

のです。

恵みによる救い

今日の聖書個所には、イスラエル民族が神様に従わなかった結果、様々な災難を経験したことが記されています。まさに自業自得です。

しかし、これは私たちにとっても他人事ではないと思います。

私たちもまた神様の恵みを経験してもなお神様に従いきることができないことがあるのではないでしょうか。

そんな罪深い私たちなのにもかかわらず、神様はおっしゃるのです。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

と(43章1節)。

私たちが何か良いことをしたからでもなく、神様の役に立つからでもなく、むしろ

神様の望まれる生き方ができていなくて、神様から離れようとしている私たち…

なのにもかかわらず、

神様は私たちを私たちの罪が招く結果から贖ってくださる・救い出してくださるというのです。

しかも、そんな罪深い私たちを神様は「わたしのもの」と呼んでくださる…。神様の恵み以外の何物でもありません。

さらに、2節にあるように、私たちが水の中を通り過ぎたり、火の中を歩くような困難・試練を経験することがあったとしても、神様は私たちを見捨てることなく、私たちとともにいてくださいます

ただ、その救いのタイミングと方法は、私たちが願っているタイミングや方法でないことがほとんどです。あくまでも

神様の時と方法によって、神様の恵みによって、私たちは苦しみ・滅びから救い出される

のです。

恵みに伴う愛

恵みは受ける側の私たちにとってはタダですが、与える側には犠牲を伴うもの

です。3節にはイスラエルの救い主である神様がエジプトやクシュ、セバを人々の身代金・代わりとしたと書いてあります。

4節にも同じく、人や国民をイスラエルのいのちの代わりとすると記されています。

ここだけを読むと、

神様はイスラエル以外の民族を愛しておられず、イスラエル民族を救うためには他の民族が犠牲になることをも厭わないんじゃないか

と思われるかもしれません。

しかし、

神様はこの世に存在する人全てを御自身のかたちに似せて造られ、私たち一人一人を愛しておられます(比較:イザヤ書19章24-25節)。

事実、神様がどの民族も愛しておられるのでなければ、神の独り子であるイエス様が全人類を救うために十字架に架かることはなかったはずです。

ですから、エジプトやクシュ、セバをイスラエルの代わりとされてイスラエルを助けられたときもまた、神様の心はエジプトやクシュ、セバの人々を思って嘆き苦しんでおられたと思います。

そして、この嘆き苦しみはイスラエルに恵みを与えるために神様が支払った代価だと言えます。

そのような代価が伴うにも関わらず神様が私たちに恵みを与えてくださるのは、

神様が私たちを愛してくださっているから

です。

そんな神様の愛と恵みが最も良く表れているのがイエス様の十字架です。

私たちは誰もが自分たちの犯した罪の罰を受けて当然な存在(比較:ヤコブの手紙2章10節)。しかも、その罪の罰とは死であると聖書は語ります(参考:ローマの信徒への手紙6:23)。

しかし、

神様は私たちが自業自得の結果、死んでしまうのを良しとはされなかった

のです。

そして、その自業自得の鎖を打ち破るため、御子なる神御自身が私たちの罪の罰をその身に背負って十字架で死んでくださり、死にさえも打ち勝って復活なさったのです。

イエス様の十字架と復活のおかげで、私たちの行いや才能や努力ではなく完全な恵みによって、イエス様を救い主と信じる人たちは誰でもその罪が赦され、死の支配から解放され永遠の命を持つことができるようになりました。

その恵みは受け取る側の私たちにとってはタダですが、与える側の神様にとっては、御子なる神御自身の命という大きな犠牲が伴いました。しかし、

神様は独り子イエス様の命に代えても惜しくないほどに私たちを愛してくださっている

のです。

結論

私たちは人生において、自分たちの罪深さのために苦しんだり辛い目に遭うことがあります。それはある意味、自業自得と言えるかもしれません。

しかし

神様は、私たちが自業自得で苦しんでいるのを見て、自分のことのようにもがき苦しんでおられるお方。
私たちといつも共にいてくださって、神様の恵みによっていつかは必ず窮地から救い出してくださるお方

でもあります。

また、神様は私たちが自業自得で苦しんでいる様子を天の高みから眺めているようなお方ではありません。むしろ、

神様自らが人となって地上に下り、私たちと同じ、否、それ以上の苦しみを経験された

のです。それは私たちの苦しみを理解し私たちに寄り添うため。また私たちを苦しみから救い出すためでした(比較:ヘブライ人への手紙2章18節)。

神様が私たちを苦しみから救い出してくださるのは、私たちが神様に対して何かを良いことをしたからではありません。神様にとって役に立つ存在だからでもありません。

たとえ私たちが神様の望むように生きれないとしても、神様の期待を裏切ってばかりだとしても、神様に敵対するようなことがあったとしても、神様は私たちが苦しむのを放っておくことができなかったのです。

神様は私たちを「価高く、貴い」存在と見てくださり、私たちをご自分の独り子イエス様の命に代えても惜しくないほどに愛してくださっている

のです。

恵みに満ちた神様は苦しみの中にいる私たちをいつか必ず救い出してくださいます。ただその救いは神様のタイミングと方法によってもたらされるものです。

ひょっとしたら、もう既に神様はあなたを救い出すために働き始めておられるかもしれません。

いずれにしても確かなのは、今現在、どんな状況にあったとしても、

神様はあなたといつも共にいてくださっている

ということ。そしてこれまでの人生において、神様が様々な方法であなたを助けてくださったように、

今現在の苦しみや悩みからもいつか必ず神様が救い出してくださる

ということです。

ここで苦しみや悩みからの「救い」というと、すごく大きなことのように聞こえてしまうかもしれません。が、その多くは小さな一歩から始まると思います。

それは例えば、自分の間違っているところや犯してしまった過ちを素直に認め謝る事かもしれません。自分がこれまで突き通してきた嘘を正直に打ち明けることかもしれません。どのような形であれ、

神様・聖霊がずっと示してくださっている心の中の重苦しさ・罪悪感・うしろめたさといったものと正面から向き合って、神様の御前にへりくだることから始まる

のだと思います。

しかし、とは言われてもやはり自分の過ちや間違いを認ることは簡単なことではありません。プライドや意地といったものが邪魔をしてくるからです。

でも、プライドや意地のおかげで人間関係がギクシャクしている状態を見て、誰よりも心痛めておられるのは神様です。

プライドや意地のせいで自分を実際以上に大きく見せてしまい、その嘘がいつバレルかと不安を抱えながら過ごしているあなたを見て、誰よりも心痛めておられるのは神様です。

あなたが必死になって守ろうとしているモノは何でしょうか。

たとえ、あなたが持っているモノ全てを失ったとしても、何も持っていないとしても、何もできないとしても、

そのままのあなたを神様は愛してくださっています。

神様はおっしゃいます。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

参考文献および注釈

  • Oswalt, John N. Isaiah. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003.
  • Smith, Gary V. Isaiah 40-66. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 2009.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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