子育てに関わる中で神様との関係について考えさせられることが結構あります。今回は神様の「懲らしめ」について。ちなみに、前回は下記の記事で神様の「愛」「寛容さ」について書きました。
上記の記事でも少し触れましたが、
と改めて感じた次第です。
とは言いつつも、私の息子はまだ一歳ちょっとなので、今のところ基本的にはやらせるがままの状態です。が、さすがにそろそろ良いことと悪いことは教えるべきかと思い始めてきました。
それで、最近ちょっと厳しく注意しているのは、
です。と書くと
と驚かれる方がいらっしゃるかもしれませんが、まだまだ自分一人で何でも食べられる状態ではありません。しかし、できるだけ自由にさせてあげたいという思いから、食べ始めてしばらくは子供の好きにさせ、途中から親が食べさせるかたちにしています(妻のアイデアです)。
で、子供の方はというと、最初はスプーンやフォークを使いながら頑張っていますが、次第に手づかみになってきて、そのうちに器から器へ食べ物を移したり、スープやお茶をまき散らかしたり、とテーブルの周りにカオスを広げてくれる訳です。
と思い(できるだけ)自由にやらせてはいるのです。
が、しかし、
最近は食べるのに飽きてくると、器やスプーン・フォークはもちろん、食べ物までテーブルの下に投げつけるようになってきました。
最初のころは「まあまだ良く分かっていないから仕方ないか」と、軽く注意はしても特にきつくは叱りませんでした。
けれども、最近は何度言っても止めないので、ちょっと厳しく注意して、食事はそこで中断。(ビニールシートを敷いた)床を奇麗にする間、じっと座らせるようにしています。
と書いてはみましたが、この私のやり方が良いか悪いかをこの記事で議論・弁護したい訳ではありません(ちなみに妻は、子供がちょっと気の毒に思っているようです)。
ただ、
と思わされているのは確かです。と同時に、
とも考えさせられています。
聖書には以下の言葉があります。
わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。【箴言3章11-12節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉1095頁
「主(しゅ)」というのは「神様」のことです。従って、
と言っていることになります。
というのです。
人生においては、「なぜこんなにつらい目に遭うんだろう」とか、「なぜ自分だけがこんな苦しい思いを経験しないといけないんだ」と思うことがあります。
そんなとき、「神様は自分のことを嫌いになったのかもしれない」とか「神様は自分を見捨てたんだ」と思いたくなります。
子供のしつけの難しさを思いつつ、ふとそんなことも思わされました。