神が共におられた人々②:イサク―神の恵みと誠実さ

前回に引き続き、今回も「神が共におられた人々」がテーマです。前回は下記の記事で「イシュマエル」という人物を紹介しました。

神が共におられた人々①:イシュマエル―全人類に対する神の憐れみ―
神様にとって、いてもいなくてもどうでもよい存在の人は一人もいません。神様にとって、いてもらいたくない・いてはいけないという存在の人もいません。神様にとっては全ての人が唯一無二のかけがえのない存在、いついかなる時も共にいたいと思う存在なのです。

今回はイシュマエルの腹違いの弟「イサク」の生涯を簡単に振り返りながら、聖書の神様がどのようなお方かを見ていきたいと思います。

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神の約束とイサク


冒頭でご紹介した通り、イサクはイシュマエルの腹違いの弟となります。

イサクとイシュマエルは共にアブラハムを父親とします。しかし、イサクの母親はアブラハムの正妻サラ、イシュマエルの母親はサラの女奴隷(召使いのような身分です)であったハガルです。1

神様はアブラハムに対して、彼の子孫をたくさん増やし、広大な土地をその子孫に与えることを約束していました(参照:創世記12章1-3、7節;15章4-7節;17章1-8節)。

ところが、アブラハムと正妻サラの間にはなかなか子供が出来ませんでした。けれども、アブラハムが100歳のとき、ついにサラはイサクを出産します。

このときサラは90歳、更年期も終わっていましたので、神様が成した奇跡といえます(参照:創世記17章17節;18章11-14節)。

神様の約束が実現していくため、神様から奇跡的に授かった「約束の子」

それがイサクだった訳です。このため、アブラハムがイサクを大変可愛がったであろうことは容易に想像できます。

でも、そんなある日、

神様はアブラハムにイサクをいけにえとして献げるように命じます(創世記22章2節)。
えええっ、我が子をいけにえに献げるように命じるって、聖書の神はなんて残酷なんだ!

と思われると思います。が、しかし、

聖書の神様は私たちに対して子供をいけにえとして献げることを決して望んではおられません。

実際、

聖書の神は、子供が他の神々にいけにえとして献げられることを忌み嫌っている

と聖書は記しています(参照:申命記12章31節)。

では、

なぜ聖書の神はアブラハムにイサクをいけにえとして献げるように命じたのでしょうか?

それは、

神がアブラハムを「試練にあわせられた」2から

だと聖書は語ります(創世記22章1節)。3

このときのアブラハムに対する神様の試練(試み)というのは、アブラハムが神を恐れているかどうかを試すためのものでした(参照:創世記22章12節)。

なお、聖書で「神を恐れる」という表現が出てくるときは大抵、「神に対する恐怖で恐れおののく」という意味ではなく、「神への愛に基づいて神に従い信頼する」という意味合いをもちます。4

このため、「恐れる」ではなく「畏れる」という漢字の方が適切かもしれません。5

いずれにしても、

神様から奇跡的に授かった「約束の子」、愛して止まない我が子イサクをいけにえとして献げなさいという神様に対して、それまでと変わらない愛と信頼を持ち続け、神様の命令に従うことができるかどうか

をアブラハムは試されることとなった訳です。

正直、個人的にはそんな試練には絶対に遭いたくないと思いたくなりますが、アブラハムはその試練を見事にパスします。

ただし、アブラハムは神様の試練を見事にパスしたとは言っても、アブラハムが本当にイサクをいけにえとして献げた訳ではありません。

アブラハムがイサクに刃物を振り下ろそうとした瞬間、天使が彼を呼び止めたので、イサクが殺されることはありませんでした(10-11節)。

そして、試練をパスしたアブラハムに対して、神様は彼と彼の子孫に対する約束(誓い)を益々確かなものとされたのです(16-18節)。

と、ここまでの主役はあくまでもアブラハム(と神様)で、イサクは完全な脇役となっています。が、

神様の約束の実現のためにイサクは欠かせない存在

であるということが少なからず分かって頂けたと思います。

次節ではイサクと神様の個人的な出会いの場面の話を紹介します。

神とイサクの出会い


The Bible and its story Internet Archive Book Images / No restrictions

神様がアブラハムにイサクをいけにえとして献げるように命じられた出来事から時は流れ、アブラハムの妻サラは127歳でその生涯を終えます(創世記23章1節)。このときイサクは37歳。

サラの死後まもなく、イサクは40歳にしてリベカという妻を迎えます(25章20節)。

そんなある日、イサクが住んでいた地域に飢饉が襲います

イサクの父アブラハムのときにも同じように飢饉が襲いましたが、そのときアブラハムはエジプトに食料を求めて逃れていました(12章10節)。

イサクもまた食料を求めてエジプトに移住するかどうかを迷っていました。

すると神様はそんなイサクにエジプトには行かず、ゲラルという場所に留まるように語りかけます(26章2節)。そして、おっしゃるのです。

わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。【創世記26章3節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉43頁

聖書の記述を見る限り、神様はこの時までイサクに直接語り掛けたことはありませんでした。6

神様がイサクに直接語り掛けられたときの彼の正確な年齢は分かりません。しかし、彼は40歳を過ぎて結婚をして一家の長となっていました。

そして、飢饉によって生活が困窮した家族を救うため、父アブラハムと同じく食料を求め、「約束の地」を離れて異国に逃れようとしていました。

すると突然、両親が何度となく語り聞かせていた神様が彼に語り掛けたのです。

父アブラハムや母サラによって何度となく語り聞かされていた神様
その神様と父アブラハムとの間に結ばれた契約(約束)
それまでは全て間接的で、ある意味、他人事であったことが40歳を過ぎて突然、現実のものとして我が身に起こった

訳ですから、イサクの驚きは相当なものであったと思います。

しかも、です。

神様がイサクと共にいて彼を祝福し、彼の子孫を増やし、彼らに広大な土地を与えてくださるという約束を果たそうとされるのは、イサクがそれまでに神様に対して何か良いことをしたからではありませんでした。

あくまでも、

神様がイサクの父アブラハムと契約(約束・誓い)を結んでいたから(26章3節)

また

アブラハムが神様を信じて従順に神様の言葉に聞き従ったから(26章5節;比較:22章1-18節)

でした。ここに聖書の神様の恵み深さが表れています。


Isaac, A Lover of Peace By the Providence Lithograph Company - http://thebiblerevival.com/clipart/1907/gen26.jpg, Public Domain, Link

現代の日本に生きる私たちもまた

イエス様を信じて神様の言葉に従順に聞き従おうとするとき、イエス様が私たちと共にいてくださる

と聖書は約束します(マタイの福音書28章20節)。

神様が私たちに対してそのような約束をしてくださるのは、私たちが神様に対して何か良いことをしたからではありません。

ただ、

神様の独り子であるイエス様が私たちの代わりに従順に神様の言葉に聞き従ってくださったから

です。7

神様に従順に従いきれない(罪深い)私たちの罪をイエス様が身代わりに背負って十字架で死んでよみがえられたと信じる者は神様に対する背きの行い(罪)が赦され、神様の子供とされる

という祝福を受け取ります(比較:エペソ人への手紙1章3-7節)。

この祝福もまた私たちの知恵や努力によるものではありません。

ただ、

神様の独り子であるイエス様が私たちの代わりに従順に神様の言葉に聞き従ってくださったと信じる信仰による

のです。

私たちが本来受けるに値しないものを無代価で惜しみなく与えてくださる恵み深い神様

そんな

恵み深い神様を信頼して、神様の言葉に従う信仰の一歩を踏み出すことができるかどうか

が問われています。

イサクの場合、彼は神様を信頼してその言葉に従い、エジプトには行かずにゲラルに留まりました(創世記26章6節)。

しかしその間、イサクは妻リベカとの関係を偽り、その土地の人々にリベカは自分の妹だと告げました

リベカが美しかったため、リベカを自分から奪い取ろうとする人々によって自分の命が狙われることを避けるためでした(7節)。

言ってしまえば、

神様が共にいて彼を祝福すると約束してくださったにも関わらず、イサクは自分の命を守るために妻リベカを犠牲にした

訳です。

神様を恐れずに人々を恐れたイサク

なのにもかかわらず、

神様はイサクに約束された通り、彼と共におられて彼を祝福され、イサクは非常に裕福になりました(12-13節)。

ところが、イサクが裕福になるのを妬んだ地域の人は彼にその土地から出ていくように頼みます(14-16節)。

彼らの要求にイサクは素直に従い、イサク一家はその辺りを放浪することになります。が、イサクの行く先々で神様は彼を祝福し、飢饉の只中にあって、彼の一族が水と食料に困ることはありませんでした(17-22節)。

とは言うものの、土地の人たちに妬まれ・憎まれながら暮らす限り、身の安全は保障されません。一家の長であるイサクから悩みと恐れが消え去ることはなかったと思われます。

そんなイサクの心情を察して、神様は再びイサクに現れます。

そしてイサクに恐れる必要はないこと、神様が彼と共にいること、神様が彼を祝福し彼の子孫を増やすことを改めて告げ知らせるのです(24節)。

それからしばらくして、その土地の人々がイサクの所にやってきて、イサクとの間に友好の盟約が結ばれるようになります(26-33節)。

イサクと共にいてくださる神様の祝福によって、一家の身の安全が保障された

瞬間です。

約束を必ず守る神様の誠実さ

が見て取れます。

まとめ(イサクと共におられた神)

神様とアブラハムとの間に交わされた約束が実現していくため、アブラハムが神様から奇跡的に授かった「約束の子」

それがイサクでした。

恐らくイサクは事あるごとに、父アブラハムや母サラから神様について、また神様とアブラハムとの間の約束について聞かされていたに違いありません。

そんなイサクが実際に神様から直接語り掛けられたのは、40歳を過ぎて一家の長となっていたとき、飢饉によって生活が困窮した家族を救うため、食料を求めて「約束の地」を離れて異国に逃れようとしていたときでした。

神様はイサクにその土地に留まるように告げると同時に、イサクと共にいて彼を祝福し、彼の子孫を増やし、彼らに広大な土地を与えると約束されます。

しかし、その約束は、イサクがそれまでに神様に対して何か良いことしたことの結果(報い)によるものではなく、

神様がイサクの父アブラハムと契約(約束、誓い)を結び、かつアブラハムが神様を信じて従順に神様の言葉に聞き従ったことによるもの

でした。

私たちが本来受けるに値しないものを無代価で惜しみなく与えてくださる恵み深い神様

の姿が垣間見えます。

そんな恵み深い神様を信頼して、イサクは神様の言葉に従いその地に留まります。が、彼は完全には神様を信頼することができず、神様ではなく人を恐れてしまいます。

にもかかわらず、

神様はイサクとの約束を守り、彼と共におられて彼を祝福し、彼の周りの人々も祝福を受けました。
神様は私たちとの約束を必ず守る誠実なお方

だということが分かります。

私たちもイサクと同じく完全には神様を信頼することができない弱い存在です。誘惑に負け、神様が望んでいないことをしてしまうことがあります。

でも、

私たちが不完全で弱い罪深い存在だからこそ、イエス様は私たちに代わって完全に神様を信頼し、誘惑に負けることなく、神様の望むことを全て成し遂げてくださった

のです。

イエス様の従順さ・正しさのおかげで、私たちがイエス様を信じ従おうとするとき、私たちの罪(神様に従わないこと)が赦され、私たちは神様の子供とされます。

そして、

イエス様は神様の子供とされた私たちといつも共にいてくださる

と聖書(神様)は約束しています。

私たちにとって大事なこと、それは

恵み深く、約束を必ず守る誠実な神様を信頼して、イエス様を信じ従おうとする信仰の一歩を踏み出すことができるかどうか

なのです。

参考文献および注釈

  • Mathews, Kenneth. Genesis 11:27-50:26. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005.
  • Waltke, Bruce K., and Cathi J. Fredricks. Genesis: A Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.
  1. イシュマエルとイサクが生まれるまでの詳しい話に興味がある方は前回のブログ記事をご覧ください。「神が共におられた人々①:イシュマエル―全人類に対する神の憐れみ」
  2. 特に記載がない限り、聖書の引用は「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」によります。
  3. 「聖書 聖書協会共同訳 ©2018 日本聖書協会」では「試みられた」と訳されています。
  4. Kenneth Mathews, Genesis 11:27-50:26, The New American Commentary (Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2005), 296.
  5. 「聖書 聖書協会共同訳 ©2018 日本聖書協会」では創世記22章12節に「畏れる」という漢字が用いられています。
  6. 創世記22章10-18節において、アブラハムがイサクをいけにえに献げようとしたとき、神様が天使を通してアブラハムに語り掛けた言葉をイサクが間接的に聞いていたとは考えられます。下記参考文献の「創世記26章2節」の注解を参照。Gordon J. Wenham, Genesis 16-50, Word Biblical Commentary (Waco, Tex.: Word Bks, 1993).
  7. アブラハムがイエス・キリストの予型(type)であることについて、詳しくは下記参考文献の「創世記26章1-33節」の注解内にある「THEOLOGICAL REFLECTIONS」を参照。Bruce K. Waltke and Cathi J. Fredricks, Genesis: A Commentary (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001).
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