礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2022年3月13日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「神に落胆するとき」
- 聖書個所:出エジプト記5章22節-6章12節1
導入
ロシアがウクライナへの侵攻を開始して2週間余りが経ちました。
新型コロナウイルスの広がりのために
ように感じます。
今日の個所に出てくるイスラエル民族もまた、今の私たちと同じように「ただでさえ悪い状況が輪をかけて悪くなった」状況にありました。
そのような状況にある人々に対して神様がどのように関わられたかを見ることを通して、
を共に考えていきましょう。
悪くなる一方の状況
当時のイスラエル民族はエジプトに寄留していました。
するとある日、突然、エジプトの王(ファラオ)から強制労働に駆り出されることとなりました(出エジプト記1章8-14節)。
そのような奴隷状態が少なくとも80年は続いたある日、彼らの労働条件が更に悪くなってしまいました(5章10-11節)。
モーセとアロンがファラオに対して奴隷状態にあったイスラエル民族をエジプトから去らせるように要求したため、ファラオの怒りを買ってしまったからです(5章1節)。
モーセとアロンがファラオにイスラエル民族を去らせるように要求したのは神様に命じられたからでした(3章18節;4章23節)。
ある意味、
と言えなくありません。そこでモーセは、なぜイスラエル民族を早く救い出してくれないのかと神様に訴えかけます(5章22-23節)。
状況に左右されない神
そんなモーセに対して、神様は再びイスラエル民族にメッセージを届けるようにとお命じになられました(出エジプト記6章6-8節)。
モーセは既に一度、イスラエルの人々に神様からの言葉(3章16-17節)を伝えていました。そのとき彼らはその言葉を信じ、神様を礼拝しました(4章29-31節)。
神様からの一回目の言葉(3章16-17節)と二回目の言葉(6章6-8節)の中心的なメッセージは同じです。
しかし、二回目で特に強調されていることの一つは、
という点です(6章8節;比較:6章4-5節)。
実際、神様はモーセの時代から400年ほど前に生きたアブラハムに対して、彼の子孫を異国での奴隷状態から救い出すと約束されていました(参照:創世記15章13-14節)。
ことが分かります。
状況に左右されやすい人間
ところが、です。
肝心のイスラエル民族はこの神様からの二度目のメッセージを聞き入れることができませんでした。
その理由は「落胆と過酷な労働のため」(出エジプト記6章9節)だと聖書は記しています。
心身共に疲れ切り、希望の光もまだ全く見えていない状況で神様の言葉を信じ続けることは決して簡単なことではありません。
でもそれは、裏を返せば、
であると言えると思います。
イスラエルをエジプトから導き出すだす器として神様に選ばれたモーセもまた、私たちや他のイスラエル民族と同じく、周りの状況に左右されやすい、弱く不完全な人間でした。
彼は今日の個所の最後で自分の「話し下手」を理由に神様からの命令に従うことを躊躇しています(6章12節)。
以前に神様がモーセに、
です(4章12, 15節)。ここに、周りの人からの反応や態度に左右されがちな人間の本質を垣間見ることができます。
しかし、
です。
事実、神様は神様の言葉を聞き入れなかったイスラエル民族を罰したり、救いの計画を中断したりはなさいませんでした。
むしろ
のです(比較:民数記14章20-35節)。
結論
モーセを含むイスラエル民族は皆、神様が直ちにエジプトでの奴隷状態から解放してくれるだろうと期待していました。
ところが、彼らの期待・予想に反して状況は更に悪くなっていき、誰もが失意と落胆の中、神様のことを信じ切れなくなっていました。
けれども、神様は、そんな人たちの不信仰を罰したり、救いの計画を差し止めたりはなさいませんでした。
です。そして、
でもあります。
最近の世界的情勢をみると、混迷・混乱の度合いが益々、深まっているように感じます。
そのような状態に誰もが陥りやすい状況にあるのではないかと思います。しかし、そんなときにこそ今一度、
必要があると聖書は教えます。
ただし、その実現の仕方およびタイミングは私たち人間の思いもよらない方法とタイミングである時がほとんどです。
です。
その過程で
といった疑問が沸き起こってくるかもしれません。でもそのような疑問はある意味、自然で健全な疑問だと言えます。
というのも、
からです(参考:イザヤ書55章8-11節)。結局のところ、
のです。
私たちに求められていることは、
そのためには、
必要があります(参考:マタイによる福音書26章39節)。
そのように神様を中心とした思いは自分の努力や意思の力で持てるものではありません。
必要があります。
自分の思い・考えではなく神様の思い・考えを優先しようとすると、自分の思い・期待通りに物事が運ばないことがあったとしても、神様に対して落胆することはなくなって(少なくなって)くると思います。
もし自分の思い・期待通りに物事が進まず、神様に対して落胆してしまうのであれば、まだまだ自分の思い・考えに執着していると言えます。
また、自分の思い・考えではなく神様の思い・考えを優先しようとすると、たとえ自分の目から見てどんなに状況が悪くなったとしても、神様の目から見て全ては必ず益となると思えるようになってくると思います(参考:ローマの信徒への手紙8章28節)。
仮に、今あなたの人生で起きている出来事があなたの目から見て悪いことであったとしても、神様の目から見ると必ずしも悪いとは言い切れないことがあるかもしれません。
その逆もまた然り。
あなたの目からみて善いことが神様の目から見ても善いとは限りません。
大事なのは、
ことです。
とはいえ、状況が一向に良くならず悪くなる一方だと祈る余裕も気力も無くなり、遂には神様のことが信じ切れなくなるような状況に陥ることがあるかもしれません。
でも、たとえそれほどにどん底な状況に陥ったとしても、
神様が私たちを見捨てることはありません。
「不信仰なやつめ!」と突き放すこともありません。
です。
ただ、もしかしたら、そのどん底からの救いはあなたが望むかたちではやってこないかもしれません。
からです。
けれども、
と聖書は約束しています。そのとき、
その
のです。
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.