「人の思いと神の思い」:2026年1月25日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です。

  • 日時:2026年1月25日(日)
  • 場所:さいたま国際キリスト教会
  • 説教タイトル・テーマ:「人の思いと神の思い」
  • 聖書個所:ルカによる福音書7章18-35節1
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導入

神様は、神様の御心にかなった祈り・願いに対して、神様のタイミングと方法で必ず答えてくださいます(ヨハネの手紙一5章14節)。

反対に、

神様の御心に適わない、自己中心的なお願いばかりをいくら祈ったとしても、その祈りに神様が答えてくださるとは限りません(比較:ヤコブの手紙4章2-3節)。

その意味で、

祈りを通して、私たちの願い・思いが神様の御心・思いとどれだけ近いか・離れているかをある程度は知ることができる

と言えます。その結果、

私たちの願い・思いと神様の御心・思いが大きく異なっていると感じることが少なくない

と思うのは私だけではないのではないかと思います。

事実、今日の聖書個所に出て来る

洗礼者ヨハネ、群衆、宗教指導者たちの思いと神様の思いは大きく異なっていました。

特に「神様がこの世の人々をどのように救われるのか?」という

神様の救いの御業に対する人間の思いと神様の思いとの間の隔たりは非常に大きなもの

でした。今日の聖書個所を通して、

神様は私たち人間をどのようにして救われるのか?

を再確認したいと思います。そして、その

救い主なる神様・イエス様に対する信頼と信仰を新たにする

ときを持つことができればと思います。

洗礼者ヨハネの思いと神の思い

まずルカによる福音書7章18節に「ヨハネ」という人物がでてきます。

彼はイエス様の弟子のヨハネではなく、俗に「洗礼者(バプテスマの)ヨハネ」と呼ばれる人物で、イエス様に洗礼を授けた人物です(ルカによる福音書3章21節;マタイによる福音書3章13-17節)。

洗礼者ヨハネは、

来るべきメシアは聖霊と火で人々に洗礼(バプテスマ)を授け、人々を裁かれるお方

だと人々に伝えていました(ルカによる福音書3章16-17節)。

ところが、ルカによる福音書7章21節にあるように、ヨハネが「来るべき方(メシア)」だと思っていた

イエス様は、人々の病を癒したり、人々から悪霊を追い出したりしていました(参照:ルカによる福音書4章40-41節; 6章18節)。

そのため、ヨハネは

イエス様が本当に「来るべき方」だったのか、確信・自信が持てなくなっていた

のではないかと思われます(参考:ルカによる福音書7章19節)。

けれども、

イエス様が行っていたことは、イエス様がイザヤ書の預言していたメシアであることを証明するもの

でした(ルカによる福音書7章22-23節;比較:イザヤ書35章5-6節; 26章19節; 61章1節)。

イエス様は確かに、ヨハネが待ち望んでいた「来るべき方(メシア)」でした。

しかしながら、

ヨハネの思い描くメシア像は、神様の思い描いた(預言された)メシア像とは異なるもの

でした。とはいえ、ヨハネが思い描いていたメシアの姿が完全に間違っていた訳ではありません。

イエス様は死んでよみがえられた後、聖霊を遣わし、イエス様を信じる者に聖霊による洗礼を授けておられます(使徒言行録2章4節; 11章15節)。

また、

イエス様は、再びこの世に来られる世の終わりのとき、全ての人を裁かれます(使徒言行録17章31節)。
神様は私たち人間の想像を超えるような方法とタイミングによって、その救いのご計画を実現していかれるお方

だということが分かります。

神様の救いの御業に対する人間の思いと神様の思いとの間にある大きな隔たり

を見て取ることができます。

群衆の思いと神の思い

次に、この時の群衆たちの思いについて見てみます。

この時の群衆たちは洗礼者ヨハネのことを「預言者」だと信じ、ヨハネから洗礼を受ける人たちもいました(ルカによる福音書7章26, 29節;比較:20章6節)。

けれども、この

ヨハネは「預言者以上の者」

だとイエス様はおっしゃっています(ルカによる福音書7章26節)。

さらにイエス様はルカによる福音書7章28節の前半で、

イエス様より前に生まれた人の中でヨハネよりも偉大な者はいない

と言っています。

なぜヨハネがそれほどまでに偉大な人物なのか?

それは、

ヨハネの役割が、神様の救いのご計画において、メシアの前に道を整えるという非常に特別かつ重要な役割

だったからです(ルカによる福音書7章27節;比較:マラキ書3章1節)。

しかしながら、

イエス様はヨハネよりもはるかに偉大なお方

です。

イエス様によって、それまでとは全く異なる次元の「神の国(神と人との関係)」がもたらされる

ことになるからです(参考:ルカによる福音書7章28節の後半)。

ここにもまた、

神様の救いの御業に対する人間の思いと神様の思いとの間の隔たり

を認めることができます。

宗教指導者たちの思いと神の思い

最後に、宗教指導者たちの思いについて見ていきます。

当時の宗教指導者だった

ファリサイ派の人々や律法の専門家たちはヨハネから洗礼を受けず、彼らに対する神様の御心を拒んだ

とイエス様はおっしゃっています(ルカによる福音書7章30節)。

またイエス様は比喩を用いながら、

イエス様やバプテスマのヨハネを認めず信じなかった人々は、イエス様やバプテスマのヨハネが彼らの思い通りの行動をしてくれないために誹謗中傷している

と非難しています(31-34節)。このような誹謗中傷は、

宗教指導者たちの思う「メシア」や「預言者」のあるべき姿とイエス様やヨハネの姿が大きく異なっていた

ために出てきたものだと考えられます。ここにも、

神様の救いの御業に対する人間の思いと神様の思いとの間の隔たり

が表されています。

結論

今日の聖書個所には

神様の救いの御業に対する人間の思いと神様の思いとの間の隔たり

がはっきりと表されていました。

洗礼者ヨハネの思い描くメシア像は神様の思い描いた(預言された)メシア像とは大きく異なる

ものでした。

群衆は洗礼者ヨハネのことをただの預言者だと思っていました。

けれども、洗礼者ヨハネには神様の救いのご計画において、非常に特別かつ重要な役割が神様から与えられていました。

その意味で、

ヨハネは人々の思いを超えた預言者以上の存在

でした。

また

イエス様は人間がそれまで思いもしなかったような次元の「神の国(神と人との関係)」

をもたらそうとされていました。

そして

宗教指導者たちの思う「メシア」や「預言者」のあるべき姿と神様の救いの御業を実現すべく神様から遣わされたイエス様やヨハネの姿は大きく異なっていました。
人の思いと神の思い、そこには天と地ほどの隔たりがある

と聖書は語ります(イザヤ書55章8-9節)。

イエス様に「預言者以上の者」と言われたヨハネでさえ、神様の思いを完全には理解できていませんでした。

しかしながら、

イエス様を信じるクリスチャンの内には聖霊が住んでくださいます(コリントの信徒への手紙一6章19節)。

その

聖霊が私たちをイエス様に似た者へと造り変えてくださいます(コリントの信徒への手紙二3章18節;テトスへの手紙3章5-6節)。

そして、この

聖霊の働きによって私たちは神様の御心(思い)を知ることができるようになる

と聖書は語ります(ローマの信徒への手紙12章2節)。

祈っても、祈っても、神様がなかなか自分の祈り(願い)に答えてくれないと感じることがあれば、まずは

その祈り(願い)が神様の御心にかなった祈り(願い)かどうかを考えて

みてください(比較:ヨハネの手紙一5章14節)。

その祈りが神様の御心に適わない、自己中心的な祈りであるならば、神様がその祈りに答えてくださるかは分かりません(比較:ヤコブの手紙4章2-3節)。

仮に自己中心的な祈りであったとしても、神様は愛と恵みと憐れみに富むお方ですから、その祈りに答えてくださるかもしれません。

でも個人的には、答えてくれないことの方が多いような気がします。

また、あなたの祈りが神様の御心にかなった祈りであるかどうかよく分からないと思うならば、

心静めて、御前にへりくだり、神様の御心が何であるかを示してくださるように聖霊の助けを祈り求めて

みてください。

聖霊の助けを求めても、神様の御心が分からず、途方に暮れることがあるかもしれません。

反対に、神様の御心に適った祈りだと確信しているのに、その祈りがなかなか答えられないことがあるかもしれません。

神様が本当に自分の祈りを聞いてくださっているのか、不安になることがあるかもしれません。

そんなときは

イエス様の十字架を見上げてください。
イエス様の十字架と復活に表された、人の思いを超えた神様の思いを思い起こしてください。

今日の聖書個所で見たように、神様の救いの御業に対する人の思いと神様の思いは大きく異なるものです。

イエス様の時代、弟子たちも含め誰一人として救い主(メシア)であるイエス様が十字架にかかって死んでしまうとは思っていませんでした。

まして、死んだ人が復活するとは夢にも思っていませんでした。

けれども、

神様はそのイエス様の十字架と復活を通して、ご自身の救いの計画を完成へと導かれました。

神様に祈っても、祈っても、祈っても、祈りが答えられず、状況がどんどん悪くなってしまうときがあるかもしれません。

どうしていいか分からず途方に暮れてしまうときがあるかもしれません。

神様が本当に自分の祈りを聞いてくださっているのか、神様が本当にいるのかさえも分からなくなってしまうときがあるかもしれません。

そんなとき、

イエス様の十字架を見上げてください。
神様は、あなたの思いをはるかに超える方法によって、神様のタイミングで、全てが益となるようにしてくださいます(ローマの信徒への手紙8章28節)。
この神様の御業に信頼して、聖霊の助けを祈り求めつつ、イエス様と共に日々、歩み続けることができますように。

参考文献および注釈

  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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