聖書を読む時に大事なこと:文化・歴史的背景と文学的手法の理解

今回も前回と同じく、先日開かれたジョン・ウォルトン(John Walton)教授の来日記念講演に出席して心に残ったこと、共感を覚えたことを書き記そうと思います。

今回は、ジョン・ウォルトン教授も力点を置いていた「聖書の読み方」について、特に聖書の文化・歴史的背景と文学的手法を理解することの重要性をみていこうと思います。

が、その前に、来日記念講演の内容及び関連書籍について気になる方は下記をご参照ください。

ジョン・ウォルトン(John Walton)教授来日記念講演
Wheaton Collegeで旧約聖書学を教えるジョン・ウォルトン(John Walton)教授の講演が2018年5月12日から16日の間に開かれます。創世記の天地創造の話を通して、聖書の読み方を具体的に教えてくれる(であろう)内容です。

前回の記事は下記からご覧ください。

聖書の語る天地創造は科学的説明と矛盾しているのか?
「聖書と科学の関係」について、「聖書(創世記1章と2章)の語る天地創造は科学的説明と矛盾しているのか?」を考えます。そもそものところ、聖書は科学的な問題・問いかけに答えようとしているのか。古代と近現代の文化的背景の違いを基に考察します。

今回の話の流れは以下の通り。

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聖書の文化・歴史的背景を知る重要性

ジョン・ウォルトン教授が強調していた聖書の読む時に注意することの一つに「文化の流れ(Cultural River)を考慮する」というものがあります。これは、

この世の中の全ての人は、その時代と場所に特有な文化の流れの中に生きている

ということに基づいています。

例えば、近現代の先進諸国における文化の流れは以下のようなもので特徴づけられています。

  • 科学
  • 民主主義
  • 資本主義
  • グローバル化など

対して、聖書が書かれた古代(2000年以上前)中近東の文化の流れには以下のようなものが含まれます。

  • 霊的世界、魔術の現実性
  • 王権(君主)主義
  • 共同体における自己同一性
  • 閉じた宇宙観など

人は皆、意識しているかどうかに関わらず、このような文化の流れに応じて日常の出来事を解釈しています。

従って、

近現代と古代において、仮に同じ言葉・表現を見聞きしたとしても、その言葉・表現から連想するイメージや解釈が異なるという可能性

が出てきます。

例えば、聖書によると、神は天地万物を6日間で造られた後、第7日目に「なさっていたすべてのわざを休まれた」【創世記2章2節:新改訳第三版】(新改訳2017では「なさっていたすべてのわざをやめられた」)とあります。

神様が「休まれた」と聞くと、現代の私たちは恐らく、

おっ、神様も休みが必要とは、さすがの神様も天地万物を造った後は疲れを覚えたに違いない

と考えるかもしれません。

しかし、古代中近東で「神(もしくは神々)が休まれた」と聞いたとき、人々は様々なイメージを抱いたようです。それらは例えば、

「安らかな眠り」
「娯楽や宴会のための余暇」
「主権をもった統治」

といったもの。1

ウォルトン教授は、こうした古代の中近東の文化の流れと聖書独自の文化の流れを考慮しながら、創世記2章2節の「神が休まれた」という表現は「神が(神殿で)自由に治める」という意味だろうと推察しています。2

「神が休んだ」という表現に「神が(神殿で)統治する」という意味合いが含まれていたとなると、当時の(文化の流れからくる)言葉のニュアンスを知っているかどうかによって、その表現の理解・解釈が大きく異なってくるのは明らかです。

ここに聖書が書かれた当時の文化・歴史的背景を知る重要性があります。

聖書の文学的手法を知る重要性

聖書を読む時に大事なこととして、文化・歴史的背景を知ることの他にもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書特有の文学的手法を知ること。

えっ、聖書って小難しい宗教書じゃなくて文学的な書物なの?

と思われるかもしれません。が、聖書は俗に「―なければならない」がたくさん書かれた倫理道徳の本とは趣が異なります。

もちろん、「―なければならない」といった事柄が書かれている箇所(主に「律法」と呼ばれる箇所)も存在しますが、聖書の大部分は「物語形式」で書かれています。3

これは日本でいうところの「日本昔話」を想像して頂くとイメージがしやすいかと思います。色々な登場人物がでてきて、彼らが何を考え、何を行い、何が起こったかといったことが聖書には淡々と書かれているのです。

ただし、「日本昔話」と決定的に異なることが一つ。それは、

登場人物の一人に「天地万物の造り主なる神」が出て来ること

です。

聖書の話が物語形式で記されているということは、日本昔話に「むかし、むかし、ある所に・・・」といった独特の言い回しがあるように、聖書にもそのような独特な言い回し(文学的表現・手法)があるだろうということが想像できます。

実際、聖書の一番最初に収められている「創世記」という書物の中には、一つのお決まりの表現が出てきます。それは

「これは〇〇の歴史(toledot)である。」(新改訳)

という表現。ここで「歴史」(新共同訳では「系図」「物語」「由来」と訳される)と訳されているヘブル語toledotは、創世記2章4節では「経緯」(新共同訳では「由来」)とも訳されています。

参考まで、この決まり文句が出てくる箇所(新改訳と新共同訳)と、その前後の文章の時間的関係性は以下の表のようになります。4

聖書(創世記)箇所新改訳2017新共同訳前後の時間的関係性
2章4節これは、天と地が創造されたときの経緯である。これが天地創造の由来である。
5章1節これはアダムの歴史の記録である。これはアダムの系図の書である。並行(一部重複)
6章9節これはノアの歴史である。これはノアの物語である。継続
10章1節これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。継続
11章10節これはセムの歴史である。セムの系図は次のとおりである。並行(一部重複)
11章27節これはテラの歴史である。テラの系図は次のとおりである。継続
25章12節これは、サラの女奴隷、エジプト人ハガルがアブラハムに産んだ、アブラハムの子イシュマエルの歴史である。サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。継続
25章19節これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。並行
36章1節これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。継続
36章9節これは、セイルの山地にいたエドム人の先祖エサウの系図である。セイルの山地に住む、エドム人の先祖エサウの系図は次のとおりである。並行(一部重複)
37章2節これはヤコブの歴史である。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。並行

上表の「前後の時間的関係性」の欄には、「これは〇〇の歴史(toledot)である」という定型句が出て来る前と後の文章において、時間的な重なりがある場合は「並行」、時間的な重なりがなく話が続いている場合は「継続」を記しています。

こうしてみると、この決まり文句が創世記における文学的な特徴の一つであるのは明らかです。が、それが果たす(文学的)役割については学者の間でも諸説あるようです。5

ただ、前後の時間的関係性に着目すると、時間的な重なりがある場合(上表で「並行」と記した箇所)は、ある人物に兄弟が生まれ、その兄弟ごとに異なる話を記す場合に限っていることが分かります。

例えば、5章1節の前にはアダムの息子カインの話が主に記され、5章1節以降ではカインの兄弟セツの話が語られています。

同様に、11章10節の前にはノアの息子のセム、ハム、ヤフェテについての話があり、11章10節以降はハムとヤフェテの兄弟セムとその子孫に関する話が続いています。

ちなみに、創世記2章4節の前には(人間の創造も含めた)天地創造の話が記され、その後はアダムとエバについての話となっています。つまり、2章4節の前後に「兄弟」は出てきません。

ということは、です。

創世記全体を通したtoledotの使われ方を考えると、2章4節の「これは、天と地が創造されたときのtoledotである。」という表現の前後に時間的な重なりはなく、時間的には話が連続してつながっているように考えるのが妥当なように思えます。

そして、もし2章4節の前後の話に時間的な重なりが無いのであれば、1章27節で神様に創造された人間と2章7節で造られた人間(アダム)は同一人物である必要はないということになります。

この解釈・理解は伝統的な解釈・理解とは異なるものです。

が、段々と話が込み入ってきましたので、これ以上はここでは扱いません。

いずれにしても、「聖書に使われている文学的手法を知ることで、聖書を書いた作者の意図をよりよく理解することができそうだな」という雰囲気が伝われば幸いです。

なお、創世記2章(および3章)の解釈について、詳細な議論に興味のある方は以下のウォルトン教授の著作をご参照ください。

まとめ

今回は、聖書を読む時に大事な以下の二つのことについて、創世記1-2章から具体例を挙げながら紹介しました。

  • 聖書が書かれた当時の文化・歴史的背景を理解すること
  • 聖書で用いられている文学的手法を理解すること

聖書が書かれた古代中近東の文化・歴史的背景を理解していないと、近現代の先進諸国で生まれ育った私たちの「常識」や「価値観」を聖書に押し付けることになります。

そうすることで、

聖書の作者が意図していた言葉の意味やイメージを見失い、自分たちの文化に影響された自分勝手な聖書理解・解釈が生まれる可能性

が出てきます。

また、聖書で用いられている文学的手法を知ることで、聖書を書いた作者の文学的特徴や傾向を知ることができます。それらは、聖書の作者が伝えようとしているメッセージが何かを判断する際の助けとなります。

が、ここまで書くと、

えー、それってちょっと面倒くさくない!?文化・歴史的背景や文学的手法なんて、いちいち調べてられないでしょ。聖書を読んだときの受け取り方や感じ方、理解の仕方は人それぞれでいいんじゃないの!?

という声が聞こえてきそうです。

確かに、聖書を読んで最終的に、その意味や解釈が何かを決めることは読者の側に委ねられています。

しかし、

聖書は神の霊感によって書かれた神の言葉である

と信じている人(クリスチャン)にとって、聖書は自分の好きなように(都合の良いように)解釈して良い書物ではありません

もし、自分の好きなように自由に解釈して良いのであれば、極端なケースではありますが、聖書の言葉を文脈を無視して取り出して、自分の意見や考えを正当化(権威付け)するために、聖書(神の言葉)を利用してしまうといった危険性が生じます。

言うなれば、実際は神様が望んでいないことなのにも拘わらず、「これが神の言葉だ!神が私たちに望んでいることだ!」と主張して、とんでもない方向に暴走してしまう危険性があるということです。

ですから、あくまでも第一に、

聖書を書いた作者(神)の意図・目的・メッセージが何かをできるだけ忠実に探ろうとする

態度が重要だと思います。

その上で、神様が今、ここで、自分自身に何を語りかけようとしているかを見極めようとすることが大事だと言えます。

「(自分の好きな・自分に都合のよい)答え」ありきで聖書を読むのではなく、聖書が語る声に耳を傾け、その声に応答していく

それこそが聖書を読む時に最も大事なことです。

聖書が語る声を聞き取る。そのために、文化的・歴史的背景を知ること、そして文学的手法を理解することは欠かすことができないものと言えるでしょう。

参考文献および注釈

  • Fee, Gordon D., and Douglas K. Stuart. How to Read the Bible for All It’s Worth. Vol. 3d ed. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003.
  • Klein, William W., Craig L. Blomberg, Robert I. Hubbard Jr, and & 1 more. Introduction to Biblical Interpretation, Revised Edition. Revised & Updated. Nashville, Tenn.: Thomas Nelson, 2004.
  • Mathews, K A. Genesis 1-11:26. The New American commentary. Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 1996.
  • Walton, John H. “A HISTORICAL ADAM: ARCHETYPAL CREATION VIEW.” In Four Views on the Historical Adam, edited by Ardel B. Caneday and Matthew Barrett. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2013.
  • ———. Genesis 1 as Ancient Cosmology. Winona Lake, Ind.: Eisenbrauns, 2011.
  1. John H. Walton, Genesis 1 as Ancient Cosmology (Winona Lake, Ind.: Eisenbrauns, 2011), 179.
  2. 詳細な議論は下記を参照。ibid., 179–180.
  3. 聖書全体の約4分の3を占める旧約聖書の40%超が物語形式と言われます。また、新約聖書のほぼ半分を占める福音書と使徒言行録も、その多くは物語形式で記されています。Gordon D. Fee and Douglas K. Stuart, How to Read the Bible for All It’s Worth, vol. 3d ed. (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2003), 93; なお、聖書は物語(narattive)形式以外にも「法令(law)」、「詩歌(poetry)」、「預言(prophecy)」、「知恵文学(wisdom)」、「福音書(the Gospels)」、「書簡(手紙) (epistle)」、「黙示文学(apocalypse)」といった文学形式で書かれています。詳細は下記を参照。William W. Klein et al., Introduction to Biblical Interpretation, Revised Edition, Revised & Updated. (Nashville, Tenn.: Thomas Nelson, 2004), 323–450.
  4. 「前後の時間的関係性」については、下記参考文献の「Literary Issues in Genesis 1-3 and Human Origins」節を参照しています。John H. Walton, “A HISTORICAL ADAM: ARCHETYPAL CREATION VIEW,” in Four Views on the Historical Adam, ed. Ardel B. Caneday and Matthew Barrett (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2013).
  5. 詳細は下記を参照。K A. Mathews, Genesis 1-11:26, The New American commentary (Nashville, Tenn.: Broadman & Holman, 1996), 26–35.
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