「神との出会い」:2018年8月26日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

礼拝の映像はこちらからご覧いただけます。

  • 日時:2018年8月26日(日)
  • 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
  • 説教タイトル・テーマ:「神との出会い」
  • 聖書個所:創世記28章10-19節

    10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。
    「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
    16ヤコブは眠りから覚めて言った。
    「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
    17そして、恐れおののいて言った。
    「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
    18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

    出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(旧)46頁1

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導入

今日の聖書個所に出て来る登場人物は神様を除くとヤコブ一人。このヤコブは父親をだまし、兄には命を狙われるほどに憎まれるようになった結果、家族を離れて唯一人、見慣れぬ土地に行く途中にありました(参照:創世記27章1節―28章5節)。

神に出会うヤコブ

このときのヤコブは恐らく、孤独、悲しみ、後悔、不安などが入り乱れる複雑な心境の中、一夜を過ごしていたと思われます。そして、その夢の中で生まれて初めて神様からの語りかけを聞いたのです。

もちろん、それまでに何度となく祖父アブラハムと父イサクの神様のことは聞いていたでしょう。しかし、彼の人生において最も孤独なとき、悲しみと後悔と不安の感情で押しつぶされそうな状況にあったとき、生まれて初めて神様との出会いを体験したのです(13-15節)。

出会いのタイミング

その夢の中で神様はヤコブに確かな祝福を与えると約束されました。これらの祝福の内容は非常に素晴らしいものですが、今日特に注目したいのは神様がヤコブに出会われたタイミング

このとき、神様は生まれて初めてヤコブに直接語りかけました。しかも、神様が語りかけたのは、

ヤコブが人生において最も孤独を感じていたとき、悲しみと後悔と不安の感情が入り乱れていたであろうとき

です。

また、神様がヤコブに語りかけ祝福を約束してくださったのは、ヤコブが特に素晴らしいことを成し遂げた結果ではありません。むしろ、父をだまして祝福を受けた直後、神様はヤコブに祝福を約束されたのです。

行いによってではなく神様の一方的な恵みによって、ヤコブが祝福を受けた

ことが分かります。

もう一つ注目したいことは、ヤコブは神様が夢に現れることを期待していなかっただけでなく、自分と一緒にいてくださっていたことも全く気付いていなかったこと(16節)。

ヤコブは孤独と不安を解消するために神様からの語りかけを聞こうとして、特別な祈りをした訳でもありません。特別な捧げ物をささげた訳でもありません。

彼の行いとは関係なく、神様はいつもヤコブと共におられ、彼が一番神様を必要としていたであろうときに彼に現れ語りかけられた

のです。

出会いは恵み

何かをした分だけ神様から何かをしてもらえるはずだ

と思い始めると注意が必要です。

それは自分の行いによって神様をコントロールしようとしているのと大差がないからです。知らないうちに自分を神様よりも上の立場に置いている、もしくは「自分が神になっている」といっても過言ではありません。

また、

自分がこれだけやっているのに、何で神様は語りかけてくれないんだ!

と思い出すと、精神的にとても不安定になってきます。

神様が語りかけてくれない理由を色々と考え出してしまうからです。そしてより一層、自分の行いによって神様にどうにか語りかけてもらおうとする悪循環へと陥ります。

もちろん、自分の行いを悔い改めていないことによって神様との距離がどんどん離れてしまい、神様からの語りかけが聞こえにくくなることはあります(参照:イザヤ書59章)。そういうときには、それまでの行いを改めて、神様の望む生き方へと方向転換する必要があります。

が、しかし、たくさん祈る、聖書を読む、献金する、奉仕するといった

行いに応じて、神様からたくさん語りかけられるという訳ではありません。

また、

語りかけがないからといって、神様が私たちを見捨てている訳でもありません。

大事なことは、

神様は私たちの実情を誰よりもよくご存知である

ということ。そして、今日の箇所のヤコブのように、

私たちが本当に神様を必要としているときには必ず私たちを助けてくださる

ということです(比較:コリントの信徒への手紙一10章13節)。そのタイミングは十年に一度、一生に一度かもしれません。その人の必要に応じて、必要なときに、神様のタイミングと方法で現れてくださるのが聖書の語る神様です。

ある特定の儀式にならったり、何か特別な奉仕や献金をすれば現れてくださる訳ではありません。あくまでも主導権・主権は神様にあります。

神様に出会えるかどうかは私たちの行いによるのではなく、神様の愛と恵みと憐れみによるもの

です。

結論

神様が語りかけてくれて当然な人、神様から祝福されて「当たり前」な人はこの世に一人もいません。

神様からの語りかけや祝福はどんなものであれ、私たちにとって非常に「有難い」もの、受けるに余りあるもの、神様からの一方的な恵み

です。そして、

その恵みの最たるものは、神様の独り子イエス様が命をかけて与えてくださった永遠のいのち、神様との絆の回復

です。

神様の恵みによって、私たちの行いによるのではなくイエス様を信じる信仰のみによって、私たちは神様の子供とされる特権を得たのです。私たちが何かをしたからではなく神様からの一方的な恵みによって、神様はいつも私たちと共にいてくださり、私たちがどこへ行って何をしたとしても、神様は私たちを守り導いてくださるのです。

この世の中は神様の恵みと祝福に満ちています。特に私たちが当たり前だと思っているものの中に神様の祝福が詰め込まれています。それらは例えば、命、水、空気、土、太陽など。これらは私たち人間が自らの知恵や能力を駆使して造り出したものではなく、神様があらかじめ造り出してくださったもの。その中のごくわずかなものを使わせていただくことで、私たち人間の命は保たれているのです。

神様の凄いところは、その恵みと祝福をこれみよがしに見せつけたりはしないところ。たとえ私たちが神様の恵みや祝福に気付かずに神様に感謝しないとしても、神様はそれらの祝福を取り上げたりはなさいません(比較:マタイによる福音書5章43-48節)。見返りを期待しない究極の愛のかたちがそこに表されていると言えます。

そして

人は、そのような神様の無条件の愛と恵みに出会う体験をしたとき、今日の箇所のヤコブのように、神様に何かせずにはいられなくなる

のだと思います(16-19節)。

神様の愛と恵みに出会い、嫌々ではなく義務感からでもなく心から自然に、神様また神様の愛している人々に対して、神様の望まれることを何かしたいと思う。この神様の愛と恵みに対する応答こそが神様を礼拝することだと言えます(比較:ローマの信徒への手紙12章1節)。

与えられていないものではなく既に与えられているものに目を向けることができますように。私たちの存在そのものを愛してくださり、いつも共にいて守り導いてくださる神様の愛と恵みに出会うことができますように。そして、心から喜んで神様を礼拝することができますように。

参考文献および注釈

  • Waltke, Bruce K., and Cathi J. Fredricks. Genesis: A Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2001.
  • Wenham, Gordon J. Genesis 16-50. Word Biblical Commentary. Waco, Tex.: Word Bks, 1993.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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