子育てから学ぶ神との関係:「眠り」について


私事ですが、少し前に息子が1歳を迎えました。今のところ育児はほぼ妻に任せきりなのですが、息子の成長に僅かながらでも関わる中で、神様と自分の関係について考えさせられることがしばしばあります。

最近しみじみと考えさせられた事は「眠り」について。

子供を寝かせつけようとして初めて気づいたことですが、赤ちゃんというのはベッドや布団に一人で寝かせていても勝手に寝付くことはありません(はい、当たり前です)。

まず間違いなく母親なり父親なり、誰かが抱いてあやしながら眠りに落ちていきます。そして、たとえ「ああ、やっと眠った」と思ってベッドに寝かせたとしても、眠りが浅い場合はベッドに置いた途端に再び泣き出してしまいます(真夜中でこちらが眠いときには、こちらも泣きたくなってしまう場面です)。

そんな息子の姿を見ながら思ったのは、

人というのは、「今自分は安全な状況・環境にいるんだ」「自分はこれで大丈夫なんだ」という安心感がなければ、眠ることができない・できにくい存在なのかもしれないな

ということ(もちろん、心身共に疲れ過ぎてしまって、眠りたくなくても眠ってしまう場合もありますけど)。

ちなみに、聖書には、イエス様と弟子たちが乗った舟が突風に巻き込まれ、舟が水浸しになって皆が溺れそうになったとき、イエス様が眠っておられたと記す個所があります(マルコの福音書4章38節)。

どれほど太い神経をしてるんですか、イエス様!

と思わず突っ込みたくなる場面です。でも、

このとき、なぜイエス様は眠ることができたんだろう?

と考えてみると、それは、恐らくですが、

たとえ嵐の中にあったとしても、イエス様には「今自分は安全な状況・環境にいるんだ」「自分はこれで大丈夫なんだ」という絶対的な安心感があった

からだと思います。この絶対的な安心感というのはもちろん、神様に対する絶対的な安心感。そしてそれは、

赤子が親の腕の中で眠るときにもつ安心感に近いもの

なのかもしれません。

イエス様の弟子たちの場合もそうでしたが、たとえイエス様が私たちと共にいてくださるとしても困難や試練に遭うことはあります。

しかし、困難や試練に遭うのは神様・イエス様が私たちを見捨てたからではなく、見限ったからでもありません。イエス様はいつ如何なる時も私たちと共にいてくださるお方。私たちと同じ、もしくはそれ以上の悩み苦しみを経験されたお方。そしていつの日にか必ず、私たちを悩み苦しみから救い出してくださるお方です。

そんなイエス様に対して、赤子のように全幅の信頼を寄せ、その御腕の中に憩うとき、神様は私たちに安らかな眠りを与えてくださるんだな…。

真夜中に眠い目をこすりながら私の腕の中で寝ている息子の姿を眺めつつ、ふと、そんなことを思わされました。

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