昔から苦手だったんですけどねぇ・・・あの日記とかいうヤツ。やりたいとも思わないし、やってもまともに続いた試しもないし(最長期間は確か一か月くらい)。
でもまあ、今どきは皆さんやってるし。自分の働きを世に広く知ってもらうには非常に便利だし。やっぱりブログってやるしかない、よねぇ!?
という管理者(原田元道)のちょっと後ろ向き(?)なノリで始めてしまったこのブログですが、お越しいただき有難うございます。やるからには(もちろん)充実した内容にしていこうと思っておりますので、よろしくお願いします。
このブログには基本的に、キリスト教の牧師である管理者の活動内容を掲載していく予定です(全く関係ない内容もアリ)。
従って、ブログのタイトル「その人のために」には、一人の牧師として気にかけていることを思いとして込めさせて頂いています。
と思われる方のために、その意味するところを以下に説明したいと思います。
そもそも、「その人のために」の「その人」って誰?
皆さんは「その人のために」と聞いたとき、「その人」として誰を思い浮かべましたか?
恋人でしょうか?仲の良い友達でしょうか?配偶者でしょうか?子供でしょうか?親でしょうか?お世話になった、または尊敬するあの人でしょうか?
恐らくほとんどの場合、「その人」とは自分の身近にいる人、しかも「その人のために」なら何か(何でも?)したいと思えるような人だと思います。
キリスト教の「隣人愛」の「隣人」って誰?
キリスト教の聖書には沢山の話が収められていますが、私の非常に好きな話の一つに「善いサマリア人」と呼ばれる話があります(ルカの福音書10章25-37節)。これは、恐らく皆さんも聞いたことがあると思われるキリスト教の隣人愛について説明してくれる話の一つです。
聖書に詳しい専門家の一人が「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という聖書の掟について、イエスに尋ねます。
「私の隣人とはだれですか?」
するとイエスが一つの話を語ります。主な登場人物は4人。まず登場するのは旅の途中で強盗に襲われ、衣類を奪われ、殴りつけられ、半殺しにされた人。
以降の話は、この強盗に襲われ、着るものを奪われ、半殺し状態になった人に対して、通りすがりの人がどうするかということを中心に流れます。
ここで、もし皆さんが、強盗に襲われ半殺し状態で道端に転がっている男を見かけたらどうしますか?
さて、一人目の通りすがりは祭司です。今でいうところの神父や牧師のような存在で、聖書のことは良く知ってます。もちろん、先ほどの隣人愛についての掟「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」も当然のごとく知っている人物。
その祭司が、強盗に襲われ半殺し状態で道端に転がっている男を見てどうしたかというと・・・
反対側を通り過ぎていきます。
次に出てくるのは、ユダヤ民族の一つレビ族に属する一人の男。このレビ族という民族も祭司と同じくユダヤ教の神殿(今でいうところの教会)で働く人々ですから、隣人愛についての掟は耳にタコができるほど聞かされて知っています。
そのレビ族の男が、強盗に襲われ半殺し状態で道端に転がっている男を見てどうしたかというと・・・
反対側を通り過ぎていきます。
「おいおい、一体どうなるんだ、この話は。強盗に襲われた人は見殺しかよ」と思っていると、最後に一人のサマリア人が登場します。
このサマリア人という民族は、サマリアという地方に住むユダヤ民族と他の民族との間に生まれた混血の民族を指します。また、宗教的にみて、サマリア人の宗教観はユダヤ教と他の民族の宗教が混ざったものでした。
このため、ユダヤ人はサマリア人を(ユダヤ民族としての純血性とユダヤ教の純粋性を失った)汚れた民として忌み嫌っていました。要するに、ユダヤ人にとってサマリア人というのは、どんな理由があっても絶対に助けられたくはないし、助けたくもない相手だったのです。
そのサマリア人が、強盗に襲われ半殺し状態で道端に転がっている男を見てどうしたかというと・・・
かわいそうに思い、近寄って手当をし、宿屋に連れて行って、宿屋の主人に十分なお金を渡して、その男を介抱してくれるように頼むのです。
ここで話は終わり。そしてイエスは始めに「私の隣人とはだれですか?」と尋ねた聖書の専門家に尋ね返します。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか?」
ここで注目して頂きたいのはイエスの問いかけの表現。「誰が隣人になったと思いますか?」
そもそもの質問は「隣人とは誰ですか?」というものでした。にもかかわらず、イエスは「誰が隣人になったと思いますか?」と尋ね返しているのです。
「あれっ、イエスさん、質問の意味を間違ってしまったのかい?」と思いたくなりますが、そうではありません。むしろイエスは、この話を通して、質問者(当時のユダヤ教指導者)の隣人愛に対する考え方を正そうとしていると言えます。
つまり、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という聖書の掟は、「隣人」が誰かを決めて愛する対象を明確化(つまりは限定)することが本意ではなく、助けを必要としている人がいれば、民族や宗教や文化の壁を越えて、その人の身の上を自分のことのように思って憐れみをかけ、その人の隣人になりなさいという意味の教えだということです。
結論
私にとって、「その人のために」の「その人」とは、この「善いサマリア人」の話に出てくるような助けを必要としている人のことです。
もちろんそれは、仲の良い友達かもしれません。配偶者かもしれません。子供かもしれません。親かもしれません。お世話になった先生かもしれません。
しかし、と同時にそれは、文字通り道端で通りすがりにすれ違う人かもしれないのです。
「その人」が誰であっても、自分の中で愛する対象を限定するのではなく、そこに助けを必要としている人がいるのであれば、その人のためにその瞬間、自分に出来ることをしたい(時には、ただ傍にいることしかできないかもしれませんが・・・)というのが、一人の牧師として私が気にかけていることの一つです。
そんな思いをもって始めたこのブログ「その人のために」。今後ともよろしくお願いします。
photo credit: gato-gato-gato walking the dog via photopin (license)