キリスト教にそれほど詳しくない人でも「三位一体」という言葉は聞いたことがあると思います。1
この三位一体説というのは、端的に言うと
父、子、聖霊という三つの異なる位格をもっていて、
それら三つはそれぞれ100%神である
という教えです。2
これら三つの中で、父としての位格をもつ神は俗にキリスト教(聖書)の「神」というときの神、子としての位格をもつ神はイエス・キリストのことを指します。
聖霊というのは「神の霊」のことですが、気になる方は下記のブログを参照していただくとして、今回注目したいのは「神」とイエスの関係。
というのも、三位一体説によると、「イエス・キリストも神だ!」と言っているのですが、聖書をよくよく読んでみると
のです。 3となると
と思う方がいたとしても不思議ではありません。4
という訳で、今回のテーマは「イエス・キリストは本当に神なのか」。特に以下の二つについて考えます。
- イエス自身が(間接的であれ)自分を神だと主張していたか
- イエスの弟子たちはイエスを神だと主張していた(思っていた)か
そして最後にまとめとして、イエスが神であること(専門用語で「イエスの神性」)が私たちにとって何を意味するのかを考えようと思います。
話の流れ(目次)は以下の通り。
目次
イエス自身の(間接的)主張
冒頭で、イエス自身は「私は神である」と直接的に明言している箇所は聖書には見当たらないと書きました。
しかしながら、間接的にイエス自身が自分は神だと主張している箇所は存在していますので、以下に紹介します。
神の子
イエスはしばしば神のことを「(わたしの)父」と呼んでいます。裏を返せば、自分は「神の子」だと言っている訳です。
とはいえ実は、聖書において「神の子」というのはイエスのことだけを指す表現ではありません。下記に挙げる人たちもまた「神の子」と呼ばれます。5
- 天使たち(ヨブ記1章6節)
- イスラエル民族(申命記14章1節)
- イスラエルの王(サムエル記 第二7章14節;詩篇89篇26-27節)
- 祭司たち(マラキ書1章6節)
- イエスを信じる者たち(ヨハネの福音書1章12節)。
しかしながら、聖書によると、イエスは他の人たちとは異なり神と非常に特別な関係をもっていることが分かります。例えば、イエスが次のように言っている箇所があります。
父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。【ヨハネの福音書5章21-22節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉186頁6
ここで「父」というのは神のこと、「子」というのはイエス自身を指しています。
聖書において、死人をよみがえらせたり、いのちを与えることができる存在は神ただ一人(参照:列王記 第二5章7節)、人を裁くのは神のみがもつ特権です(参照:創世記18章25節)。従って、この箇所でイエスは、
ことになります。7
実際、イエスが神を自分の父と呼んで自分を神に等しい存在だと主張していたことは、当時の人々にとっては明らかだったようです(現代の私たちには明らかではありませんが)。
そしてそれ故に彼らは、冒涜罪(ただの人間の分際で自分を神と等しいと主張するのは神を冒涜すること)でイエスを殺そうとさえするのです(参照:ヨハネの福音書5章18節;10章33節)。
人の子
イエスが人々に語り教えるとき、自分自身のことを指すのによく用いた表現があります。それは「人の子」という表現。
この「人の子」を先に挙げた「神の子」と対比させて、「神の子」はイエスの神としての性質(神性)が強調される時に用いられ、「人の子」はイエスの人としての性質(人間性)が強調されるときに用いられると考える人がいらっしゃるかもしれません。
しかしながら、聖書をよく読んでみると、実はそうとは限らないようです。
実際、「人の子」について、以下のように記されている箇所があります。
- 罪を赦す権威を持っている(マルコの福音書2章10節)
- 天使たちを遣わす(マタイの福音書13章41節)
- 多くの苦しみを受けて殺され、三日後によみがえる(マルコの福音書8章31節)
- 多くの人のための贖いの代価として自分の命を与えるためにこの世に来た(マルコの福音書10章45節)
- いつの日にか、雲の内に偉大な力と栄光を伴って来る(マルコの福音書13章26節;比較:マルコの福音書14章62節)
言うまでもないことだと思いますが、人の罪を赦したり、天使たちを遣わしたり、死んでよみがえったり、人の罪のために命を与えたり、力と栄光を伴って再び現れたりするのは、普通の人間にできることではありません。
聖書的に言うと、神にしかできないようなことばかりです。
つまり、「人の子」という表現を用いながら、
のです。この意味で、「人の子」は「神の子」の同義語に近いと言えます。8
なお、旧約聖書において、「人の子」が特別な存在として描かれているのはダニエル書7章13-14節です。
私(ダニエル)がまた、夜の幻を見ていると、
見よ、人の子のような方が
天の雲とともに来られた。
その方は「年を経た方」のもとに進み、
その前に導かれた。
この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
この方に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、
過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない。【ダニエル書7章13-14節】出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉1522頁
これはダニエルという人物が見た幻の描写です。ここで「年を経た方」というのは神のことを指しています。そして、「人の子のような方」が天の雲とともに来て、神から主権と栄誉と国が与えられ、全ての人々を永遠に治めるようになると記されています。
このダニエル書の文句と非常に似た言葉をイエス自身が語っている箇所があります。それは、時の大祭司に「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」(マタイの福音書26章63節)と詰め寄られたときのイエスの返答。
あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。【マタイの福音書26章64節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉59頁
ここで「力ある方」とは神のことを指し、その「右の座に着」くというのは、神と同等の力と権威をもつことを意味します。
ですからイエスは、ダニエル書7章13-14節で預言されている「人の子のような方」のように、
と理解できます。9
これは当時の人たちにとって(現代の私たちにとっても同じく)、にわかには信じがたい・理解しがたい主張です。
しかし、大祭司はイエスのその主張を正しく理解し、その上でイエスを冒涜罪に定めています(マタイの福音書26章65節)。
これはつまり、当時の人々は
ということを意味します。
私はある
イエスは自身を「神の子」や「人の子」と称しただけでなく、「わたしはある」とも主張しています。それは例えば、以下の聖書個所。
まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです。【ヨハネの福音書8章58節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉199頁
ここで誰もが
と思われるはずです。この言葉は元々のギリシャ語ではegō eimi(エゴ・エイミー)という表現で、英語で直訳すると“it is I(私がそれだ)”や“I am(わたしはある)”と訳されます。10
このegō eimiという言葉自体は良く出てくる普通の表現なのですが、ユダヤ人たちにとっては特別な意味を持つことがありました。
なぜなら、旧約聖書において、egō eimiが神を表す表現として出て来る箇所があるからです。それは例えばイザヤ書41章4節(他にもイザヤ書43章10, 13, 25節;46章4節; 48章12節;申命記32章39節など)。
だれが、最初から世々の人々に呼びかけて
これらをなし、これらを行ったのか。
主であるわたしだ。わたしは初めであり、
また終わりとともにある。わたしがそれだ。
【イザヤ書41章4節】出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉1233頁
この言葉は神である主(しゅ)が語っている言葉ですが、ここで「わたしがそれだ」と訳されているのがegō eimiです。
このように、
のです。 11
ですから、先に挙げたヨハネの福音書8章58節において、イエスが「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」と言っているのは「アブラハムが生まれる前から、『神』なのです。」と言っているのに等しいことになります。
事実、そのイエスの言葉を聞いていた人々は、イエスが自分を神と等しくしていると理解したようで、神を冒涜した咎でイエスに石を投げて殺そうとしています(ヨハネの福音書8章59節;比較:ヨハネの福音書10章33節;参考:レビ記24章16節)。
なお、アブラハムというのはイエスが生まれる遥か昔(2000年ほど前)に亡くなっている人物です。
このため「アブラハムが生まれる前から、『神』なのです」という表現は、イエスが(神のように)永遠の昔から存在していることを暗に主張していると取ることもできます。12
聖霊(神の霊)を遣わす存在
イエスが自分を「神(もしくは神に等しい存在)だ」と間接的に主張している箇所の中には、イエスが自分と聖霊(神の霊)との関係について話している場面があります。
イエスは自分が十字架に架かって死のうとしている前夜、俗にいう「最後の晩餐」の席で弟子たちに次のように語りました。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。【ヨハネの福音書15章26節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉217頁
ここで「父」は神、「助け主」および「真理の御霊」は聖霊(神の霊)を指しています。従ってイエスは、神の霊である聖霊を弟子たちに遣わすだろうと言っている訳です。
と思われるかもしれません。が、よくよく考えてみると、
です。例えば、王様は家来を遣わすことができますが、家来が王様を遣わすことはできません。
ですから、イエスが聖霊(神の霊)を遣わすことができる立場にあるというのは、
と理解できます。13
アルファでありオメガ
これまでにみてきた内容は全て、イエスが十字架に架かる前のものでした。
この項では、イエスが十字架で死んで復活して天に昇った後、イエスの弟子のヨハネが見た幻(黙示)の中に出て来るイエスの言葉に着目します。その言葉とは
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。【ヨハネの黙示録22章13節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉519頁
というもの。
これはなんとも不思議な言葉ですが、まずここで「アルファ」と「オメガ」はギリシャ語のアルファベットの中でそれぞれ一番最初と一番最後の文字です。日本語でいえば「あ」と「ん」、英語でいえば「A」と「Z」にあたります。
「アルファであり、オメガである」、「最初であり、最後である」、「初めであり、終わりである」という表現には「両極にあるものを記すことで、その間にある全てのものを強調する」という比喩的技法が使われています。
そして、この三つの表現が意味することは「私(イエス)は歴史の全てを支配している」というもの。14
この言葉だけでもイエスは自分が普通の人間ではないと主張していることが分かります。
しかし、さらに驚くべきことは、同じヨハネの黙示録の中で、他ならぬ神自身もまた「わたしはアルファであり、オメガである」(ヨハネの黙示録1章8節)と言っているのです。
このことから、
とみることができます。15
礼拝される存在
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これまではイエスの言葉を頼りに、イエス自身が自分を神(に等しい存在)と主張していたかどうかをみてきました。
この項では、言葉ではなく態度によって、イエスが自分を神(に等しい)だと主張している箇所をみていきます。
が、その前に、当時の宗教的慣例を一つ説明しておく必要があります。その宗教的慣例とは、
というもの。ユダヤ人たちにとって、礼拝の対象は神ただ一人だった訳です。
にもかかわらず、弟子たちがイエスを礼拝している箇所が聖書には登場します。それはイエスが水の上を歩いて弟子たちの乗っていた湖上の舟に乗り込んだ場面。
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。【マタイの福音書14章33節】
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉30頁
ここで「礼拝した」と訳されているギリシャ語の言葉は、他の箇所では「ひれ伏す」とも訳されています。しかし、前後の文脈を考えると(特に直前で弟子たちが「まことに、あなたは神の子です」と言っていることから)、ただ「ひれ伏した」というよりは「礼拝した」と訳す方が自然だと思われます。16
ユダヤ人であったイエスの弟子たちが神以外の人間(イエス)を礼拝したというのはかなり衝撃的な出来事です。
けれども、それ以上に衝撃的なのは、イエスは弟子たちが自分を礼拝するのを止めなかったこと。
先ほども言いましたが、ユダヤ人にとって神以外の人やモノを礼拝するのはNGです。宗教的指導者であってももちろん、弟子たちに自分自身を礼拝させることはあってはならないことです。
にもかかわらず、イエスは弟子たちが自分を礼拝するのを止めなかった…。ということは、
ということになります。17
また、死んで復活したイエスに出会ったとき、トマスという弟子がイエスに「私の主、私の神よ」と言っている場面があります(ヨハネの福音書20章28節)。
このとき、トマスはイエスを「礼拝した」とは記されていませんが、イエスはトマスの言った言葉を否定しませんでした。
つまり、
と解釈できます。18
イエスの弟子たちの主張
前節では、イエス自身が間接的ではあれ「私は神(に等しい存在)だ」と主張している聖書個所をみてきました。
今節では、イエスの弟子たち(主に新約聖書の作者たち)が「イエスは神(に等しい存在)だ」と主張している聖書箇所を紹介します。
神
まず最初に、イエスのことをはっきり「神」だと記している聖書個所を挙げておきます。それらは少なくとも以下の7か所。19
- ヨハネの福音書1章1節
- ヨハネの福音書1章18節
- ヨハネの福音書20章28節
- ローマ人への手紙9章5節
- テトスへの手紙2章13節
- へブル人への手紙1章8節
- ペテロの手紙 第二1章1節
これらを見て
と思われる方がいらっしゃるかもしれません。そんな方に知っておいて頂きたい言葉があります。その言葉とは「主(しゅ)」です。
主(しゅ)
新約聖書において、「主(しゅ)」という言葉はイエスを指す言葉として非常にたくさん出てきます。
この「主」と訳されているギリシャ語kyrios(キュリオス、クリオス)は、当時のローマ帝国において、ある(身分が上の)人物を尊敬の念をもって呼ぶときに用いられた言葉でした(比較:マタイの福音書13章27節;21章30節;27章63節;ヨハネの福音書4章11節)。20
ですから、例えば、奴隷や召し使いの「主人」を指すときに用いられていた言葉です(参照:マタイの福音書6章24節;21章40節)。
しかしながら、ユダヤ人たちにとって、このkyriosという言葉は非常に意味深い言葉でもあったのです。
というのも、元々はヘブライ語で書かれていた
からです。
つまり、
ということになります。21
一つの例として、イエスがまだ母マリアの胎内にいたとき、マリアの親類のエリサベツがマリアのことを「私の主(kyrios)の母」と呼んでいる箇所があります(ルカの福音書1章43節)。
ここで「私の主」というのは明らかにイエスのことを指していますが、イエスはまだ生まれていない訳ですので、エリサベツの文字通りの「主人」とはなり得ません。
よって、ここでエリサベツは、自分の信仰する「ヤハウェ(Yahweh)」とイエスを等しくみていると理解するのが自然です。22
この他にも特に新約聖書の書簡(「〇〇の手紙」)において「主」という言葉がイエスを指しているとき、その手紙の作者はほぼ間違いなくイエスを「神(ヤハウェ)」に等しい存在とみていると言って良いと思います。
言うなれば、
といっても過言ではないでしょう。
このことは、イエスが神(に等しい存在)であることは周知の事実として新約聖書内の話が進められているところにも見て取れます(イエスが神であることを論じる箇所はほとんどないし、イエスが神であるかどうかでお互いの意見が対立していたと取れる箇所もない)。23
まとめ(イエスが神であることの意義・意味)
今回は「イエス・キリストは本当に神なのか」と題して、以下の二つについて考えました。
- イエス自身が自分を神と主張していたか
- イエスの弟子たちはイエスを神だと思っていた(主張していた)か
イエス自身が文字通り「私は神だ」と明言している箇所は聖書にはありませんが、間接的に(分かる人には分かる形で)自分は神(に等しい存在)だと主張しているのは確かだということが分かりました。
事実、イエスは以下のようなことを主張しています。
- 与えたいと思う者に命を与える(ヨハネの福音書5章21節)
- 人を裁く(ヨハネの福音書5章22節)
- 罪を赦す権威を持っている(マルコの福音書2章10節)
- 殺されても三日後によみがえる(マルコの福音書8章31節)
- 多くの人の罪を贖うために自分の命を与える(マルコの福音書10章45節)
- 天使たちを遣わすことができる立場にある(マタイの福音書13章41節)
- 聖霊(神の霊)を遣わすことができる立場にある(ヨハネの福音書15章26節)
- いつの日にか、偉大な力と栄光を伴ってやって来る(マルコの福音書13章26節)
- いずれ神と等しい力と権威をもって全ての人を治める(マタイの福音書26章64節;比較:ダニエル書7章13-14節)
- 神と同じく永遠の昔から存在している(ヨハネの福音書8章58節)
- 神と同じく歴史の全てを支配している(ヨハネの黙示録22章13節;比較:ヨハネの黙示録1章8節)
- 神と同じく礼拝されるべき対象である(マタイの福音書14章33節;比較:ヨハネの福音書20章28節)
新約聖書の作者たち(イエスの弟子たち)がイエスのことをはっきり「神」だと記している聖書個所は少なくとも以下の7か所です。
- ヨハネの福音書1章1節
- ヨハネの福音書1章18節
- ヨハネの福音書20章28節
- ローマ人への手紙9章5節
- テトスへの手紙2章13節
- へブル人への手紙1章8節
- ペテロの手紙 第二1章1節
これだけだと意外に少ない気がしてしまいます。が、新約聖書の作者たちの多くは旧約聖書に馴染みの深いユダヤ人たち。そんな彼らにとっては「主(しゅ)」と訳されるギリシャ語の言葉が彼らの信じる「神(ヤハウェ)」を指すことがあることをみました。
そして、この「神(ヤハウェ)」を指す「主」という言葉がイエスに対して非常にたくさん使われていることから、新約聖書の至る所で弟子たちは「イエスは神(ヤハウェ)だ」と主張していることが分かりました。
しかしここで、
と思われる方がいらっしゃるかもしれませんので、以下でイエスが神であること(専門用語で「イエスの神性」)の意味・意義を少し考えたいと思います。24
まず最初に、イエスが神であることは、
ことを意味します。イエス自身、自分を見た人は神を見たのだと言っています(ヨハネの福音書14章9節)。
神は目に見えない存在ですので、時には非常に遠くに感じてしまいます。到底理解できない雲の上の存在のようにも感じてしまいます。
でもそんなとき、
ことができます。
次に、
ことになります。
というのもキリスト教は、イエスが私たち人類の罪を背負って十字架で死んだと教えますが、イエスがただの一人の人間であったとすれば、他人の罪を背負えたとしてもせいぜい一人分が限度です(もちろん、それでもスゴイことですけど)。
です。そして、そのような存在こそまさに神が人となったイエス・キリストに他ならないのです。
また、イエスが神であるが故に全人類の罪を担うことができたということは、裏を返せば、
ことを意味しています(人の努力や知恵や経験によっては救われない)。
最後に、
と言えます。
人やモノはいつかは必ず朽ちていく儚い存在です。しかし、神であるイエスは十字架で死んだ後に復活し、今も生きてイエスを信じる者といつも共にいると聖書は教えます(マタイの福音書28章20節)。
「イエスの名による祈り」というのは、イエスの名前を唱えれば何でも願い事がかなう類の祈りではありません。むしろ、イエスの徳性や関心事にかなった祈り、つまりはイエスの心と一致した祈りのことです。25
神であるイエスの心と一致した祈りを捧げるとき、祈り求めるものは必ず与えられると聖書は約束しています(ヨハネの福音書14章13-14節;15章16節)。
そして、天地万物の造り主であったにもかかわらず、自らが造り出した人間と同じ姿をとって、私たちを罪の滅びから救うためにその罪の代価を全て背負って十字架に架かったイエス・キリストを思うとき、神であるイエスに対する感謝と賛美が自然と沸き起こるのは私だけではないと思います(比較:ピリピ人への手紙2章6-11節)。
参考文献および注釈
- Beale, Gregory K. The Book of Revelation: A Commentary on the Greek Text. New international Greek Testament commentary. Grand Rapids; Carlisle, England: Eerdmans; Paternoster Pr, 1999.
- Blomberg, Craig L. Jesus and the Gospels: An Introduction and Survey. Second edition. Nashville, Tenn.: B & H Academic, 2009.
- Carson, D. A. The Gospel According to John. Reprint edition. The Pillar New Testament Commentary. Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990.
- Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
- Frame, John M. Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology. Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006.
- France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
- Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
- Keener, Craig S. The Gospel of John: A Commentary. Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003.
- Turner, M., and G. McFarlane. “TRINITY.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
- “三位一体の改革.” Wikipedia, April 29, 2016. Accessed January 12, 2019. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9&oldid=59535821.
- 少し前には政治の世界で「三位一体の改革」がなされたほどです。「三位一体の改革」について、ご興味のある方は下記を参照。“三位一体の改革,” Wikipedia, April 29, 2016, accessed January 12, 2019, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9&oldid=59535821.
- 「三位一体説」については「キリスト教の三位一体説とは何か?聖書には書いてない!?矛盾してる?」を参照ください。
- Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 625.
- そもそものところ、「イエスは本当に実在した人物なのか?」に興味のある方は下記のブログ記事を参照ください。「イエス・キリストは実在したのか?証拠は?聖書以外で証明できる?」
- 詳細は下記を参照。John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord: An Introduction to Systematic Theology (Phillipsburg, NJ.: P & R Publishing, 2006), 134.
- 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
- 詳細は下記を参照。D. A. Carson, The Gospel According to John, Reprint edition., The Pillar New Testament Commentary (Leicester, England; Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990), 252–254.
- イエスが「人の子」という表現を好んで用いたのは、「人の子」の方が「神の子」や「メシア」よりも人々のもつイメージが曖昧だったため、人々の先入観に邪魔されることなく自分自身のことを伝えるのに都合が良かった(イエスが独自に「人の子」のイメージを作り上げることができた)からなのかもしれません。Craig L. Blomberg, Jesus and the Gospels: An Introduction and Survey, second edition. (Nashville, Tenn.: B & H Academic, 2009), 472–473.
- 詳しい解説は下記参考文献のマタイの福音書26章64節の注解を参照。R. T France, The Gospel of Matthew, The New International Commentary on the New Testament (Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007).
- Carson, The Gospel According to John, 342.
- egō eimiが神を表すことを出エジプト記3章14節を根拠に説明する文献もありますが、最近はイザヤ書40-55章を根拠とする説が有力なようです。詳細な説明は下記を参照。ibid., 343–344.
- 永遠の昔から存在しているという「永遠性(eternity)」はキリスト教(聖書)の神の性質の一つです。Grudem, Systematic Theology, 547.
- 詳細な説明は下記を参照。M. Turner and G. McFarlane, “TRINITY,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 1210.
- 詳細な説明は下記参考文献のヨハネの黙示録1章8節の注解を参照。Gregory K. Beale, The Book of Revelation: A Commentary on the Greek Text, New international Greek Testament commentary (Grand Rapids; Carlisle, England: Eerdmans; Paternoster Pr, 1999).
- Grudem, Systematic Theology, 546.
- ちなみに、新共同訳と新改訳第三版では「拝んだ」と訳されています。
- 詳細な説明は下記を参照。Blomberg, Jesus and the Gospels, 468.
- Erickson, Christian Theology, 627.
- この他にもテトスへの手紙1章3節に出て来る「救い主である神」と4節の「救い主キリスト・イエス」を併せて、「キリスト・イエス=神」とみることもできます。Grudem, Systematic Theology, 543.
- Ibid., 544.
- Ibid.
- Ibid.
- Frame, Salvation Belongs to the Lord, 132.
- 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 642; Grudem, Systematic Theology, 553.
- 詳細な解説は下記参考文献のヨハネの福音書14章13-14節の注解を参照。Craig S. Keener, The Gospel of John: A Commentary (Peabody, Mass.: Hendrickson, 2003).