キリスト教の教会とは?どんなところ?何するの?―教会の性質と役割―

キリスト教

と聞くと、

十字架がついた建物(教会)

を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。

最近ではキリスト教徒でなくても教会・チャペルで結婚式を挙げる人が増えてますので、「教会」に足を踏み入れたことがある方も少なくないと思います。

しかしながら、

教会では結婚式以外に一体が何が行われているのか?
なぜ教会に人が集まるのか?
なぜ教会は存在するのか?

と聞かれると、(クリスチャンであっても)言葉に困る人は多いと思います。

という訳で、今回のテーマは「教会の性質と役割」について。そもそものところ、

キリスト教(聖書)が語る「教会」とはどういうものか?

また、

教会の働き・役割・目的は何か?

を考えます。

今回の話の流れ(目次)は以下の通り。

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教会の性質

神の民

「教会」という言葉を耳にすると、ほぼ全ての人が(立派で古めかしい?)「建物」をイメージすると思います。

ところが、日本語で「教会」と訳されている言葉(ギリシャ語のekklēsia)の元々の意味は「集会、会合(a meeting or assembly)」というもので、「建物」を指す言葉ではありません。1

実際、聖書内においても「教会(ekklēsia)」という言葉は、建物ではなく、地域に存在しているクリスチャンの「宗教的な集会(congregation)」を指すことがほとんどです。

そして、その集会というのは

(キリスト教の)神の民とされた人々の集まり

のことです。

聖書は以下のように語っています。

わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
【コリント人への手紙第二6章16節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉363-363頁2

ここで「わたし」は「神」、「彼ら」は「イエスを信じ従うクリスチャンたち」を指します。

神が人々の神となり、人々が神の民となる

というのは、聖書全体を貫く大きなメッセージの一つです。

事実、聖書は旧約聖書と新約聖書に大きく分かれてますが、この「旧約」と「新約」という言葉の基礎となっている「旧い契約」と「新しい契約」双方の中核を成すものが「神が人々の神となり、人々が神の民となる」というものです。3

そして、神がシナイ(またはホレブ)という山で神の民(イスラエル民族)と契約を結んだ日のことを「あの集まりの日」と表現する個所があります(申命記9章10節;18章16節)が、ここの「集まり」という言葉にekklēsiaという言葉が用いられています

また神は、神が神の民と結んだ契約に基づいて、人々に様々な掟(律法)を与えます。その中に神の民を指して「主(しゅ)の集会」という表現が出てきます(申命記23章1、2、3節など)が、そこでの「集会」という言葉もまたekklēsiaとなっています。

ですから、

神の民とされた人々が集まるとき、そこに「教会」がある

ということになります。

教会が「(キリスト教の)神の民とされた人々の集まり」ということは具体的には以下を意味します。4

  • 主導権は神にある(神の愛と恵みによって選ばれた;参照:申命記7章6-8節)
  • 神が「自分の瞳のように」守ってくれる(申命記32章10節)
  • 神は人々に神の民らしく誠実・忠実であることを求める(神と神の民の関係は夫婦関係にたとえられるほどのもの;参照:ホセア書1章2-9節)
  • 時と場所に関係なく、神の民とされた者は全て教会に属する5
  • 集まる人数に関係なく、神の民が集まれば教会となる6
  • 誰が教会に属しているか(神の民とされたか)の正しい判断は神にしかできない7

キリストのからだ

聖書において、教会は「キリストのからだ」とたとえられることがあります。

また、御子(みこ)はそのからだである教会のかしらです。【コロサイ人への手紙1章18節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉402頁

ここで「御子」というのは神の子である「イエス・キリスト」を指しています。ですから、「キリストはキリストのからだである教会のかしら」だと言っていることになります(比較:エペソ人への手紙1章22-23節;コリント人への手紙第一12章12-27節;ローマ人への手紙12章3-8節)。

とはいえ、いきなり「教会はキリストのからだです」と言われても全く意味不明だと思いますので、その意味するところを記すと以下のようになります。8

  • 教会はイエス・キリストが生前に地上で成していた働きを継続する立場にある(ヨハネの福音書14章12節;20章21節;マタイの福音書28章18-20節)
  • 教会とイエス・キリストとは切り離せない関係にある(コロサイ人への手紙2章19節;ヨハネの福音書15章5-6節)
  • 教会の統治権は究極的には教会のかしらであるイエス・キリストにある(コロサイ人への手紙2章10節)
  • 教会に属する人々の間には深いつながりがある(コリント人への手紙第一12章12-27節;ローマ人への手紙12章3-21節)
  • 教会に属する人々は互いに助け合って成長していく関係にある(エペソ人への手紙4章15-16節;ガラテヤ人への手紙6章1-2節)
  • 教会の中には一致が保たれるべきである(コリント人への手紙第一12章12-14節;エペソ人への手紙4章2-6節)
  • 教会に属する人々の間には民族的、社会的な壁は存在しない(コロサイ人への手紙3章11節;エペソ人への手紙2章14-16節)

語弊を恐れながらも一言でまとめるとすれば、

教会とイエス・キリストは切っても切り離せない関係にあって、その中にいる一人一人も人種・性別・社会的身分など関係なく深いつながりで結ばれている

ということになると思います。

聖霊の宮(みや)

教会は父なる神の民とされた人々の集まり、そして子なる神キリストのからだでもあると同時に「聖霊なる神の宮(みや)」でもあります。9

あなたがたは、自分が神の宮(みや)であり、神の御霊(みたま)が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。【コリント人への手紙第一3章16節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉330頁

これはパウロという人がコリントという場所に住むクリスチャンたち(神の民とされた人々の集まりとしての教会)に宛てた手紙の一節です。

ここでパウロはコリントの「教会(神の民とされた人々の集まり)」に向けて、教会全体が一つの「神の宮」であり、聖霊(神の霊)がその集まりの中に住んでいると語っています(比較:エペソ人への手紙2章21-22節)。10

教会のうちに聖霊が住んでいること、即ち、教会が「聖霊の宮」であることは以下のようなことをもたらします。11

  • 教会は「御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)」を結ぶようになる(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)
  • 教会は宣教のために必要な力を得る(使徒の働き1章8節)
  • 教会は一致を保つための助けを得る(エペソ人への手紙4章3-6節;使徒の働き2章44-47節;4章31-35節)
  • 教会は聖(きよ)く清められていく(コリント人への手紙第一6章18-20節)
教会は、聖霊なる神の力と助けを受けて、神が望む姿へと変えられながら、神のことを宣べ伝えていく人々の集まり

と言えます。

教会の働き・役割・目的

前節において、教会は父なる神の民とされた人々の集まり、子なる神キリストのからだ、そして聖霊なる神の宮(みや)であることをみました。

今節ではそんな教会の果たすべき役割・存在意義・目的について、大きく以下の三つを紹介します。

  • 礼拝
  • 成長
  • 宣教・伝道

礼拝

キリスト教の教会のウェブサイトを見ると必ずと言ってよいほど目にする言葉がこの「礼拝」という言葉でしょう。

しかしながら、キリスト教(宗教)を知らない人にとっては、「礼拝」ほど意味が良く分からない言葉もないと思います。

しかし、それでもとりあえず教会に足を運んで「礼拝」なるものに参加してみると、そこに集う人たちがやっているのは大抵、以下のようなことです(順不同です)。

  • 歌(讃美歌)を歌う
  • 聖書を読む(朗読する)
  • 祈る(「主の祈り」や「使徒信条」を唱える)
  • 説教を聞く
  • 献金をする
うーん、これが「礼拝」と言われれば「礼拝」なんだろうけど、やっぱり良く分かんないな・・・

と思われる方は少なくないと思います(私もそんな一人でした)。

残念ながら、今回は礼拝について詳しく取り上げるスペースがありません。12 が、礼拝に関する一つの説明(表現方法)を記すとすれば下記になります。13

礼拝とは、主権者なる神が恵みと憐みによって御自身を現わしてくれたことに対して、神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちた人的行為を伴うもの

ちょっと小難しい表現ですので、かなり平たく言いかえるとすれば

礼拝とは、神がしてくださったことに対する人間なりの応答

と言えると思います。

ここでのポイントは「神がしてくださったことに対する」という部分。つまり、礼拝というのは、

神が私たちに何かをしてくれることから始まる

と言えます。

では、

「教会」に対して神がしてくださったことは何か?

それは

神の民としてくださったこと

です。この意味において

父なる神の民とされた人々の集まりである教会が神を礼拝する(神の思いにかなった従順な態度と敬意を表す敬虔に満ちたことを行う)のは当然かつ必然

だと言えます。

成長

神の民とされた人々の集まりである教会は、神を礼拝するだけでなく、キリストのからだ全体として成長していく必要があります。

パウロは次のように記しています。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。【エペソ人への手紙4章16節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉389頁

ここに出てくる「からだ」とは、キリストをかしらとした「教会」を指しています(参考:エペソ人への手紙4章15節)。

また、からだ(教会)全体を支える「あらゆる節々」というのは、教会内で様々な働きを担う人々(伝道者、牧師、教師など)のことを指しています(参考:エペソ人への手紙4章11-12節)。

ですから、ここでパウロは、

伝道者や牧師、教師といった人たちを支えとしながら、教会内の人たちそれぞれがその任された分に応じて働くことで、イエス・キリストによって教会全体が成長して愛のうちに建てられていく

と語っています。14

教会全体の成長のためには神の民とされた人たち一人一人が成長していく必要があります(比較:コロサイ人への手紙1章28節)。

そして、教会全体そして各クリスチャンの成長のために注意すべきこととして、以下のようなことが考えられます。15

  • 人の成長のためになる言葉を語る(エペソ人への手紙4章29節)
  • 神の民とされた人々が集まってすること (讃美歌を歌ったり、教えたりすることなど)は全て、全体の成長に役立てるために行う(コリント人への手紙第一14章26節)
  • お互いの苦しみや喜びを共有できる関係を築く(コリント人への手紙第一12章26節;ローマ人への手紙12章15節)
  • 悪い行い(神様の望まないこと)をしている人がいれば、愛をもって諭す(マタイの福音書18章15-17節;エペソ人への手紙4章14-15節;コリント人への手紙第一5章1-5節)
  • 聖書の教えはもちろん、世の中の出来事をも通して神・イエスのことを学び教える(エペソ人への手紙4章11-12節;使徒の働き18章24-26節)

なお、教会全体そして各人の成長を考えるときに決して忘れてはいけないことがあります。それは、

教会全体そして各人の成長は全て、聖霊の助けと力によるものであって、個々人の才能や努力だけによるものではない

ということです(コリント人への手紙第一12章1-7節)。

自分の力や努力だけで何かを成し遂げた(成長した)と考えるとき、そこには自負やプライド、おごり高ぶりといったものが生じます。

そして、そのような態度は多くの場合、教会内に亀裂や分裂を引き起こす(教会全体としての成長を妨げる)きっかけとなります。

聖書は勧めています。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。【エペソ人への手紙4章2-3節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉388頁

宣教・伝道

教会の果たすべき役割・存在意義・目的について、最後に考えるのは宣教・伝道についてです。

宣教・伝道というのは、簡単に言うと、

神のこと、イエス・キリストのこと、聖書のことなどを周りの人に伝え、イエスを信じ従う者(イエスの弟子)の数を増やすこと

です。

イエス自身が次のように弟子たちに命じています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。【マタイの福音書28章19節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉64頁

ここで「神・イエス・聖書のことを伝える」と聞くと、神・イエス・聖書のことをしっかり学んでその内容を説明するというイメージをもたれる方がいらっしゃるかもしれません。

もちろん、神・イエス・聖書のことを学んで説明することも大事ですが、そのような知識だけでなく、実際の生活態度においても「神・イエス・聖書のことを伝える」ことはできます

何事においてもそうだと思いますが、

言葉よりも行いの方が私たちの心に届くことが多い

からです。

イエス自身もまた、弟子たちに次のように命じている箇所があります。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。【ヨハネの福音書13章34-35節】

出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉213頁

イエス自身、人々を教えただけではなく、その教えに生きた人でした。

貧しい人であれ、富んだ人であれ、罪深いとされた人であれ、自分は正しいと自認していた人であれ、イエスは全ての人を分け隔てなく愛し抜かれ、彼らの友となりました

そして遂には

この世の全ての人々を罪の滅びから救うため、イエスは自らの命を犠牲にした

のです。

私たちもまた

神・イエス・聖書のことを学んで教えるだけでなく、その教えに生きてイエスのように人々を愛するとき、私たちの周りの人々もまたイエスの弟子(イエスを信じ従う者)となっていく

のではないかと思います。

ただし、前項の「成長」のときもそうでしたが、「宣教・伝道」に関しても同じく、私たち個々人の力や努力だけでやろうとすると無理が出てきます。

先に挙げた「マタイの福音書28章19節」において、イエスは弟子たちに「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じました。

しかし、それは「お前たちの力や努力だけでなんとかしなさない」という丸投げの命令ではありません。

むしろ

イエスはいつも彼らと共にいる

と約束しています(マタイの福音書28章20節)。

以上、教会の果たすべき役割・存在意義・目的として、礼拝、成長、宣教・伝道という三つを考えてきました。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この三つはそれぞれに力点が異なっています。というのも、

  • 礼拝はに対して
  • 成長は教会内の人々に対して
  • 宣教・伝道は教会外の人々に対して

それぞれ力点が置かれています。16

そして、教会にとって大事なことは、これら三つのバランスを上手に取ることだと思います。17

とはいえ、これら三つが自然に成されていく「流れ」のようなものはあると思います(まず神を礼拝し、互いに成長して、周りの人に伝えていく)。

が、どれか一つが飛び抜けて大事なのではなく、

全て(神と自分たちと周り)のことに気を配り、聖霊の力と助けを受けながら、神から託された働き・務めを成していく

必要があると思います。それこそがイエス・キリストの生き様でしたし、「キリストのからだ」としての教会の在り方だと思うからです。

まとめ

今回のテーマは「教会の性質と役割」について。具体的には、キリスト教(聖書)が語る「教会」とはどういうものか、またその働き・役割・目的は何かをみてきました。

聖書において「教会」という言葉が出てくるとき、それは建物のことではなく第一義的に「(キリスト教の)神の民とされた人々の集まり」を指しています。

ですから、教会(建物)のあるところに人が集まるのではなく、

神の民とされた人々が集まるとき、そこに「教会」がある

ことになります。特に、教会が「(キリスト教の)神の民とされた人々の集まり」ということは以下を意味します。

  • 主導権は神にある(神の愛と恵みによって選ばれた;参照:申命記7章6-8節)
  • 神が「自分の瞳のように」守ってくれる(申命記32章10節)
  • 神は人々に神の民らしく誠実・忠実であることを求める(神と神の民の関係は夫婦関係にたとえられるほどのもの;参照:ホセア書1章2-9節)
  • 時と場所に関係なく、神の民とされた者は全て教会に属する
  • 集まる人数に関係なく、神の民が集まれば教会となる
  • 誰が教会に属しているか(神の民とされたか)の正しい判断は神にしかできない

また、

教会とイエス・キリストは切っても切り離せない関係にあって、その中にいる一人一人も人種・性別・社会的身分など関係なく深いつながりで結ばれている

こともみました。そのことを聖書では、教会は「キリストのからだ」という表現を用いて表します。具体的には教会は以下のような性質を持っていると言えます。

  • 教会はイエス・キリストが生前に地上で成していた働きを継続する立場にある(ヨハネの福音書14章12節;20章21節;マタイの福音書28章18-20節)
  • 教会とイエス・キリストとは切り離せない関係にある(コロサイ人への手紙2章19節;ヨハネの福音書15章5-6節)
  • 教会の統治権は究極的には教会のかしらであるイエス・キリストにある(コロサイ人への手紙2章10節)
  • 教会に属する人々の間には深いつながりがある(コリント人への手紙第一12章12-27節;ローマ人への手紙12章3-21節)
  • 教会に属する人々は互いに助け合って成長していく関係にある(エペソ人への手紙4章15-16節;ガラテヤ人への手紙6章1-2節)
  • 教会の中には一致が保たれるべきである(コリント人への手紙第一12章12-14節;エペソ人への手紙4章2-6節)
  • 教会に属する人々の間には民族的、社会的な壁は存在しない(コロサイ人への手紙3章11節;エペソ人への手紙2章14-16節)

さらに、

教会は聖霊なる神の力と助けを受けて、神が望む姿へと変えられながら、神のことを宣べ伝えていく人々の集まり

とも言える存在で「聖霊の宮(みや)」とも呼ばれます。聖霊の宮である教会は以下のような特質・特徴をもったものでもあります。

  • 教会は「御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)」を結ぶようになる(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)
  • 教会は宣教のために必要な力を得る(使徒の働き1章8節)
  • 教会は一致を保つための助けを得る(エペソ人への手紙4章3-6節;使徒の働き2章44-47節;4章31-35節)
  • 教会は聖(きよ)く清められていく(コリント人への手紙第一6章18-20節)

次に、教会の果たすべき役割・存在意義・目的について。

まず第一に、父なる神の民とされた人々の集まりである教会は

神の民としてくださった神に対して、何らかの応答をすべき存在

であることをみました。

この「神がしてくださったことに対する応答」というものがいわゆる「礼拝」と呼ばれるものです。具体的には、集まった皆で神をたたえる歌(讃美歌)を歌う、祈りを捧げる、献金をするといったことになります。

神の民とされた人々の集まりである教会は、神を礼拝するだけでなく、キリストのからだ全体として成長していく

必要があることもみました。

教会全体そして各クリスチャンの成長のために注意すべきこととして、以下のようなことが挙げられます。

  • 人の成長のためになる言葉を語る(エペソ人への手紙4章29節)
  • 神の民とされた人々が集まってすること (讃美歌を歌ったり、教えたりすることなど)は全て、全体の成長に役立てるために行う(コリント人への手紙第一14章26節)
  • お互いの苦しみや喜びを共有できる関係を築く(コリント人への手紙第一12章26節;ローマ人への手紙12章15節)
  • 悪い行い(神様の望まないこと)をしている人がいれば、愛をもって諭す(マタイの福音書18章15-17節;エペソ人への手紙4章14-15節;コリント人への手紙第一5章1-5節)
  • 聖書の教えはもちろん、世の中の出来事をも通して神・イエスのことを学び教える(エペソ人への手紙4章11-12節;使徒の働き18章24-26節)

最後に、教会に託されている使命とも呼べるものは

神のこと、イエス・キリストのこと、聖書のことなどを周りの人に伝え、イエスを信じ従う者(イエスの弟子)の数を増やすこと

つまりは、宣教・伝道です。

ただし、

ただ神・イエス・聖書のことを学んで周りの人に教えるだけでなく、実際に自分たちがその教えに生きてイエスのように人々を愛する

ことが大事だと思います。というのも、

私たちイエスを信じ従う者の言葉に行いが伴うとき、私たちの周りの人々もまたイエスの弟子(イエスを信じ従う者)となっていく

のではないかと思うからです。

なお、「成長」も「宣教・伝道」も私たちが自分たちの才能・力や努力だけで成し遂げられる類のものではありません。むしろ

いつも共にいるイエスと一緒に、聖霊なる神の力と助けに依り頼みながら、父なる神の民とされた人々が一つとなって共に成長し、宣教・伝道していく

ものです。そして、

礼拝(神との関係)と成長(教会内の人たちとの関係)と宣教・伝道(教会外の人たちとの関係)の全てに対して気を配り、聖霊の力と助けを受けながら、神から託された働き・務めを成していく

ことがとても大事だと思います。

そのようにして、

神の民とされた人々が神と自分たちと周りの人たち全てを愛するとき、教会は「キリストのからだ」として、イエス・キリストの生き様を世に示すことができる

のだと思います。

参考文献および注釈

  • Block, Daniel I. For the Glory of God: Recovering a Biblical Theology of Worship. Reprint edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2014.
  • Erickson, Millard J. Christian Theology. 3rd ed. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013.
  • Fee, Gordon D. The First Epistle to the Corinthians, Revised Edition. Revised edition. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2014.
  • Grudem, Wayne A. Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine. Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994.
  • O’Brien, Peter T. The Letter to the Ephesians. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids; Leicester: Eerdmans; Apollos, 1999.
  • Robinson, D. W. B. “CHURCH.” Edited by D. R. W. Wood, I. H. Marshall, A. R. Millard, J. I. Packer, and D. J. Wiseman. New Bible Dictionary. Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996.
  1. 詳細は下記を参照。D. W. B. Robinson, “CHURCH,” ed. D. R. W. Wood et al., New Bible Dictionary (Leicester, England ; Downers Grove, Ill: InterVarsity Press, December 1996), 199–200.
  2. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新改訳2017』から引用。
  3. 聖書の内容について、詳しくは下記の記事をご覧ください。「分厚い聖書、何が書いてある?―初心者にも分かる簡単な内容解説―」旧約聖書と新約聖書の違いについて、興味のある方は下記の記事を参照ください。「旧約聖書と新約聖書、何がどう違う?―初心者向けの簡単な内容紹介―」
  4. 詳細は下記を参照。Millard J Erickson, Christian Theology, 3rd ed. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2013), 958–959.
  5. 詳細は下記を参照。Wayne A. Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Biblical Doctrine (Downers Grove, Ill.; Grand Rapids, Mich.: InterVarsity Pr; Zondervan, 1994), 853–855.
  6. 詳細は下記を参照。ibid., 857–858.
  7. 詳細は下記を参照。ibid., 855–857.
  8. 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 959–962.
  9. キリスト教(聖書)の教える父なる神、子なる神、聖霊なる神の関係(三位一体説)について、興味のある方は下記の記事をご覧ください。「キリスト教(聖書)の三位一体説とは何か?聖書には書いてない!?矛盾してる?」
  10. この聖書個所の少し後(コリント人への手紙第一6章19節)でパウロは、個々のクリスチャンもまた「聖霊の宮」であり、一人一人のうちに聖霊がおられると語っています。詳しい説明は下記を参照。Gordon D. Fee, The First Epistle to the Corinthians, Revised Edition, Revised edition. (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 2014), 159–160, 291–292.
  11. 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 962–963.
  12. 「礼拝の意味・目的・方法」について、興味のある方は下記のブログ記事をご覧ください。「キリスト教の礼拝とは?教会で何をする?―聖書が教える礼拝の意味・目的・方法―」
  13. Daniel I. Block, For the Glory of God: Recovering a Biblical Theology of Worship, Reprint edition. (Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2014) Kindle Locations 728-729.
  14. 詳しい説明は下記参考文献の「エペソ人への手紙4章16節」の注解を参照。Peter T. O’Brien, The Letter to the Ephesians, The Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids; Leicester: Eerdmans; Apollos, 1999).
  15. 詳細は下記を参照。Erickson, Christian Theology, 974–977.
  16. Ibid., 977.
  17. 詳細な解説は下記を参照。Grudem, Systematic Theology, 868–869.
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