以前、下記の記事でイエス・キリストが十字架で死んだキリスト教的理由・意味を考えました。
そして、
ことをみました。
これはこれでもちろん、とても大事な内容なのですが、「罪」とか「罰」とか「救い」といった耳慣れない言葉が出てきますので、分かりにくいところがあったかもしれません。
今回はもう少し別の角度からイエス・キリストが十字架で死んだ意味を考えたいと思います。
具体的には、十字架刑(磔刑、たっけい)に伴う「屈辱と残酷さ」に着目して、1
を考えつつ、イエスが十字架で死んだ理由・意味をみていきたいと思います。2
今回の話の流れ(目次)は以下の通り。
目次
屈辱的で残酷な十字架刑(磔刑)
まずは十字架刑(磔刑、たっけい)がどれほど屈辱的で残酷なものだったかについて、簡単に記しておきます。詳細は下記の記事を参照ください。
そもそものところ、十字架刑が屈辱的で残酷だったのはローマ帝国に対する反逆罪への見せしめを兼ねていたからです。
このため、十字架刑には肉体的な苦痛はもちろんですが、かなりの精神的な苦痛(辱めや恥辱)も伴いました。例えば、
- 十字架の横木を受刑地まで運ぶ間中、また十字架にはりつけにされた後も、通りすがりの人々に国家に逆らって失敗した愚か者として見世物にされ、罵りと嘲りを受ける
- はりつけ時には衣服をはぎとられ、人前で裸にされる(しかも排泄の様子も隠すことができない)という非常な恥辱を味わう
- ユダヤ人にとって、木にかけられる者は「神に呪われた者」を意味したため、ユダヤ人からは神に呪われた者とみなされる
肉体的な苦痛に関して言うと、例えば、以下のような苦しみ・痛みを受けます。
- はりつけ前には出血多量で命を落とすこともあるほど酷くムチ打たれる
- はりつけ時に手足を十字架に釘付けにされる(紐で結わえ付けられる場合もあり)
- はりつけ後は全裸のため、寒暖を十分に防ぐことができない
- 食べ物や飲み物は与えられないので、空腹と脱水症状に苦しむ
- はりつけにされた状態では呼吸が困難なため、酸血性や不整脈の症状に苦しみ、最後には窒息する3
- ムチ打ちによる出血が酷い時には、血液量減少性ショック(hypovolemic shock)によって心拍数が上がり、心不全・心臓麻痺(heart failure)に至ることもある
このように
でした。
イエスの十字架の理由・意味
それでは、
以下では4つの理由・意味をみていきます(これら以外の理由・意味も考えられます)。
私たちの苦しみに寄り添うため
イエスがそれほどまでに屈辱的かつ残酷な処罰を受ける必要があった理由の一つは、この世に生きる私たち人間の苦しみに寄り添うためと考えられます。
というのも、
からです。
なお、イエスが経験した苦しみは十字架刑によるものだけではありませんでした。
十字架刑にされるかどうかの裁判を受けるために捕らえられたのは、弟子の一人の裏切りによるものでした(マタイの福音書26章47-50節)。
最も身近で生活していた弟子たちには見放されます(マタイの福音書26章56節)。
まさに、
でもそれは、
と聖書は語るのです(へブル人への手紙2章18節)。
私たちの倣うべき模範を示すため
この世は苦しみで満ちています。
何も悪いことをしていなくても苦しみはやってきます。
仮に善いことをしたとしても、不当な苦しみを受けることもあります。
イエスを信じてクリスチャンとなってもこの世の苦しみから逃れられる訳ではありません。むしろ、イエスを信じているからこそ宗教的な迫害や弾圧を受けることがあります。
そんなとき、
という思いに押しつぶされそうになるかもしれません。
そんな私たちに対して、イエスは言うのです(比較:マタイの福音書16章23-27節;28章18-20節;ペテロへの手紙第一2章18-25節)。
私たちの罪深さが明らかになるため
子なる神イエスは無実の罪で非常に屈辱的で残酷な刑罰(十字架刑)を受けました。
言うなれば、
訳です。
ここに私たち人間のもつ罪深さと残酷さの極みが表れていると言えると思います。
時には、もっともらしい言い訳をつけて、やらない自分を正当化するかもしれません。
またある時には、自分が出来ていない「正しいこと」をしている人に対して「偽善者だ」「格好つけたいだけだ」と陰口をたたくかもしれません。
このように、
と言うことができるのではないでしょうか。
この意味において、
と言えるかもしれません。
私たちを罪の罰(死)から救うため
私たちの罪深さが悪いことを何もしていない神の子イエスを十字架につけた。
でも、それは神の計画であったと聖書は語ります(使徒の働き2章22-23節)。
その神の計画とは何かというと
そして、人類を罪の結果(死)から救うために
のです。
ただし、ここで注意事項が一つ。
イエスが「全ての人の罪を清算した」とはいえ、その罪が清算されたかどうかを認める(信じる)のは個々人の判断・選択にゆだねられています。
キリスト教でよく「信じる者は救われる」と言うのは、
ということを意味しています(ヨハネの福音書3章16-17節)。信じても信じなくても全ての人が救われるという訳ではありません。
まとめ
十字架刑(磔刑、たっけい)は非常に屈辱的で残酷な処罰でした。
そんなにも屈辱的で残酷な十字架刑になぜ神の子イエスが無実の罪で処せられたのか?
その理由・意味としては、(少なくとも)以下の4つが考えられます。
- 私たちの苦しみに寄り添うため
- 私たちの倣うべき模範を示すため
- 私たちの罪深さが明らかになるため
- 私たちを罪の罰(死)から救うため
しかも、イエスが十字架に架かったのは私たちがイエス・神のことを知る遥か昔のこと。言うなれば、
と聖書は語るのです。
そこに表れているのは、私たちがたとえ神・イエスのことを知らずに拒否したり、毛嫌いしたり、無視したり、敵対したりしているとしても変わらずに愛し続ける無条件の神の愛です(参照:ローマ人への手紙5章6-8節)。
参考文献および注釈
- Strobel, Lee. The Case for Christ: A Journalist’s Personal Investigation of the Evidence for Jesus. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1998.Lee Strobel, Zondervan; Updated, Expanded Edition(2016/9/6)
- 十字架刑がどれほど屈辱的で残酷な処罰であったかについて、興味のある方は下記の記事をご覧ください。「イエス・キリストはなぜ死んだのか?①―死刑(十字架刑)の方法とその死因―」「イエス・キリストの十字架刑(磔刑)はどんな処刑方法?どれほどの痛み・苦しみ?」「死因は良く分からないって本当?イエス・キリストの十字架刑(磔刑)の真相」
- 今回の内容は、私が教会で話した以下の二つの説教の内容が基になっています。「『十字架刑の真実』:2019年1月27日(日)礼拝説教要旨」「『苦しむ恵み』:2018年3月18日(日)礼拝説教要旨」
- 詳細は下記を参照。Lee Strobel, The Case for Christ: A Journalist’s Personal Investigation of the Evidence for Jesus (Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1998), 265–266.