礼拝説教の要旨です。
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- 日時:2018年1月28日(日)
- 場所:MACF(Mission Aid Christian Fellowship)日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「愛し抜かれる王なるイエス」
- 聖書個所:マルコによる福音書11章1-11節
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
10 我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)84頁1
導入
聖書のどこからメッセージを語るかを考えたとき、やはり皆さんにイエス様のことをより良く知ってもらいたい、イエス様に触れてもらいたいという思いから、聖書の中でもイエス様の生涯について書かれている福音書、特にマルコによる福音書を選びました。その中でも最も重要なイエス様の十字架と復活について、エルサレム入城の場面(11章1節)から順を追ってしばらくみていきます。そのことを通して、イエス様がどういうお方であるか、また私たちのために何をなさってくださったのかを一緒に学びたいと思います。
万事に働き万事を成されるイエス
不思議なことに、これまでずっと徒歩で移動してきたイエス様がエルサレム近くのベタニア(エルサレムの南東約3キロにある町)にさしかかったとき、その歩みを止められ、弟子たちに「向こうの村に行って、まだ誰も乗ったことのない子ろばをほどいて連れて来なさい」(1-2節)と命じます。「なぜ今更?このまま歩いていきましょうよ、イエス様」と言いたくなるタイミングです。そのタイミングも不思議ですが、その内容はもっと不思議です。下手をしたら窃盗罪で訴えられるかもしれないような内容です。しかし、イエス様の言い付けに従って出かけていった弟子たちが目撃したのは、イエス様がおっしゃった通りの出来事でした(4-6節)。
この不思議な出来事から神様・イエス様について少なくとも二つのことが分かります。一つ目は神様・イエス様のおっしゃった言葉は必ず実現するということ。二つ目は一つ目とも重なりますが、神様・イエス様は全ての事に働かれて、御自分の計画を実行するお方であるということ。神様・イエス様は私たちの知らない所で全ての事に働かれて、時には私たちにとっては非常に辛く、悲しく、痛々しいとしか思えないような出来事すらも用いられながら、万事が益となるように御自分の計画を成していかれるお方です(比較:ローマ8:28)。
愛し抜かれる王なるイエス
それにしても、なぜイエス様はエルサレムを目の前にして、わざわざ子ろばに乗ろうとされたのでしょうか。弟子たちはこのとき、そのイエス様の意図が分からなかったようです(参考:ヨハネ12:16)。しかし、イエス様は預言(ゼカリヤ書9:9)の成就のために、またその預言の成就によって、自分こそが旧約聖書が預言していたイスラエルの王であり救い主であることを示すために、わざわざエルサレムまであと徒歩で1時間ほどのところまできて歩くのを止め、子ろばに乗って入城されました(参照:マタイ21:4-5)。
群衆も同じくイエス様の意図を理解してはいませんでした。当時のユダヤ人たちは武力によって自分たちをローマの圧政から解放し、新しい国を打ち建ててくれる王を待ち望んでいました。対してイエス様は、王は王でも柔和な方で、軍馬ではなく子ろばに乗って、人々に仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の罪の身代金としてご自分の命を献げるためにエルサレムに入られたのです(参照:マルコ10:45)。ある意味、このときのイエス様は非常に孤独な存在だったと言えるかもしれません。確かに、イエス様の周りには沢山の人々がいて、イエス様と共にエルサレムに入っていきました。しかし、誰一人として、イエス様の真意を、その本当の目的を知る者はいなかったのです。父なる神様を除いては…。人として生まれ、人として生活をしながらも、周りの人々からは全く理解してもらえない孤独な王、イエス様。にもかかわらず、イエス様は、このような孤独な状況においてもなお、無知で身勝手で独りよがりな人々を愛し抜かれ、御自分の命を献げられたのです。
結論
もしかしたら、皆さんの中で現在、非常な孤独を感じている方がいらっしゃるかもしれません。学校や職場、家庭において誰一人として、自分の今の状況や本当の気持ちを理解してくれない。自分は独りぼっちだと思っている方。あなたは独りではありません。イエス様はあなたのその心の痛み、辛さ、悲しさを誰よりもご存知です。なぜなら、イエス様御自身が、そのような孤独を経験されたお方だからです。イエス様はいつもあなたと共にいてくださり、あなたを励まし、慰めてくださるお方です。
またイエス様は、私たちがイエス様・神様に対して何かをしたから愛してくださるお方ではありません。私たちがイエス様・神様のことを一生懸命勉強して、正しく理解したから愛してくださるのではありません。私たちが一生懸命奉仕をしたから、たくさん祈ったから、毎週礼拝に出席したから、学校の試験で良い点数を取ったから、仕事で良い成績を挙げたから、家庭で献身的に尽くしたから、愛してくださるのではありません。これらのことはもちろん大事なこと。ですが、それらを行ったから神様・イエス様が私たちを愛してくださる訳ではないのです。今日の箇所では誰一人して、イエス様のことを正しく理解してはいませんでした。にもかかわらず、イエス様は彼らを愛し抜かれ、多くの人の罪の身代金として、ご自分の命を献げられたのです。なぜでしょうか。それは、イエス様は私たちの行いによらず無条件で、私たちの存在そのものを愛しておられるからです。そのようなイエス様の愛と励ましと慰めを一身に受けて、私たちの周りの人たちをイエス様と同じように愛し、励まし、慰めることができますように。
参考文献および注釈
- Edwards, James R. The Gospel according to Mark. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002.
- Garland, David E. Mark. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 1996.