2018年11月23日(金・祝)に開かれた千葉県在住帰国者クリスチャン向けの集まり「りっちーば」でのメッセージ要旨です。
- 日時:2018年11月23日(金・祝)
- 場所:八千代市内での集会「りっちーば」
- 説教タイトル・テーマ:「捜し出す神」
- 聖書個所:ルカの福音書15章1-7節
1さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、6家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉399頁1
導入
今日の聖書箇所では、パリサイ人たちと律法学者たちが、取税人たちや罪人たちと食事をしているイエス様に文句を言っています(2節)。
当時のユダヤ文化において、食事を共にするというのは「お互いのことを受け入れる」ことを意味しました。そして、パリサイ人や律法学者たちは律法を正しく守って罪を犯さないことを非常に重んじていました。
ですから、パリサイ人や律法学者たちにとって、彼らと同じように律法を守っていない「罪人たち」は到底受け入れられない存在、つまりは一緒に食事をするなんて全く考えられない人たちな訳です。
が、しかし、イエス様はそんな「罪人たち」を受け入れ、一緒に食事をしている…。彼らにしてみれば非常に不可解なことであり、絶対にあり得ないこと、あってはならないことでした。
罪人の悔い改めを喜ぶ神
そんなパリサイ人や律法学者たちにイエス様が語られたたとえ話が4節以降に三つ記されています。それらは今日読んだ100匹の羊のたとえ、10枚の銀貨の話(9-10節)、そして有名な「放蕩息子」のたとえ(11-32節)の三つです。
これらのたとえ話を通してイエス様が伝えようとしていることは、
しかし、今日は特に神様が自分の元から離れてしまった人を自ら捜し出してくださるお方だということに注目したいと思います。
罪人を捜し出す神
今日の箇所の4節に、いなくなった一匹の羊を見つけるまで捜し歩く羊飼いの姿が記されています。
お方です。
私自身、アメリカに留学しているときにクリスチャンになりました。それまでは科学至上主義で生活していましたので、自分がクリスチャンになるとは夢にも思っていませんでした。
しかし、それまで自分が持っていたプライドや自信が完全に壊され、何を信じてよいかも分からなくなり、誰も信じることもできなくなった状況において、私の切なる叫びと願いを聞いてくださったのが神様でした。
そのときの私は神様がいるかどうかも分からなくなっていて、「もし神様がいるのなら、その姿を見せてください」という、ある意味、神様を試すような祈りをしていました。
しかし
神様御自身が、はぐれてしまっていた一匹の羊の鳴き声を頼りにその羊を捜し出し、喜んで肩に担いで家に連れ帰ってくださった瞬間です。
また、状況は少し異なりますが、日本に帰国した後、行き場を失いさまよっていた私を神様は捜し出してくださいました。そのときは、ある理由があって、しばらく通っていた教会を離れることとなりました。
もう絶対にどこの教会に行くこともないだろうし、仮に行くことになったとしても奉仕なんて絶対しない。礼拝に出席して誰とも話さずに直ぐに帰るだけの教会生活にしようと思っていました。まさに100匹の羊の群れから離れてただ一匹さ迷い歩いていた羊と同じです。
しかし、そんな状態にあった私に対して、神様は良き理解者を送ってくださいました。共に祈ってくれる人、慰めてくれる人、話を聞いてくれる人を送ってくださいました。
そして、私は徐々にキリスト者の群れの中に戻されていきました。結果、今ではこうして皆さんの前で、自分を捜し出してくださった神様のことを語るほどになっています。
結論
神様は御自分の元から離れ出て、好き勝手な生き方をしていた「罪人たち」を愛し、受け入れてくださるお方。はぐれてしまった人たちが悔い改めて御自分のもとに帰って来ることを何よりも喜んでくださるお方です。そのためにはどんな苦労も厭わず、さ迷い歩いている人たちを捜し出してくださるお方でもあります。
さらに、群れから離れ出た一匹の羊を捜し出してくださる神様・イエス様は「良い牧者」でもあります。そして、良い牧者は羊たちのために命を捨てると聖書は語ります(参考:ヨハネ10:11)。
いつも面倒をかけてばかりで、神様の役に立つことは何もできない羊のような存在だとしても、神様は私たちの存在そのものを受け入れ、その独り子の命に代えても惜しくないほどに愛してくださっています。私たちが何かしたから、何かできるから愛してくださるのではありません。
私たちがまだ神様のことを知らない時から、神様を無視しながら生きていた時から、神様と敵対していた時から、私たちをずっと変わらずに愛してくださっているのです。私たちの存在そのものを高価で尊いと思ってくださっているのです。
皆さんの中で、日本に帰国後、辛い思いや悲しい出来事を経験した方・している方がいらっしゃるかもしれません。教会での人間関係が原因で教会に留まることができず、一人孤独に信仰生活を送ることになった、もしくは今も送らざるを得ない状況にある方がいるかもしれません。また、周りにクリスチャンの親戚や友達がいなくて、一人寂しい思いを経験している方がいらっしゃるかもしれません。
そんな方は今一度、一匹の羊のように群れからはぐれ出てしまっていたあなたを神様が捜し出し、連れ戻してくださったときのことを思い出してください。
事実、どんな状態であれ、今この集まりに来ている方は間違いなく、神様があなたの心の叫びを聞かれ、あなたを捜し出してここに連れてきてくださったのです。
そんな神様の愛と恵みを十分に受けたあなたに神様が願っていらっしゃることが一つあります。それは、
ということ。神様はあなたと一緒に救いの御業を広げ、共にその喜びを分かち合いたいと願っています。
あなたの助けを必要としている人がいます。あなたからの連絡を待っている人、声がけを必要としている人、祈りを必要としている人がいます。
大きなことをする必要はありません。救うのはあくまでも神様です。私たちはただの器に過ぎませんが、神様から溢れんばかりの愛と恵みを受けた器です。神様から受けた愛と恵みを、感謝と喜びをもって、周りの人々と分かち合うことができますように。
参考文献および注釈
- Bock, Darrell L. Luke. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011..