礼拝説教の要旨です。
- 日時:2019年3月3日(日)
- 場所:埼玉県川口市内での日曜礼拝
- 説教タイトル・テーマ:「安心しなさい」
- 聖書個所:マルコによる福音書6章45-52節
45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)73頁1
導入
今日の箇所は「それからすぐ」という言葉で始まっています。「何からすぐ」なのかというと、イエス様が「5つのパンと二匹の魚」を増やし、男だけでも5000人の群衆の空腹を満たされてから「すぐ」です。
文字通りの「奇跡」を目の当たりにして、群衆は「イエス様こそ、私たちをローマの支配から解放してくれるメシア(救い主)だ」と思っていたに違いありません(比較:ヨハネによる福音書6章14-15節)。
弟子たちは周りの人々から「あなたはあのイエス様のお弟子さんですか」と呼ばれることに鼻高々で、しばらくその場を離れたくなかったかもしれません。
イエス様はそんな弟子たちを「強いて」舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせるところから今日の話が始まります(マルコによる福音書6章45節)。
一人で祈るイエス
イエス様が弟子たちを先に行かせ、群衆を解散させ、一人陸に残ってしていたことは何かというと祈ることでした。神の御子イエス様なら祈る必要はなかったのではないかと思ってしまいますが、神の御子だからこそ父なる神様との祈り(対話)を大切にされていたのだとも思います。
特に、今日の個所から分かることは、
ということだと思います。
どんなに忙しい状況であってもイエス様は神様との時間を大切にされました。「5000人の給食」の奇跡によって人々から政治的なメシアとして担ぎ上げられそうになった時も今一度、
のだと思います。
仕事や学校、家庭のことで忙しくなると、神様との対話である祈りの時間がどんどんと減ってくることはないでしょうか。そうなると、神様が自分に望んでいることではなく、自分がしたいこと・望むことだけを考えがちになってしまいます。そして自分でも気づかないうちに神様に頼るのを忘れ、人の知恵や経験に頼りがちになってきます。
だと思います。
いつも見守るイエス
イエス様が一人山で祈っておられるとき、弟子たちは逆風に悩まされ、なかなか目的地にたどり着くことができなかったようです(48節)。このときイエス様は、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのご覧になったと記されています(48節)。
ここだけ読むと、イエス様の目のすぐ届くところに弟子たちがいたように思えますが、この湖(ガリラヤ湖)は南北と東西の長さがそれぞれ約21キロと約13キロ、一周は約53キロで、車で一周すると1-2時間はかかる大きさです。
ですから、このときイエス様と弟子たちは少なくとも数キロは離れていたはずです。肉眼で何が起きているかを確認できるような距離ではありません。しかし、
のです。
ここで覚えたいことは、弟子たちはイエス様に強いられて舟に乗って漕ぎ出したということ。
のです。
私たちの生活においても、様々な出来事に遭遇します。たとえ神様・イエス様を信じて神様・イエス様の御心に従って行動しているとしても、嬉しいことばかり起きる訳ではありません。
時には心悩ませ、もがき苦しむような事態に陥ることがあります。一向に物事が前に進んでいないと感じることもあるでしょう。そんなとき、神様を非常に遠くに感じてしまうかもしれません。しかし、
ただし、
と言えます。
必ず救うイエス
弟子たちは夕方から夜明けごろまで湖の真ん中で立ち往生していました。仮に午後7時ごろから午前5時ごろだとすると10時間もの長さ。彼らが精も根も尽き果てていたであろうとき、イエス様は確かに彼らのもとに来てくださったのです。
しかし彼らは、それがイエス様だと気付くどころかイエス様を「幽霊だと思い、大声で叫ん」でしまいます(49節)。
ここで「弟子たちはなんて不信仰なんだ」と責めるのは簡単です。しかし、実際に彼らの立場に身を置いてみれば、それほど簡単に彼らを責められないと思います。
私たちもまた彼らと同じく、自分が絶望のどん底にいるとき、生きるのに疲れ切ってしまっているとき、神様・イエス様が不思議な方法で私たちを助け出そうとしてくださっていることに気付かないことが多いのではないでしょうか。
私たちもまた彼らと同じく、辛いことや大変なことが過ぎ去ってから昔の事を振り返るときになって初めて「ああ、確かに神様・イエス様は自分のことを見捨てることなく、いつも見守っていてくださり、必要なときに助けを与えて下さった」と思うのではないでしょうか。
事実、このときイエス様は、弟子たちの不信仰を嘆いたり責めたりはしませんでした。むしろ、おびえている彼らを見て「すぐ」に優しく語りかけられます。
と(50節)。
結論
神様はあなたの現状を全てご存じで、いつも共にいてあなたを見守ってくださっています。
あなたが忙しさの中で心悩ませ、もがき苦しんでいるとき、生きるのに疲れ切ってしまっているときにこそ、神様はあなたと祈りを通して語り合いたいと願っていらっしゃいます。
中には、「祈ってはいるけど、神様がなかなか助けてくれないんだよ」と思っていらっしゃる方がいるかもしれません。たとえそうだとしても、それは神様があなたを見捨てたり、あなたのことを忘れてしまっている訳ではありません。
神様は神様のタイミングと方法で必ずあなたを助けてくださるお方です。
もしかしたら、
のかもしれません。
参考文献および注釈
- Edwards, James R. The Gospel according to Mark. The Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Apollos, 2002.
- Garland, David E. Mark. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Pub. House, 1996.