礼拝説教の要旨です。
- 日時:2019年10月13日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「恵み、それから愛」
- 聖書個所:使徒言行録15章1-35節
導入
今日の個所は「エルサレム会議」とも呼ばれる個所で、使徒言行録においては最も大事な個所の一つとなっています。この会議によって
が明らかにされます。そして、この会議以降、使徒言行録の話はもっぱらユダヤ人ではなく異邦人がイエス様を信じていく話が展開されていきます。
今日はこの「エルサレム会議」の出来事を通して、
を一緒に考えたいと思います。
恵みによって救われる
でも、そもそもなぜ「エルサレム会議」が開かれたのでしょうか。それはある人々(誰かは不明)が異邦人たちにも割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせようとしたからです(使徒15章1、5節)。つまり、ここで問題となっているのは
または
ということ。この問題を解決すべく開かれたのが「エルサレム会議」でした(6節)。
その会議の席でペトロは、以前に彼自身が経験した出来事(使徒言行録10章)に触れながら、
と語ります(15章11節)。
次にパウロとバルナバは、異邦人たちも神の民として受け入れられていることの更なる証拠を提示します。その証拠とは、異邦人の間で彼らを通して神がなさった様々な奇跡です(12節)。
そして会議の最後のまとめ役として登場するのがイエス様の弟ヤコブ (参照:12章17節;ガラテヤの信徒への手紙2章9節)。彼は旧約聖書の預言の成就をもって、シメオン(ペトロの別名)の主張を更に補足します(使徒言行録15章14-18節)。
こうして、ユダヤ人であれ異邦人であれ、
また
が明らかにされます。そして、ヤコブは19節で神に立ち帰った異邦人、つまりはイエス様を信じて既に神の民とされた異邦人たちに割礼や律法を強要して彼らを悩ましてはいけないと結論付けます。
神を愛する
続く20節でヤコブは少し不思議なことを言っています。
ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。【使徒言行録15章20節】
出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)243頁1
この直前の19節において、ヤコブは割礼や律法を守ることを強要して「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」と言ったばかりです。
にもかかわらず、そう言った直後にある種の「律法」を守るように勧めている訳ですから、一見すると自己矛盾しているように思えます。
しかも、なぜ特別に「偶像に供えて汚れた肉を避ける」「みだらな行いを避ける」「絞め殺した動物の肉を避ける」「血を避ける」という4つの行為を勧めたのでしょうか。
その理由としては、それら4つの行為が当時のアンティオキアやシリア州、キリキア州に住む人々が信じていた他の神々に対する宗教行為と密接に関係していたからと考えることができます。
要するに、ここでヤコブは、聖書の神に立ち帰った異邦人たちに対して
と言っていると理解できます。
この「他の神々を拝んではならない」というのは、律法の中で最も重要な掟だとイエス様がおっしゃった全身全霊で神様を愛することの中に含まれています(マタイ22:37)。
従ってヤコブは、
と考えることができます。
人を愛する
また、見方を変えると、20節でヤコブは
と理解することもできます。
この「ユダヤ人クリスチャンたちに対する配慮・気遣い」は今日の個所の直ぐ後16章3節にも記されています。そこでパウロはテモテに割礼を授けています。「エルサレム会議」において異邦人は割礼をする必要がないという決定がくだされたにもかかわらず、です。
その理由はその地方に住んでいる割礼を重んじるユダヤ人たちとの下手な(無益な)争いごとをさけるため、即ち、福音を伝える妨げとなり得るものを少しでも減らすためでした。
言うなれば、
訳です(比較;Ⅰコリント9:19-20, 23)。
誰でも自分が良い・正しいと思っていることを頭ごなしに否定されると面白くありません。否定された途端に心を閉ざしてしまうこともあるでしょう。
とはいえ、相手の考えや行いを何でもかんでも受け入れて、こちらも同じようにしているといつまで経っても福音を伝えることはできません。時には、一線を引いて、相手との違いを明らかにするときが必要です。
でも、そのようなときであっても、
ことが大切だと思います。
このような相手に対する気配り・配慮の中に、律法の中で最も重要なもう一つの掟である「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書22章39節)の一つのかたちが表れているとも思います。
結論
私たち人類は神様と絶縁状態にありました。しかし、その絶縁状態を回復すべく、神様自らが人の姿をとって、救い主としてこの世に来られ、私たちが負うべき裁きをその身に受けてくださいました。
私たちの行いや努力に関係なく、一方的な神様の恵みのおかげで、神のひとり子イエス様が私たちのために十字架にかかり、死んだ後に復活してくださったのです。
その恵みの故に、
のです。
しかし、神様に立ち帰ってイエス様を信じ、恵みによって神の民とされた私たちは、その後の人生を自分たちの好き勝手に生きて良い訳ではありません。
神様に立ち帰った者らしい生き方、即ち、神様が望まれていることを行う生き方が求められています。それはつまり、神様と人を愛する生き方です。
ここでとても大事なことは、
という順番です。まず恵み、それから愛。この順番を間違えると、恵み・救いを受けるために愛するという律法主義に陥ってしまいます。
または
と思われる方がいらっしゃるならば、
神様はあなたが何か特別な能力をもっているから、一生懸命頑張ったから、誰もが認める素晴らしい結果を残したから、あなたを受け入れて・認めてくださるのではありません。むしろ、
たとえどんなことがあったとしても、神様はあなたを愛し続けてくださっています。
です。
この神様の恵みに対して心からの感謝と祈りと賛美を捧げ、神様が愛してくださっているように私たちもまた周りの人々を愛することができますように。
参考文献および注釈
- Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
- Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.