「共におられる神」:2019年12月8日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です。

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導入

イエス様の誕生を待ち望む待降節(アドベント)の第二週目が始まりました。

今日は、当時の文化的背景を考えながら、イエス様の誕生に際してヨセフとマリアが直面したであろう問題、葛藤、悩みを一緒に考えたいと思います。

そして、その問題、葛藤、悩みの中にあって、なぜ彼らは神様の言葉に従うことができたのかを考えます。

正しい人ヨセフ

当時の慣習では男性は18-20歳、女性は12-14歳頃に結婚していたようです(比較:18節)。

また、ユダヤの文化では婚約してから約一年後に結婚する習慣があったと言われています。婚約期間中は、婚約者同士が同じ屋根の下に住むことはなく婚約前と同じ生活を続けましたが、法的には結婚しているのと変わらない扱いを受けました。

このため、例えば、

婚約期間中の女性が婚約者以外の男性と関係をもった場合、二人とも死罪となりました(申命記22章23-24節;比較:申命記22章22節)。

当時のユダヤ文化は日本と同じく体面や名誉・面子といったものを重んじる文化でした。

結婚前に処女を失った女性はその本人だけでなく、その女性の家族特に父親に大変な不名誉をもたらしました(比較:申命記22章20-21節)。と同時に、そのような不貞な女性を嫁として迎え入れることもまた嫁ぎ先の家に恥をもたらすものとなります。

つまり、

婚約中の女性が婚約者以外の男性と関係をもって身ごもってしまうというのは、本人同士だけの問題ではなく、彼らの一族全体を巻き込む大問題

となりました。

そして、他の男性と関係を持ってしまった女性は、仮に死罪は免れたとしても婚約解消は当たり前、その後の人生における世間の風当たりの強さは想像を絶するものだったはずです。

このような文化的背景を考えると、婚約者のマリアが身ごもっていると聞いた時のヨセフのショックは相当なものだったと思います(マタイによる福音書1章18節)。

ヨセフからしてみれば、

これ以上ない裏切り行為。

ここでヨセフはモーセの律法(申命記22章23-24節)を持ち出してマリアを裁判にかけ、自分の潔白を公けに示すこともできました。しかし、

ヨセフは出来るだけマリアの人生に禍根を残さないよう内密に離縁しようとした

と聖書は記します(マタイによる福音書1章19節)。正しい人ヨセフの優しさ・思いやりが表れています。

約束(預言)を必ず果たす神

マリアとひそかに縁を切ろうとするヨセフに対して、天使が彼の夢の中に現れ、神様からの言葉を伝えます。

そしてヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことを告げられ、恐れずに彼女を妻として迎え入れ、生まれてくる子をイエス(「主は救う」という意味)と名付けるように命じられます(20-21節)。

その理由は生まれてくる子が人々を罪から救うから(21節)。生まれてくる子が主(神)に等しい存在であることがほのめかされています。

処女が聖霊によって身ごもり、
生まれてくる子は主(神)に等しい存在で、
神の民を罪から救う。

どれもこれも私たち人間の常識からすると信じられない・有り得ない話です。

が、しかし聖書は、それら有り得ないことが起きることが何百年も前から預言者によって約束されていたと語ります(22-23節)。

マタイが引用している23節の預言はイザヤ書7章14節の言葉ですが、正直、これだけでは産まれてくる男の子がどんな人物なのかはっきりとは分かりません。

けれども、イザヤ書の7章以降、8章、9章、11章と読み進めるにつれて、その男の子は神に等しい特別な存在で、この世の救い主(メシア)となる人物であることが分かります(参照:イザヤ書8章10節;9章5-6節;11章1-10節)。

従って、

おとめ(処女)が身ごもって男の子を産むとき、その男の子は神に等しい存在で、この世の救い主(メシア)に他ならない

とイザヤは預言していることになります。そして、

神様はこの到底信じがたい約束(預言)を、結婚前のおとめ(処女)マリアが聖霊によって身ごもるという有り得ない出来事によって果たされた

訳です。

共におられる神

マタイによる福音書1章20-21節の天使のお告げを夢に見た後、天使が命じた通りにヨセフはマリアを妻として迎え入れ、その子をイエスと名付けました(24-25節)。

天使の命じた通りに行ったというと聞こえは良いですが、ヨセフとマリアの場合、天使の命じた通りに結婚することは大変な覚悟を必要とするものでした。

「処女が聖霊によってみごもる」というのは、現代はもちろん、当時のユダヤ社会においても誰も聞いた事がない話です。旧約聖書ですら処女が聖霊によってみごもるなどという話は記していません。

ですから、誰一人として、ヨセフやマリアの話をまともに信じてはくれなかったに違いありません。そして、二人は周りの人々から絶えず「不貞・不道徳な家族」と陰口をたたかれながら生活しなければならなかったはずです。

自分の言うことを誰一人としてまともに聞いてくれない。
自分がやってもいないことをやったと決めつけられる。
濡れ衣をかぶせられたまま周りの人たちの陰口に耐えながら生きていく。

皆さんはそんな生活に耐えられるでしょうか。

全人類を救う神の御子を授けられた家族と聞くと、想像もできないほどの祝福に満ちた幸福な家庭を想像してしまいがちです。

しかしながら、

実際のヨセフとマリアの生活は、私たちが思い描く「祝福」に満ちたものとは程遠いものであった

ように思えます。

が、しかし、

神様は確かに絶対に揺らぐことのない祝福・恵みをヨセフとマリアの二人にお与えになっていました。

それは

神は我々と共におられる【マタイによる福音書1章23節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)2頁1

という祝福・恵みです(比較:ルカによる福音書2章28節)。

ヨセフとマリアは世間一般でいう「幸せ」や「豊かさ」を手に入れることはなかったかもしれません。

しかし、たとえどんなに貧しくても、周りの人々から理解されなかったとしても、

全知全能の神様は自分たちのことを理解してくれ、自分たちといつも共にいてくださっている。

この祝福と恵みの故にヨセフとマリアは神様の言葉に忠実に従い続けることができたのではないかと思います。

結論

神様は御自分の約束(預言)を必ず果たされるお方です。

たとえその約束(預言)が人間の常識からすると到底信じられない・有り得ないようなものであったとしてもです。

そんな神様が私たちと共にいてくださると約束してくださっています(比較:マタイによる福音書28章20節)。

私たちの生活において、イエス様を信じて従っていたとしても、悲しいことや辛いことはたくさんあります。この世の救い主なる神の御子の家族もまた例外ではありませんでした。

「聖霊によって身ごもった」という出来事を誰にも信じてもらえず、「不貞・不道徳な家族」という不名誉なレッテルを貼られ、絶えず陰口をたたかれながら生活しなければならなかったと思います。

神様を信じて忠実に生きているのになんでこんな目に遭うのだろう…
神様は私たちを守って下さらないのだろうか…

そう思うことがあったかもしれません。でも、そんなとき、彼らのそばにいつもいらっしゃる子なる神イエス様を見て、「神は我々と共におられる(インマヌエル)」という言葉を実感したのではないでしょうか。

そして、どんなに辛い状況にあっても、彼らは前に進む力と勇気を得たのだと思います。

もちろん、今の世において、イエス様は肉体をもって生活をしている訳ではありません。しかし、

イエス様を信じて従おうとする人のうちには神の霊である聖霊が宿ってくださっている

と聖書は語ります(コリントの信徒への手紙第一6章19節)。

この待降節の季節、

全知全能の神様が果たしてくださった有り得ない約束を今一度、覚えたい

と思います。その約束とは、おとめ(処女)が身ごもって、この世を救う子なる神が生まれるという約束。この人間の常識からすると到底有り得ない約束を果たされたお方がおっしゃっています。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。【マタイによる福音書28章20節】

出典:共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(日本聖書協会、2010年)(新)60頁

参考文献および注釈

  • Keener, Craig S. The Gospel of Matthew: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids, Mich.; Cambridge: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009.
  • France, R. T. The Gospel of Matthew. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: William B. Eerdmans Pub., 2007.
  1. 特に記載がない限り、以降の聖書個所も同じく『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』から引用。
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