「元気を出しなさい」:2020年4月26日(日)礼拝説教要旨

礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。

全国に発令された緊急事態宣言を鑑み、Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)ではオンラインで日曜礼拝を行っています。
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導入

今日の聖書個所にはカイサリアという場所からイタリアのローマに向かって船出するパウロたち一行の様子が描かれています。

パウロがローマに行って神様・イエス様のことを宣べ伝えることは神様の御計画でもありました(参照:使徒23:11)。

にも関わらず、

パウロを乗せた船は難破し、食べ物や持ち物も全て失って陸地に打ち上げられてしまいます。
パウロたちは一体、これからどうなるんだろう。無事にローマにたどり着けるのだろうか?
神様は一体、何をしているんだ?
全知全能で愛なる神様がいるんだったら、なぜこのような出来事が起こることを許したんだろうか…

と思いたくなる場面です。が、しかし、

最終的には確かに神様の御計画は実現する

のです(使徒言行録28章30-31節)。

今日は、聖書の神様がどのようなお方で、不安や恐れの中にあって私たちに何を望まれているのかを探りたいと思います。

苦しみを共にする神

パウロはカイサリアと言う場所でローマ帝国の総督フェストゥスから裁判を受けていました。しかし、その審議の最中、パウロがローマ皇帝に上訴したため(使徒言行録25章1-12節)、パウロはローマまで輸送されることになりました(27章1節)。

パウロたちがクレタ島にある「良い港」と呼ばれる場所にたどり着いたとき、パウロは人々にこれ以上航海を続けることは危険ではないかと忠告しています(10節)。

このときのパウロの忠告はあくまでも当時の一般常識、また自身の度重なる宣教旅行で培った経験をもとにしたものだと思われます。

けれども、人々はパウロの忠告を受け入れず、クレタ島のフェニクスという場所を目指して船出します(11-12節)。が、しかし、彼らはその途中で嵐に遭遇し、漂流することとなります(13-17節)。

そして

彼らの助かる望みは消え去った

と聖書は記します(20節)。

この船内には乗員乗客を合わせて全部で276人が乗っていました(37節)。恐らく、その中でパウロのようなクリスチャンは圧倒的少数派です。

ということは、クリスチャンが少なかったから、その船は嵐に巻き込まれたのだろうか?

と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかしながら、ある地域や特定の場所に災害・災難が起こるかどうかは、必ずしもそこにいるクリスチャンの数で決まる訳ではありません。

確かに、その地域や場所に住んでいる人々の多くが神様を信じていないがために、ある種の「裁き」として神様が災いを引き起こすことはあります(例:ノアの洪水、ソドムとゴモラの滅びなど)。

しかし、パウロ自身が記しているように、彼はその宣教旅行中に数多くの困難や災難に遭っています(コリントの信徒への手紙第二11章23-27節)。

パウロが単独で行動している時や他のクリスチャンたちとだけで行動している時であっても困難や災難を経験している訳です。

たとえイエス様・神様がイエス様を信じる者たちといつも共にいてくださるとしても、苦しみ、悲しみ、痛みを経験する

ことがあります。でもそれは逆に、

神様・イエス様もまた私たちの苦しみ、悲しみ、痛みを共に経験してくださっている

と言うことができます。

計画を成し遂げる神

パウロが乗っていた船は嵐にあって漂流し、助かる望みもなくなってしまいました。そんな状況でパウロは「元気を出しなさい」と人々に勧めます(使徒言行録27章22節)。

その理由は、船を失うことにはなっても、パウロの神様が彼と船内にいる皆の身の安全を保証してくださるから(22-26節)。

それからしばらくして、パウロが告げたように、船は陸地に近づきます。すると、船員たちは、船から逃げ出そうとします。それを見たパウロは百人隊長と兵士たちに彼らを船に留めておくように忠告します(31節)。

このパウロの言葉は別に神様(天使)からのお告げに従った言葉と考える必要はないと思います。

というのも、あくまでも一般常識として、船員たちが船からいなくなると残された(兵士を含む)一般乗客が無事に航海を続けるのは不可能だからです。

このとき、兵士たちは船員たちが逃げないように綱を断ち切り、小舟を流してしまいます(32節)。そのため、後で人々が上陸しようとするときには船を沖合に停泊させつつ小舟を使って上陸することができなくなってしまいました。

結果、彼らの船は慣れない土地の浅瀬に乗り上げて大破してしまいます(41節)。

パウロが22節で告げたように、彼らは船を失うことになりましたが、皆の命は救われました。

クリスチャン、ノンクリスチャン関係なく、全ての人々がそれぞれの(一般常識や経験を含む)思いや考えに基づいて決断する行動を用いて、神様は御自分が前もって定めていた計画を成し遂げられた

のです。

人々を元気づける神

使徒言行録27章33-34節でパウロは人々に食事をするように勧めています。

その理由は、「神様(天使)が食べるように言っているから」ではなく、ただ「生き延びるために必要だから」(34節)。

生き延びるために食事をする。これは誰でも知っている一般常識、当たり前のことです。

しかし、

この「当たり前」のことすら、不安や恐れの中にあるときにはなかなかすることができなくなってしまうのが私たち弱い人間

の姿だと思います。

そんな人たちを励ますため、パウロはまず自らが率先して彼らの前でパンを取り、神様に感謝を献げてから食べ始めました(35節)。

そうして、人々はようやく元気を取り戻し、食事をすることができました。

今日の個所でパウロが神様に祈ったということは書かれていませんが、まず間違いなく彼は困難な状況にあって神様に祈っていたと思います。

祈りの中で恐らく彼は「船内の人々のために何ができるか」といったことも神様に尋ねていたはずです。だからこそ、神様はパウロに船内の全ての人を任せたことを伝えたのだと思います(24節)。

不安と恐れの中にあったパウロは、

祈りを通して神様から元気と平安を与えられ、その時々の状況に冷静に対処することができた

のだと思います。そして、

そのようなパウロの態度・生き方を見た人々もまた元気づけられた

のです。

結論

今、私たちを取り巻く環境は不安と恐れに満ちています。

新型コロナウイルスに感染する人の数は増えるばかり、学校や企業活動も制限され、職を失った人や愛する家族・友人を失った人もたくさんいらっしゃいます。

そのような不安と恐怖の中にあって、冷静さを失い、一種のパニック状態に陥り、いつもなら到底しないような行動をとってしまうことがあるかもしれません。

「当たり前」と思われることができなくなってしまうことがあるかもしれません。

「非常時だから」とか「今やらないと自分の身が危ないから」という理由で、一般常識から外れたこと、人の道を外れたことさえしようとしてしまうことがあるかもしれません。

そんなときは

一度立ち止まって、神様に祈り求める時間を取る

ことが大事だと思います。そして、

まずは私たち自身が神様から元気と平安を受け取る

必要があると思います。では、その

神様からの元気と平安はどのようにして受け取ればよいのでしょうか?

祈っていれば自然と湧き上がってくるかもしれませんし、祈っていても全く何も感じないこともあるかもしれません。

祈っていても何も感じないとすれば、祈りの中で、神様がどのようなお方を思い起こすと良いかもしれません。

神様というお方は、例えば今日の個所でみたように、私たちと苦しみを共にしてくださるお方、御計画を必ず成し遂げるお方、人々を元気づけてくださるお方

です。

イエス様を信じ従っているとしても、苦しみや悲しみ、痛みを経験する

ことはあります。

でも、

たとえそんな苦しみや悲しみ、痛みの中にあったとしても、

それは神様があなたを見捨てたからではありません。

神様があなたから離れてしまったからでもありません。

また、神様があなたの人生に何もしていない訳でもありません。

たとえ生きる希望や助かる望みさえ失ってしまうような状況にあったとしても、神様は確かにあなたと共にいらっしゃって、あなたと一緒にその苦しみを経験されておられる

のです。そして、

あなたの人生に神様が用意してくださっている御計画をあなたと共に成し遂げようとされておられます。

神様御自身が今、あなたに語り掛けてくださっています。

元気を出しなさい。私はいつもあなたと共にいる。

参考文献および注釈

  • Peterson, David. The Acts of the Apostles. The Pillar New Testament Commentary. Nottingham, UK; Grand Rapids, Mich.: Apollos; Eerdmans, 2009.
  • Witherington, Ben. The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary. Grand Rapids; Cambridge: Eerdmans, 1998.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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