「心から神に従う」:2022年7月10日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

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導入

私たちの人生においては、予期しない事故やアクシデントのために様々な予定や計画を変更せざるを得ないことがあります。

そんなとき、皆さんならどうしますか?

今日の聖書個所では、エジプトを出て意気揚々と約束の地を目指していたイスラエル民族にある問題・アクシデントが生じます。

今日の聖書個所を通して、私たち自身が

人生の問題・アクシデントに遭遇した時にどうすればよいか?

について共に考えていきましょう。

神の満たし

エジプトで長い間、奴隷状態にあったイスラエル民族は神様の驚くべき御業のおかげでエジプトの地を逃れることができました。

自分たちに迫り来る脅威が全て取り除けられ、彼らは意気揚々と神様が与えてくださると約束してくださった土地を目指していました。

ところが、しばらく旅を続けていくうちにある問題に遭遇します。それは、

飲み水の不足

でした(出エジプト記15章22節)。

しばらくの間、荒れ野を歩き続け、ようやく見つけたと思った水も苦くて飲めない(23節)。そのとき彼らは、

飲み水が無いことでモーセに不満をぶつけます(24節)。

そこでモーセが神様に叫ぶと、神様は一本の木を示されます。

そして、モーセがその木を水に投げ込みとその水は甘くなりました(25節)。

神様の代弁者であるモーセに対して不満を漏らす民を裁くことなく、神様は奇跡的な方法を用いて彼らの必要を満たされました。

神の祝福

この奇跡的な出来事を通して、神様はモーセ(イスラエル民族)に伝えようとしていたことがありました。それは、

神様の声に聞き従って神様の目に適う正しいことを行い、その戒めや掟を全て守るならば、エジプト人に下したような病を下さない

ということ(出エジプト記15章26節)。

エジプト人たちに下した病とは、イスラエル人たちがエジプトを出発する前に神様がエジプト人たちにもたらした「10個の災い」だと考えられます。

神様によって祝福を受けるか、災い(病)を受けるかは神様の言葉に従うかどうかにかかっている

ということを神様は身をもってモーセ(イスラエル人)に経験させた訳です。

ここで非常に大事なこと、注意すべきことがあります。それは

「神に従うならば祝福、従わなければ災い」という表現が行き過ぎてしまって、祝福を得ること自体が目的とならないようにする

ことです。というのも、

自分が祝福を得るために神様に従うというのは、あくまでも自分の利益のために神様を利用しているに過ぎません。
その生き方の中心にあるのは自分自身であって神様ではありません。

そもそも、神様がイスラエル民族をエジプトから救い出されたのは、神様が彼らの苦しみ叫ぶ声を聞かれたから、また彼らの先祖アブラハムとの契約を思い起こされたからです(出エジプト記2章23-25節)。

神様が愛と憐れみに富み、約束を誠実に果たすお方だから、イスラエル民族はエジプトから救い出された

訳です。その神様の愛と恵みと憐れみを受けた彼らに対して神様はおっしゃるのです。

もし私に従うならば、あなたは更なる祝福を受けるだろう
私たちが神様に従うのは、祝福を得るためではなく、もう既に神様から頂いている祝福に対する感謝と畏敬の念を表すため

です。このように、

表面的ではなく心から神様に従うこと、それが、神様が私たちに望んでおられる生き方

です。そして、

そんな私たちの姿・態度をみて神様は更なる祝福を与えてくださる

のです。

神の試み

この意味で、出エジプト記15章25節で神様が「彼(モーセ)を試みて」とあるのは、モーセ(イスラエル民族)が神様の祝福(恵み)を受けるにふさわしいかを試すためではないと言えます。

テストに合格して神様から祝福を受けるのが最終目標ではないからです。

神様の試み・試練はあくまでも私たちが表面的ではなく心から神様に従う者であるかどうかを試すもの

裏を返せば、

神様の試み・試練は私たちの信仰の成長を助ける・促すためのもの

とも言えます。その試み・試練の結果、祝福を受けるかどうかは二次的なものに過ぎません(参考:出エジプト記20章20節)。

結論

神様は、私たちが神様に対する感謝と畏敬の念をもって、表面的ではなく心から神様に従うことを望んでおられます。

そのために、時として

神様は私たちの神様に対する信仰・信頼を試みる

ことがあります。この

神様の試み・試練は、第一義的に私たちの信仰の成長を助ける・促すためのもの

です。その試み・試練に合格しようが失敗しようが、その結果として私たちの信仰が成長することを神様は願っておられるのです。なぜなら、

私たちの神様に対する信仰が成長する(神様との関係が深まる)こと以上の祝福は他にない

からです。

試みや試練を通して私たちと神様との関係が深まり、神様に対する感謝と畏敬の念が新たにされることで、表面的ではなく心から神様に従うことができるようになっていきます。

なお、ここで重要になるのが、

もう既に神様から頂いている祝福に気付くことができるかどうか

です。

物事が自分の思い通りに進まない。

自分が予期していなかった問題・アクシデントが発生する。

そんなとき、私たちはついつい無いモノや出来なかったコトばかりに目を向けてしまいます。

でも、ひょっとしたら、そのような

思いがけない出来事やアクシデント、問題といったものは、無いモノや出来なかったコトではなく、もう既に神様から与えられているモノやコトに目を向けさせるために神様が与えておられる

のかもしれません。

と言われても、実際に問題や災難、苦難や困難の渦中にある時には、なかなか神様から既に与えられているモノやコトに目を向けることは難しいものです。

目の前の問題や災難、苦難・困難で精一杯になっているからです。

でも、それだからこそ、

少し立ち止まって、神様の恵み・祝福に思いを巡らせる

ことが大切ではないかとも思います。

私たちがあって当たり前と思っているモノやコトのほとんどは実は、神様の恵み・祝福によって与えられている

と言っても過言ではありません(例:衣食住や家族、知人、健康など)。

その中でも特に重要な神様からの恵み・祝福は、イエス様を信じる信仰によって与えられる「永遠の命」です。

自分の富や財産には限りがあります。

信頼する友人や知人、恩師もいつかは亡くなってしまいます。

健康も年齢を重ねるごとに次第に悪くなっていきます。

そしていつかは誰しも、この世での生涯を終える日を迎えます。

しかし、

たとえどのような状況になったとしても、

全てのモノ・コトが消え去ってしまったとしても、

あなたと神様との間の関係(永遠の命)が無くなることはありません。

そして、その

永遠に続くあなたと神様との関係を回復すべく、神様の独り子イエス様があなたの身代わりとして十字架に架かり、死んでよみがえってくださった

のです。

物事が自分の思い通りに進まないとき、

自分が予期していなかった問題・アクシデントが発生したとき、

これからどうして良いのか分からずに途方に暮れてしまうとき、

イエス様の十字架を見上げてください。

そこに表されている、

決して変わることのない神様の愛と恵みに目を向けてください。

たとえあなたがこの世で持てる全てを失ってしまったとしても、

神様・イエス様はあなたと共におられます。

たとえこの世の誰からも相手にされず、自分は独りぼっちだと思うようなことがあったとしても、

神様・イエス様はあなたと共におられます。

たとえこの世で耐え難い苦しみや悲しみ、痛みを経験することがあったとしても、

神様・イエス様はあなたと共におられます。

その

神様の決して変わることのない愛と恵みに気付かされ、神様に対する感謝と畏敬の念をもって、表面的ではなく心から神様に従うことができますように。

参考文献および注釈

  • Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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