礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちらから)。
- 日時:2020年10月25日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「信仰と希望と愛をもって互いに励ます」
- 聖書個所:テサロニケの信徒への手紙一5章1-11節1
導入
昨今の新型コロナウイルスの猛威を目の当たりにして
と思った方は少なからずいるのではないでしょうか。
と聖書は記します(参考:マタイによる福音書24章30-31、45-51節;25章)。俗にいう「最後の審判」です。
イエス様が再び地上に来られる時がいつかは神様以外誰にも分かりません(参考:マタイによる福音書24章36、42-44、50節;25章13節)。
それどころか、その時は盗人が家にやって来る時のように思いがけないタイミングでやって来るから、目を覚まして用意しておくようにとイエス様は弟子たちに忠告しています(マタイによる福音書24章43-44節)。
このような世の終わりに関する興味というのは、時と場所を超えて人類共通のものと言えるかもしれません。
世の終わりを待ち望む人々
実際、今日の聖書個所(特にテサロニケの信徒への手紙5章1-2節)を見てみると、当時のテサロニケ(現在のギリシャ領)に住んでいた人々も世の終わりがいつなのかが気になっていた様子が見て取れます(参考:テサロニケの信徒への手紙一4章15-18節)。
けれどもパウロは、
のだと念を押しています。
それにしても、
これはあくまで推測になりますが、当時のテサロニケの人々はイエス様を信じる信仰の故に周りの人々から迫害を受けていたようです(参考:テサロニケの信徒への手紙一1章6節;2章14-16節;3章4節;テサロニケの信徒への手紙二1章4節)。
その中には、ひょっとしたら迫害のために命を失った人たちがいたのかもしれません。
イエス様を信じる信仰の故に周りから迫害を受け、最愛の人までも失ってしまう、または失うかもしれない状況にあって、多くの人が
と自問自答していたことでしょう。
そんな中で、イエス様が再びやって来られ、全ての人を正しく裁かれる「最後の審判」を待ち望む人が出てくるのはある意味、当然のこと。
誰もが「最後の審判」が下される「世の終わり」がいつなのかを知りたいと願うようになってくると思います。
いつの時代であっても、国や文化を問わず、社会が不安定で恐れが支配的な時には「世の終わり」を待ち望む「終末思想」が出てくるものです。
その意味で、新型コロナによって多くの人の命が失われている・失われかねない状況にある現代の私たちの心理状態は、当時のテサロニケに住むクリスチャンたちと似ているところがあると言えるかもしれません。
神の望む生き方
と願っている人々に対して、聖書の神様が望む生き方とはどのようなものなのでしょうか。
イエス様の十字架と復活に表されている神様の愛と恵みを体験した私たちに対してパウロは
信仰と愛の胸当てを着け、救いの希望の兜をかぶり、身を慎んでいましょう【テサロニケの信徒への手紙 一 5章9節】
出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(新)370頁
と勧めています。
ここに信仰と愛と希望という三つの単語が出てきています。
テサロニケの信徒への手紙一全体の文脈をみると、信仰は「神様に対する信仰」(1章8節)、愛は特に他のクリスチャンたちに対する「兄弟愛」(4章9-10節)、希望は「イエス様を通して与えられる救いに対する希望」(1章3節;5章8節)であることが分かります。
また、「身を慎む」というのは恐らく、肉欲・物欲的な生活に対して身を慎むことを指していると思われます(参考:テサロニケの信徒への手紙一4章3-5節;比較:ペトロの手紙Ⅰ4章1-7節)。
従って、たとえ恐れと不安の中にあって、悲しみや苦しみで押しつぶされそうな状況にあったとしても、
ように神様は私たちに望まれていることが分かります。
神の恵みによる救いの望み
と思われ方がいらっしゃるかもしれません。
そんな方に対してパウロは、
と語ります(テサロニケの信徒への手紙一5章9節;比較:テサロニケの信徒への手紙一1章4節)。
これは神様の恵み以外の何物でもありません。
この
なのです。
神様の恵みによって、イエス様を信じ従おうとする人たちが救われることが定められている。ということは、逆に言えば、
とも言えるでしょう。
今の世の中がどれほど不安と恐れに満ちているとしても、
どんなに苦しく悲しい毎日を送っているとしても、
どう考えてもこれ以上状況が良くなりそうにないと思えたとしても、
事実、
のです(テサロニケの信徒への手紙一5章10節)。
さらに、イエス様が再びこの世に来られて全ての人々を正しく裁かれる世の終わりのとき、
とも聖書は約束しています(参考:コリントの信徒への手紙一15章20-26、51-55節;フィリピの信徒への手紙3章20-21節;ヨハネの黙示録21章1-4節)。これが聖書の語る救い、ここに希望があります。この
ようにパウロは勧めています(テサロニケの信徒への手紙一5章11節)。
結論
誰もが
と不安に思う状況です。そんな中にあって聖書ははっきりと語っています。
大事なことは世の終わりがいつなのかを特定しようとすることではなく、世の終わりがいつ来ても良いように目を覚ましていること。具体的には、
ことが大切です。それは、神様の一方的な恵みを受けた私たちに対して神様が望まれている生き方です。
ここで、イエス様によってもたらされる救いというのは死んだ後に天国に行くということだけを意味してはいません。聖書の語る救いには、
ことが含まれています。この救いを実現するため、
のです。神様自らがその身を犠牲にしてまで私たち人間を救おうとされたのは、
私たちが神様にとって特別役に立つからではありません。
私たちが神様に対して何か優れた功績を残したからでもありません。
私たちが神様と共にいないと神様が孤独を感じてしまうからでもありません。
です。
神様はあなたに救いをもたらすため、あなたと共に生きるため、自らが人の姿を取ってこの世に来られました。
そして、あなたの罪をその身に背負い、十字架に架かり死んでよみがえられました。
それほどまでにあなたは神様に愛されています。
のです。
参考文献および注釈
- Beale, G. K. 1-2 Thessalonians. IVP New Testament Commentary. IVP Academic, 2010.
- Green, Gene L. The Letters to the Thessalonians. Illustrated Edition. Pillar New Testament Commentary. Grand Rapids, Mich. : Leicester, England: Eerdmans, 2002.
- Wanamaker, Charles A. Comentary on 1 & 2 Thessalonians. New International Greek Testament Commentary. Grand Rapids, Mich.: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1990..