礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2021年2月28日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「不義な人、義なる神」
- 聖書個所:ローマの信徒への手紙3章1-20節1
導入
いつもながら、時の経つのは早いもので、もう今日で2月が終わります。
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では年明けからローマの信徒への手紙から説教を続けていますが、今日がその7回目となります。
皆さんはこれまでの話の流れを覚えていらっしゃるでしょうか。
ローマの信徒への手紙の冒頭で、手紙の作者パウロはまずイエス様は100%神で100%人間であるお方で、自分の使命は異邦人を信仰による従順に導くことだと記します(ローマの信徒への手紙1章1-7節)。
それからパウロはローマを訪問してローマの人々を力づけ、共に励まし合い、福音を告げ知らせたいという思いを述べ(1章8-15節)、私たち人間は福音を欠かすことができない理由を示そうとします(1章16節—3章20節)。その理由を一言でいうならば、
です。それでは、異邦人もユダヤ人も皆等しく、それぞれの行いに応じて神様に裁かれ、悪行に対する神の怒りを免れることができない(2章1-11節)とすれば、
という問いかけで始まるのが今日の聖書個所です。
人の不義
パウロはローマの信徒への手紙3章1-2節において、ユダヤ人が異邦人よりも優れている点の一つは神様の言葉である旧約聖書がユダヤ人たちに委ねられたことだと言っています。
確かに、神様の言葉が委ねられたのはユダヤ人だけなのは間違いありませんから、その意味において、ユダヤ人は異邦人よりも優れていると言えなくもありません。
が、しかし、
彼らは神様の言葉を委ねられるに値しなかったにも関わらず、神様は恵みによって彼らを選び、彼らに神の言葉を委ねられたのです(参考:申命記7章6-8節)。
事実、パウロはローマの信徒への手紙3章9節で、
と語っています。
なのです。
神の義
とはいえ、たとえ全ての人が「偽り者」、即ち「不義」であったとしても、神様は正しく真実なお方であるとパウロは語ります(ローマの信徒への手紙3章4-5節)。
誰もが弱く不完全な存在だからです。しかし、神様は完全で真実なお方です。
です。
ここで幾つかの疑問がわいてきます。
神様が神様に忠実な人々だけでなく、神様に敵対する人や神様を知らない人たちを用いて神様の約束・計画を実現することができるのであれば、
また、神様が私たちの成す悪を用いて善を成されるのであれば、
さらに、私たちが成す悪が神様の素晴らしさを証明するのに役立っているとするならば、
実際、当時の人々もそのように考えていたようです(ローマの信徒への手紙3章5-8節)。けれども、
です(参考:ローマの信徒への手紙2章5-11節)。
不義な人々を救う義なる神
とは言われても、です。
残念ながら、
だと聖書は語ります(ローマの信徒への手紙3章10-18節)。そこにユダヤ人か異邦人かの区別はありません。
確かに、ユダヤ人たちには神様の恵みによって神様の言葉としての律法が委ねられ、善悪の基準が知らされていました(3章20節)。
しかしながら、
です(ローマの信徒への手紙2章17-29節)。ユダヤ人たちも含め
のです (3章19節)。
と、ここで説教を終えると非常に暗い雰囲気で終わってしまうことになります。
が、もちろん、ここで話は終わりません。
と聖書は語ります。私たち不義な人間を見限るどころか、
のです。そのおかげで
のです(参考:3章21-31節)。
結論
です。そこには民族や人種、国籍の区別はありません。
世間的に見てどれだけ立派な生活をしているかも関係ありません。
聖書の知識がどれだけあるか、献金をどれだけ捧げたか、礼拝にどれだけ来たか、洗礼を受けたかどうかも関係ありません。
私たちは皆、神様の善悪の基準に照らすと誰もが不完全な存在。誰一人として、神様の望まれる生き方を完璧に送ることはできません。
そんな
でした。全ての人が神様の正しい裁きの前では不義な者(正しくない者)とされ、神様の怒りを受けて滅びゆく存在だった訳です。
ところが、
のです。そして
その
これが「福音(よき知らせ)」です。この
と聖書は語ります(ローマの信徒への手紙1章16-17節;3章21-26節)。
聖書の語る福音に表されている
です。従って、
だと言えます。もう少し人間的な表現を使うと、
かもしれません。それはある意味、イエス様がもつイメージに近いと言えるでしょう。
神様の独り子で罪を犯したことがない完全・完璧な人間と聞くと、「こんな自分がお近づきになるなんて恐れ多い」または「こんな自分のことなんか気にも留めてくれないだろうな…」と思うかもしれません。
が、しかし、
です。
あなたがイエス様・神様のことを知らなかったときも、
神様に対して逆らっていたときも、
あなたが罪の下にあって神様の望むことを全くできていないときも、
そのイエス様・神様の愛が表されているのがイエス様の十字架です(ローマの信徒への手紙5章6-8節)。
それは、
あなたが聖書をたくさん勉強したからではありません。
献金をたくさん捧げたからでもありません。
休まずに礼拝に来たからでもありません。
洗礼を受けたからでもありません。
聖餐式に参加したからでもありません。
イエス様があなたの代わりに十字架に架かり、あなたが本来受けるべきであった全ての苦しみ、悲しみ、痛みを受けてくださったのは、ただ
です。この
そして、
参考文献および注釈
- Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
- Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.