礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2021年8月22日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「私たちは主のもの」
- 聖書個所:ローマの信徒への手紙14章1-12節1
導入
クリスチャンとして長く生活していると色々な考え方をもったクリスチャンがいることに気付かされることがあると思います。
約2000年前のローマに生きたクリスチャンたちも現代の私たちと同じく、ある事柄に対して意見の食い違いがあったようです。
今日の聖書個所を通して、
について学んでいきましょう。
全ては主のため
パウロはローマの信徒への手紙14章1節で「信仰の弱い人」を受け入れるように勧めています。
ローマの信徒へ手紙14章と15章には「信仰の弱い人」と「強い人」という表現が出てきますが、これは神様・イエス様をどれくらい信じているかという意味合いでは用いられていないように感じます。
というのも、パウロがここで主に取り上げているのは、いわゆる信仰そのものではなく信仰がもたらす行動・生活様式だからです。
実際、「信仰の弱い人」たちは肉を食べずに野菜だけを食べ(14章2、21節)、特定の日を重んじ(14章5-6節)、ぶどう酒を飲まなかったようです(14章21節)。
彼らは主に当時のローマに住んでいたユダヤ人クリスチャンたちだったと思われます。
対して、「強い人」というのは何を食べてもよいと考え、野菜だけでなく肉も食べぶどう酒も飲んでいたようです(14章2、14、21節)。また、強い人は特定の日を重んじることなく全ての日を同じように考えていました(14章5節)。
彼らは主に当時のローマに住んでいた異邦人クリスチャンたちと思われますが、パウロ自身は自らを「強い人」に含めています(15章1節)。
このような行動・生活様式の違いをもたらすのは神様・イエス様をどれくらい信じているかの違いによるものではありません。
からです(14章6-8節)。
違いはどこから
言うなれば、
ということになります。
では、
まず考えられるのが置かれている環境(文化や伝統)の違いです。
特に当時のローマにおいては旧約聖書の律法をどれだけ重んじるかの違いが大きかったと考えられます。
実際、旧約聖書の律法は当時のユダヤ人にとっては非常に大事なものでしたが、異邦人にとってはそこまで重要な位置を占めていませんでした。
「信仰の弱い人」「強い人」の行動・生活様式が異なるのは、それぞれが置かれている環境という外的要因の他にも個々人の性格や経験・体験といった内的要因も影響していると思います。
同じ文化や伝統の中で育ったとしても保守的な人もいれば、革新的な人もいます。そのような違いは大抵、個々人が生まれ持った性格によるところが大きいと思います。
また、自分が生まれ育った文化や伝統とは異なる世界を経験した人は、自分の生まれ育った文化や伝統をより客観的かつ批判的に見ることができるようになります。
そのような人の一人がパウロだったと言えます(参考:ローマの信徒への手紙14章13-23節)。
ですから彼は当時のユダヤ人の文化・伝統にどっぷりと浸かっていたにも関わらず、「信仰の弱い人」のようではなく「強い人」としてふるまうことができたと考えられます。
互いに相手を受け入れる
神様・イエス様を同じくらい信じていて、神様・イエス様に対して同じくらい人生を献げていたとしても、
大切なのは
ことだとパウロはローマの信徒への手紙14-15章で勧めています(14章1、3、10、13節;15章2、7節)。
教会内であっても、特に今のコロナ下では、その対応に関して意見の食い違いが出てきます。
このような事柄に対して、残念ながら、聖書は明確な答えを与えてくれませんから、絶対的に正しい答えは人間には分からないと言えなくはありません。
が、そうは言ってもやはり自分なりに聖書を調べ、自分なりの知識と経験に基づいて正しいと判断する事柄を否定されると誰しもよい気分はしないものです。
自分の意見を受け入れない相手のことを心の内で裁いたり見下したりしてしまうことがあるかもしれません。
そんな私たちに向かってパウロは
と勧めています。
とはいえ、
キリスト教の根幹に関わる教えに反することは正す必要があります(参考:ガラテヤ1章6-9節)。
仮にキリスト教の教えの根幹に関わらない事柄であっても、その主張が神様のためではなく神様以外の何か・誰か(個人もしくは団体)のためを考えてのことであるならば、無条件で受け入れるべきとは言えません(参考:ローマ14の信徒への手紙7-8節)。
大事なことは、
ことです(比較:マタイによる福音書7章1-5節)。
だからです(ローマの信徒への手紙14章10節)。
ことが大切です。その上で、
必要があります。
結論
クリスチャン同士、同じ神様・イエス様を信じていたとしても、具体的な日々の行動・生活様式に対する考え方が全て同じになる訳ではありません。
ですから、違いそのものをなくすことは非常に困難だと言えます。従って大切なのは、
その上で、
だと言えます。
と言うのは簡単ですが、実際問題、
もちろん、自分がこだわっていないことであれば、受け入れるのはそれほど難しくないかもしれません。
が、しかし、
自分がとても大切・大事にしていること
神様から与えられた使命とまで考えていること
に対して、意見の違う人を受け入れるというのは時として非常に難しいことだと思います。
でも、だからこそパウロは、
勧めています(ローマの信徒への手紙15章7節)。
存在です。
周りがあなたを認めなくても、
周りからつまはじきにされたり無視されたりしたとしても、
神様はあなたの全てを愛し受け入れてくださっています。
もちろんそれは、あなたが自分の好き勝手に何をしても良いことを意味している訳ではありません。
時には、
でしょう。でも、
悔い改めるのに遅すぎることはありません。
神様にありのままで愛され受け入れられている存在として、
ことが求められています。
一方が他方を全面的に受け入れるのではありません。
相手からの誹謗中傷に対して、黙って耐え忍ぶ訳でもありません。
まずは
必要があります。その上で、これまた
です。神様に栄光がありますように。
参考文献および注釈
- Moo, Douglas J. Romans. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: ZondervanPublishingHouse, 2000.
- ———. The Epistle to the Romans. The New International Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1996.
- Schreiner, Thomas R. Romans. 2nd edition. Grand Rapids, Mich.: Baker Academic, 2018.