礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2021年10月24日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「必ず来る終わりの時」
- 聖書個所:ハバクク書2章1-20節1
導入
突然の質問ですが、皆さんは、
あくまでも個人的な印象ですが、損得だけを考えると確かに悪賢い人たちが得をして、正直な人たちは損をするのが世の常ではないかと思います。
実際、世の中のいわゆる「不祥事」と呼ばれる出来事のほとんどは、悪賢い人が上手く立ち回って得をしようとした結果、生じた出来事であるように思います。
程度の差はもちろんありますが、このような
と思います。
と自分に言い聞かせながら、ついつい悪乗りしてしまった経験がある方は少なくないのではないかと思います。
ここで厄介というか不思議なのは、それらの
ということです。
今日の聖書個所は、私たちのそのような疑問に答えを与えてくれる個所となっています。
必ず来る定めの時
ハバククが生きた時代もまた不正や不法行為が溢れ、その多くは野放しにされていました(ハバクク書1章2-4節)。
その状況から救われるように、またその状況に対して神様の裁きが下されるようにハバククは神様に助けを求めていました。
すると神様はカルデア人(新バビロニア王国)を用いて、イスラエル民族(南ユダ王国)を滅ぼすと答えられます(1章5-6節)。
この神様の答えはハバククには信じがたい驚くべきものでした。なぜなら、
からです(1章13節)。
悪を行ったイスラエル民族が裁かれるのは仕方ないとしても(1章12節)、
むしろ、
また、イスラエル民族の中にわずかながらでもいたであろう、ハバククのように神様に忠実な人たちの苦しみは更に増すことになってしまいます。
言うなれば、
ことになる訳です。困惑したハバククが次にとった行動は、
というものでした(2章1節)。
神様からの更なる答えを待つハバククに対し、まず
と命じます(2章2節)。「幻」と聞くと視覚的な映像を思い浮かべるかもしれませんが、原語のヘブライ語の言葉は「啓示」もしくは「神託」とも訳せる言葉です。
その神様からの幻・啓示は、
でした(2章3節)。さらに、神様の定められた「時」というのは、
だから
と神様は命じられます(2章3節)。
必ず来る終わりの時
どんなに遅いと思っても必ずや訪れる終わりの時…その終わりの時に関する神様からの幻・啓示はハバクク書2章4節に記されています。
ここの後半部分に出てくる「信仰」とは、ハバクク書3章17-19節に示されているように、
だといえます。そして、
と聖書は語るのです。
対して、ハバクク2章4節の前半部分と5節に記されているように、
だと言えます。このような人々はいつまでも野放しにされている訳ではなく、その
その終わり(裁き)の時の様子について詳しく記されているのが2章6-20節です。具体的には以下に関する裁きです。
- 略奪(2章7-8, 17節):人や土地・財産を略奪した人は、いずれ自分が略奪される
- 不正(2章9-12節):不正を行って得た財産は、たとえそれが家族のためにしたことであっても長続きしない
- 流血・暴力(2章8, 12, 17節):人に暴力をふるったり殺害したりする人は必ずその報いを受ける
- 恥辱(2章15-16節):不当に人に恥をかかせようとする人は、いずれ自分が辱めをうける
- 偶像礼拝(2章18-19節):人間が作った偶像により頼もうとする人は、遅かれ早かれ、その期待を裏切られる
これら全てを一言でまとめるとするならば、
と言えるでしょう。この
しかしそれは、ハバククが生きている間のことではなかったと思われます(ハバククが預言を受けてから約60年後、新バビロニア王国はペルシア帝国に滅ぼされます)。
結論
この疑問に対して聖書は、
と答えます。さらに、
とも教えます。語弊を招く表現かもしれませんが、
という訳です。なお、ここでいう
のことを意味します。
世の中の不正や不法行為が裁かれ、信仰による「正しい人」が馬鹿を見ることがなくなる終わりの時は必ず訪れます。
その確証・保証を与えてくれるのが
という出来事です。
です。と同時に、
でもあります。それ故に、
のです。本来、私たちが受けるべきだった裁き(罰)をイエス様が代わりに受けてくださった訳です。
このイエス様の十字架という出来事は見方を変えると、
と言えなくありません。というのも、
からです。ところが、
イエス様は死んで葬られた後、三日目によみがえられたのです。
訳です。このイエス様の復活という出来事によって
と言えます。そして、
とも神様は約束してくださっています(参照:マタイによる福音書25章31-46節;ヨハネの黙示録20章11節—21章4節)。
この世においては、不正や不法行為が野放しにされ、正直者が馬鹿を見るように感じてしまうことが多くあります。
けれども、
です。そのことがイエス様の十字架に表されています。また、
でもあります。そのことがイエス様の復活に表されています。ただ、
もしかしたらハバククのように、
自分が生きている間には神様の裁きをみることはないかもしれません。
苦しみや悲しみ、痛みから完全に解放されることなくこの世での生涯を終えることがあるかもしれません。
「それでも」
とハバククは語ります。
それでも、私は主にあって喜び/わが救いの神に喜び躍る。神である主はわが力/私の足を雌鹿のようにし/高き所を歩ませてくださる。【ハバクク書3章18-19節】
出典:日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳-旧約聖書続編付き』(日本聖書協会、2018年)(旧)1446頁
たとえ今現在、どんなに辛く悲惨な状況にあったとしても、
そして、
参考文献および注釈
- Barker, Kenneth L. Micah, Nahum, Habakkuh, Zephaniah: An Exegetical and Theological Exposition of Holy Scripture. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 1998.
- Bruckner, James. Jonah, Nahum, Habakkuk, Zephaniah. Fifth Impression edition. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2004.
- Robertson, O. Palmer. The Books of Nahum, Habakkuk, and Zephaniah. 2nd edition. The New International Commentary on the Old Testament. Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1990.