礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。
- 日時:2022年4月10日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「圧倒的な神」
- 聖書個所:出エジプト記7章14節-8章15節1
導入
今日の聖書個所からいわゆる「10の災い」が次々とファラオ及びエジプトの人々にもたらされることになります。
この10の災いから最後の一つを除く9つの災いの中にはある特定のパターンが繰り返されています。
そのパターンは下記にあるように、三つの災いごとに3回繰り返されています。2
災い | 時間帯 | ファラオに関する指示 | 忠告 | |
---|---|---|---|---|
一回目 | 1.血 2.蛙 3.ぶよ | 朝 不明 不明 | 「彼(ファラオ)を待ち受け」 「ファラオのところに行って」 ― | 有 有 無 |
二回目 | 4.あぶ 5.疫病 6.腫れ物 | 朝 不明 不明 | 「ファラオの前に進み出なさい」 「ファラオのもとに行って」 ― | 有 有 無 |
三回目 | 7.雹 8.ばった 9.暗闇 | 朝 不明 不明 | 「ファラオの前に進み出て」 「ファラオのもとに行きなさい」 ― | 有 有 無 |
そして、一回目のパターンのときよりも二回目、二回目よりも三回目と進むにつれて災いによる被害が増していき、最後の10個目の災いではエジプト人たちの初子は人も家畜も全て死に絶えてしまいます。
このようなパターンをみると、
ことが推測できます。その意図・目的とは、
を示すことです。今日は最初の三つの災いに関する記述を通して、創造主なる神様の圧倒的な力と主権、愛と憐れみを再確認したいと思います。
神の力と主権
10の災いの初めに登場するのは
という災いです(出エジプト記7章14-25節)。
でした。そのナイル川をモーセが杖で打つと、その水が血に変わり、魚が死に、悪臭を放つようになる(7章17-18節)というのは、
ことを示すことになります。
また、出エジプト記1章22節でファラオは生まれたばかりのイスラエルの男の子をナイル川に投げ込むように命じていました。
人口が増えていたイスラエル民族の数を抑え込むためです(参考:1章9-10, 16節)。
しかしながら、
にありました(参考:創世記1章28節; 12章2節;比較:出エジプト記1章7節)。このため、
と言えます。そこで
と考えることができます。
二つ目の災いは
というものです(7章26節-8章11節[新改訳は8章1-15節])。
その当時、「蛙」は出産を司る女神として崇められていたようです。
産後間もないイスラエル人の男の子を殺そうとするエジプト人たちが出産の女神として崇める蛙。
その蛙を意のままに操り、挙句の果てには殺してしまうイスラエルの神。
その対比・皮肉の中に
が表されています。
三つ目の災いは
というものです(8章12-15節[新改訳は8章16-19節])。
これまでの二つの災いは水から発生しましたが、この三つ目の災いは地(の塵)から発生します。そして続く4つ目の災いは空からあぶが大量発生します。
ことが暗に示されています(比較:創世記1章6-13節)。
神の愛と憐れみ
今日の聖書個所にははっきりと記されていませんが、これら
と思われます(参照:出エジプト記7章21節; 8章7節[新改訳は8章11節]; 比較:8章19節[新改訳は8章23節]; 9章4, 11, 26節; 10章5, 23節; 11章7節)。
です。神様は時として、その力を
というかたちで用いられます(参考:7章4節)。その一方で、
でもあります。
神様の愛と憐れみは二つ目の災いの場面にも見て取れます。
そこでファラオは蛙を追い払うように神様に祈ってほしいとモーセにお願いしています(8章4節[新改訳は8章8節])。
すると神様は、このファラオの要求に応じたモーセの祈りに答えられます(8章9節[新改訳は8章13節])。
ことが分かります。
結論
です。また
でもあります。神様はその絶対的で圧倒的な力と主権を用いて、
でもあります。また、仮に
です。そのことが最もはっきり示されているのがイエス様の十字架と復活という出来事です。
イエス様は十字架上で、この世の悪・罪が受けるべき裁きをその身に受けられました。
そのおかげで、神様の前にへりくだり、心を入れ替えてその憐れみにすがろうとする人々には神様の裁きを免れることのできる救いの道が拓かれました。
その救いの道は神様の一方的な恵みによって、神様の底知れぬ愛と憐れみによって与えられた道です。
その道を歩むために必要なのはイエス様を救い主として信じ従おうとする信仰だけです。
また、天地万物を無から創造された神様は、その圧倒的な力を用いて、イエス様を死からよみがえらせました(参考:ローマの信徒への手紙4章17節;エフェソの信徒への手紙1章19-20節)。
それは、イエス様が再びこの世に来られるときにもたらされる完全な救いがどのようなものかを私たちに示すためでした(参考:コリントの信徒への手紙一15章20-27節)。
イエス様が再び来られるとき、イエス様を信じる私たちもまたイエス様のような肉体をもってよみがえります(コリントの信徒への手紙一15章51-55節;フィリピの信徒への手紙3章21節)。
この
というのが聖書の語る救いが完全に実現した状態です(ヨハネの黙示録21章1-5節)。
それはいわゆる「堕落」前のエデンの園の状態に近いと言えます。
のです。
現代は科学の発展のおかげで、一昔前では想像もできなかった生活が可能となっています。
医学の進歩のおかげで、一昔前では治せなかった病も治せるようになってきています。
そう思ってもおかしくない世の中となっています。
けれども、昨今の新型コロナウイルスの感染拡大は人間の知恵や力の限界を思い知らされる出来事ではなかったかと思います。
とはいえ、私は別に新型コロナウイルスが神様の裁きによってもたらされたと言いたい訳ではありません。
科学技術や医学的治療を捨てて、原始の生き方に帰ろうと言いたい訳でもありません。
ただ、
「絶対」や「完璧・完全」といった言葉は、残念ながら、人間には当てはまらないからです。
「絶対に10キロ減量するぞ!」と思っても、そのダイエットが絶対に成功するとは限りません。
仮に一度は成功したとしても、同じことをもう一度やって再び成功するとは限りません。
ダイエットに限らず、たとえどんなに些細なことでも100回やって100回全て成功することは簡単なことではありません。
対して、
です。
神様が実現するとおっしゃったことは絶対に実現します。
神様は絶対的で圧倒的な力と主権をもったお方ですから、100回やれば100回とも絶対に成功します。
しかも
です。
その神様が成されることはイエス様を信じ従おうとする者にとっては最高最善の結果となります(ローマの信徒への手紙8章28節)。
ただ、その
です。また、その
そこには
です。けれども、その
ことでしょう(ローマの信徒への手紙15章13節)。
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.