礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。
- 日時:2022年7月24日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「生きるために必要なもの」
- 聖書個所:出エジプト記16章21-36節1
導入
クリスチャンの生活というと、
「いつも笑顔で、喜びと感謝に満たされている生活」
または
「問題が起きてもお祈りによって直ぐに解決策が与えられる生活」
といった、いわゆる
「悩み苦しみとは無縁の喜びと楽しみに満ちた生活」
というイメージを抱く方がいらっしゃるかもしれません。
でも、残念ながら、神様・イエス様を信じ、神様の子(神の民)として生きる生活は決して楽しいことばかりではなく、苦難や困難を伴う生活でもあります。
今日は特に、神様がイスラエル民族を食べ物のない荒野に導かれた理由・目的を考えつつ、
を共に考えたいと思います。
導く神
神様がイスラエル民族を食べ物のない荒れ野に導かれた一番の理由・目的は、彼らに神様がどのようなお方かを示すため、特に
でした(出エジプト記16章6-7, 12節)。このとき神様は、
神様はイスラエル民族をエジプトから導き出すにあたって、様々な奇跡的な業を行いました。
そこには万物を意のままに操ることのできる絶対的な神様の主権が表されていました。
この16章においても
そうすることで、
訳です。
試す神
神様がイスラエル民族を食べ物のない荒れ野に導かれた理由・目的の一つには、
というのも含まれます(出エジプト記16章4-5節)。
しかしながら、このときのイスラエル民族は一度ならず二度までも神様の律法(命令)に背きました(16章19-20, 25-27節)。
ここで神様が人々を苦しめ、試みたのは、
であったと後にモーセは語っています(申命記8章2節)。また、神様が人々を苦しめ、飢えさせ、マナを与えたのは、
であったともモーセは言っています(申命記8章3節)。
訳です(比較:マタイによる福音書5章33節)。
であったと言えます。
救い主なる神
神様がイスラエル民族を食べ物のない荒れ野に導かれたもう一つの理由・目的として、
ということが挙げられます。出エジプト記16章32節で神様は、イスラエルの子孫がマナを見ることができるように世々にわたって保存しておくように命じています。
そしてアロンは、神様がモーセに命じられた通りにマナを「証しの箱」の前に置いて保存しました(16章34節)。
マナは、イスラエル民族が荒野をさまよっていた40年の間は与えられていましたが、彼らが約束の地カナンに定住するようになってからは与えられなくなります(16章35節;ヨシュア記5章12節)。
けれども、この
ようです(参考:ヘブライ人への手紙9章4節)。
という訳です。
実際、神様が40年もの長きにわたってイスラエル民族に日々の糧を与え続けられたというのは彼らにとって神様の救いの御業の代名詞とも呼べるものでした。
イエス様は生前、数多くの奇跡をなさいましたが、その中の一つに「五つのパンと二匹の魚」を用いて、5千人の人々の食欲を満たされるという奇跡があります。
その奇跡がなされた直後、人々は、イエス様が本当に神様から遣わされた救い主だと信じることができるように、マナに代わる奇跡(しるし)を見せてくれと要求します(ヨハネによる福音書6章30-31節)。
そんな彼らに対して
とおっしゃいます(ヨハネによる福音書6章48-50節)。それは、イエス様を信じる人が永遠の命を得ることの比喩的な表現です(参考:ヨハネによる福音書6章47節)。
このことから、
であること、つまりは、
であることが分かります。
結論
神様は昼には雲の柱、夜には火の柱をもって、イスラエル民族を導いておられました。
そして、食べ物のない荒れ野に導かれた人々がモーセ(神様)に不平を言ったとき、神様は彼らを罰することなく、超自然的な方法で彼らの必要を満たされました。
それは、
また、
そして、
でした。
この世で生きる上で私たちは様々な苦しみや悲しみ、痛みを経験します。
イエス様を信じ、罪赦され、神様の民(子)とされた後も決して苦難や困難に遭わなくなる訳ではありません。
この世の中は罪と悪にまみれた世界だからです。
私たちはイエス様を信じたとき、その罪が赦されるだけでなく、罪の支配から解放されて神様の支配の下へと移されます。
訳です。それ故に、私たちはこの世から憎まれる、つまりは苦難や困難に遭うと聖書は語ります(ヨハネによる福音書15章18-19節)。
もちろん、私たちが苦難・困難を経験するのは、私たち自身が行った罪(失敗や過ち)が原因となることもあります。
不正を行ったり、人を傷つけたり、人の恨みを買うようなことを行ったりすると、いずれは自分の身にも災難がふりかかります。
そのような場合は、その言動を省み、悔い改めて、その罪を償う(関係改善に努める)必要があります。
でも時には、
自分は特に悪いことをしていないにもかかわらず苦難・困難に直面することがあります。
神様の願う善を行おうとしているにもかかわらず、「偽善者だ」とか「格好つけたいだけの目立ちたがり屋だ」といった悪評を受ける場合があります。
そのようないわれもない苦しみを受けるとき、
イエス様は罪を全く犯すことが無かった善なるお方です。
けれども、この世はイエス様を憎み、十字架に架けてしまいました。
しかし、イエス様は全ての苦しみを耐え忍び、死んでよみがえられたのです。
それは
また、
でもありました(ペトロの手紙一2章21-24節)。
また、時として
こともあります。その目的・理由は、
その試練を通して、神様がどういうお方であるかを私たちにより深く教えるためかもしれません。
私たちの心がきちんと神様に向いているかどうかを試すためかもしれません。
私たちが生きるために本当に必要なものは何かを私たちに教えるためかもしれません。
その目的・理由が何であれ、どのような苦難・困難に直面しようとも、
あなたと同じような、否、あなた以上の苦難・困難を自ら経験された
参考文献および注釈
- Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
- Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
- Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.