「生きるために必要なもの」:2022年7月24日(日)礼拝説教要旨


礼拝説教の要旨です(実際の音声はこちら)。

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導入

皆さんは「クリスチャンの生活」と聞くと、どのような生活をイメージしますか?

クリスチャンの生活というと、

「いつも笑顔で、喜びと感謝に満たされている生活」

または

「問題が起きてもお祈りによって直ぐに解決策が与えられる生活」

といった、いわゆる

「悩み苦しみとは無縁の喜びと楽しみに満ちた生活」

というイメージを抱く方がいらっしゃるかもしれません。

でも、残念ながら、神様・イエス様を信じ、神様の子(神の民)として生きる生活は決して楽しいことばかりではなく、苦難や困難を伴う生活でもあります。

今日は特に、神様がイスラエル民族を食べ物のない荒野に導かれた理由・目的を考えつつ、

なぜ私たちの生活から問題が無くなることはないのか、また実際に問題に直面したときにどうすればよいのか

を共に考えたいと思います。

導く神

神様がイスラエル民族を食べ物のない荒れ野に導かれた一番の理由・目的は、彼らに神様がどのようなお方かを示すため、特に

神様が主(ヤハウェ)という名前の彼らの神であり、彼らをエジプトから導き出したお方であるとイスラエル民族が知るようになるため

でした(出エジプト記16章6-7, 12節)。このとき神様は、

神様に対して不平を漏らす人々を罰することなく、超自然的な方法で彼らの必要を満たされました。

神様はイスラエル民族をエジプトから導き出すにあたって、様々な奇跡的な業を行いました。

そこには万物を意のままに操ることのできる絶対的な神様の主権が表されていました。

この16章においても

神様は超自然的な業を用いてイスラエル民族が必要とする食料をお与えになり、その絶対的な主権を表されました。

そうすることで、

この神様は間違いなく、彼らをエジプトから導き出した救い主であることをイスラエル民族に示そうとされた

訳です。

試す神

神様がイスラエル民族を食べ物のない荒れ野に導かれた理由・目的の一つには、

イスラエル民族が神様の律法に従って歩むかどうかを試すため

というのも含まれます(出エジプト記16章4-5節)。

しかしながら、このときのイスラエル民族は一度ならず二度までも神様の律法(命令)に背きました(16章19-20, 25-27節)。

そんな不従順な人々に対して神様は苦言を呈しますが、彼らを罰することはなさいませんでした(28節)。

ここで神様が人々を苦しめ、試みたのは、

彼らの心にあるものを知るため、つまりはその心がきちんと神様に向いていて、神様の戒めを心から守るかどうかを知るため

であったと後にモーセは語っています(申命記8章2節)。また、神様が人々を苦しめ、飢えさせ、マナを与えたのは、

人はパンだけで生きるのではなく、神様の口から出る言葉によって生きることを知らせるため

であったともモーセは言っています(申命記8章3節)。

神様の言葉に聞き従うことの重要さを教えるため、神様はあえてイスラエル民族を荒れ野に導かれ、マナをお与えになった

訳です(比較:マタイによる福音書5章33節)。

マナの奇跡は、私たちが生きるために本当に必要なものが何かを教えるためのもの

であったと言えます。

救い主なる神

神様がイスラエル民族を食べ物のない荒れ野に導かれたもう一つの理由・目的として、

神様の救いの御業を世々にわたって知らしめるようにするため

ということが挙げられます。出エジプト記16章32節で神様は、イスラエルの子孫がマナを見ることができるように世々にわたって保存しておくように命じています。

そしてアロンは、神様がモーセに命じられた通りにマナを「証しの箱」の前に置いて保存しました(16章34節)。

マナは、イスラエル民族が荒野をさまよっていた40年の間は与えられていましたが、彼らが約束の地カナンに定住するようになってからは与えられなくなります(16章35節;ヨシュア記5章12節)。

けれども、この

「証しの箱」に納められた壺の中のマナは腐ることも無くなることもなく、存在し続けていた

ようです(参考:ヘブライ人への手紙9章4節)。

そのマナを見ることで、実際にマナを食べたことのない後の世代の人々が彼らの先祖たちになされた神様の救いの御業を確信・確認できた

という訳です。

実際、神様が40年もの長きにわたってイスラエル民族に日々の糧を与え続けられたというのは彼らにとって神様の救いの御業の代名詞とも呼べるものでした。

イエス様は生前、数多くの奇跡をなさいましたが、その中の一つに「五つのパンと二匹の魚」を用いて、5千人の人々の食欲を満たされるという奇跡があります。

その奇跡がなされた直後、人々は、イエス様が本当に神様から遣わされた救い主だと信じることができるように、マナに代わる奇跡(しるし)を見せてくれと要求します(ヨハネによる福音書6章30-31節)。

そんな彼らに対して

イエス様は御自分が「命のパン」であり、イエス様を食べる者は死なない

とおっしゃいます(ヨハネによる福音書6章48-50節)。それは、イエス様を信じる人が永遠の命を得ることの比喩的な表現です(参考:ヨハネによる福音書6章47節)。

このことから、

マナの奇跡は後に来る「命のパン」を指し示すもの

であること、つまりは、

私たちが生きるために本当に必要なものは「命のパン」であるイエス様を信じること

であることが分かります。

結論

神様は昼には雲の柱、夜には火の柱をもって、イスラエル民族を導いておられました。

そして、食べ物のない荒れ野に導かれた人々がモーセ(神様)に不平を言ったとき、神様は彼らを罰することなく、超自然的な方法で彼らの必要を満たされました。

それは、

神様が主(ヤハウェ)という名前の彼らの神であり、かつ彼らをエジプトから導き出した救い主であるとイスラエル民族が知るようになるため。

また、

彼らの心がきちんと神様に向いていて、神様の戒めを心から守るかどうかを知るため、ひいては神様の言葉に聞き従うことの重要さを教えるため。

そして、

神様の救いの御業を世々にわたって知らしめ、私たちが生きるため(救い)に必要なものは来るべき「命のパン」であるイエス様を信じることであることを指し示すため

でした。

この世で生きる上で私たちは様々な苦しみや悲しみ、痛みを経験します。

イエス様を信じ、罪赦され、神様の民(子)とされた後も決して苦難や困難に遭わなくなる訳ではありません。

この世の中は罪と悪にまみれた世界だからです。

私たちはイエス様を信じたとき、その罪が赦されるだけでなく、罪の支配から解放されて神様の支配の下へと移されます。

罪と悪にまみれた世に属する者ではなく、聖なる神様に属する者へと変えられる

訳です。それ故に、私たちはこの世から憎まれる、つまりは苦難や困難に遭うと聖書は語ります(ヨハネによる福音書15章18-19節)。

もちろん、私たちが苦難・困難を経験するのは、私たち自身が行った罪(失敗や過ち)が原因となることもあります。

不正を行ったり、人を傷つけたり、人の恨みを買うようなことを行ったりすると、いずれは自分の身にも災難がふりかかります。

そのような場合は、その言動を省み、悔い改めて、その罪を償う(関係改善に努める)必要があります。

でも時には、

自分は特に悪いことをしていないにもかかわらず苦難・困難に直面することがあります。

神様の願う善を行おうとしているにもかかわらず、「偽善者だ」とか「格好つけたいだけの目立ちたがり屋だ」といった悪評を受ける場合があります。

そのようないわれもない苦しみを受けるとき、

イエス様の十字架と復活を思い起こしてください。

イエス様は罪を全く犯すことが無かった善なるお方です。

けれども、この世はイエス様を憎み、十字架に架けてしまいました。

しかし、イエス様は全ての苦しみを耐え忍び、死んでよみがえられたのです。

それは

この世の罪をその身に背負い、この世を罪の滅びから救い出すため。

また、

イエス様に従おうとする者がその足跡に続くようにと模範を残すため

でもありました(ペトロの手紙一2章21-24節)。

また、時として

神様御自身がその導きの中で私たちに「試練」という名の苦難・困難を与える

こともあります。その目的・理由は、

その試練を通して、神様がどういうお方であるかを私たちにより深く教えるためかもしれません。

私たちの心がきちんと神様に向いているかどうかを試すためかもしれません。

私たちが生きるために本当に必要なものは何かを私たちに教えるためかもしれません。

その目的・理由が何であれ、どのような苦難・困難に直面しようとも、

あなたは独りではありません。

あなたと同じような、否、あなた以上の苦難・困難を自ら経験された

イエス様があなたといつも共にいて、あなたが生きるために必要な力、慰め、励ましを与えてくださっています(ヘブライ人への手紙2章18節)。
今のあなたの重荷を全てイエス様に委ね、イエス様の軛を負ってイエス様に学ぶことで、魂に安らぎを得ることができますように(マタイによる福音書11章28-30節)。

参考文献および注釈

  • Alexander, T. Desmond. Exodus. Apollos Old Testament Commentary. London: IVP, 2017.
  • Enns, Peter. Exodus. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan Publishing House, 2000.
  • Stuart, Douglas K. Exodus. The New American Commentary. Nashville, Tenn.: Holman Reference, 2006.
  1. 特に記載がない限り、聖書の引用は日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』による。
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