礼拝説教の要旨です(実際の説教の音声はこちら)。
- 日時:2023年1月29日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「イエスに従う覚悟」
- 聖書個所:ルカによる福音書14章25-33節1
導入
Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)では先々週の日曜日から「弟子訓練(discipleship)」についての説教シリーズが始まりました。
「弟子訓練」というのは「イエス様の弟子(クリスチャン)の在り方」に関するもの、特に
がテーマとなります。今日の聖書個所では特に、
を考えたいと思います。
家族よりも神
まずイエス様はルカによる福音書14章26節で、
とおっしゃっています。これはイエス様が時折用いる誇張表現の一つで、決して文字通りに家族や自分の命を憎むように勧めている訳ではありません(比較:ルカによる福音書6章27-36節; 18章15-17, 20節; 19章1-10節; マタイによる福音書22章39節)。
イエス様の意味するところは
ということです(参照:マタイによる福音書10章37節)。
家族や自分の命を愛しながら、それ以上に神様・イエス様を愛するかどうか
他の人や自分のことよりも神様・イエス様のことを優先できるかどうか
神様・イエス様のことを第一にできるかどうか
それがイエス様の弟子(クリスチャン)であるかどうかを決めるとイエス様はおっしゃっています。
社会よりも神
神様・イエス様を第一にできるかどうかは家族・家庭内の人間関係だけではなく、家庭・家族外の人間関係においてもあてはまります。
そのことをイエス様はルカによる福音書14章27節で、
ことにたとえています。
その当時、「十字架」は残酷な処刑の道具でした。
特にローマ帝国では国家に対する反逆者を見せしめのために十字架にかけました。
そのため十字架にかけられた罪人は肉体的な苦痛はもちろん、人々から罵りや嘲り、侮辱と言った精神的な苦痛も受けました。
ですので、ここでイエス様は、
と言っていることになります。
とはいえ、現代の日本では信教の自由が保障されていますので、私たちが日本でクリスチャンとして生きるとき、イエス様の時代の人々が経験したような社会的な迫害や苦難・困難を味わうことはまずないと思います。
けれども、日本におけるクリスチャンの人口比は約1%ですから、社会的には圧倒的少数派です。
しかも日本では周りの意見・顔色を伺いながら行動することが求められますので、少数派故の生きづらさや肩身の狭さは他の文化圏もよりも大きいのではないかと思います。
イエスに従う覚悟
イエス様の弟子(クリスチャン)として神様・イエス様を第一にして生きようとするときには
ということをイエス様は二つのたとえを用いて説明しています。
一つ目のたとえは塔を建てようとする人のたとえです(ルカによる福音書14章28-30節)。
塔を建てようとするときには、それに伴う費用を予め見積もったうえで取り掛からなければ完成させることができなくなってしまう。
それと同じように、
という訳です(比較:ルカによる福音書8章11-15節)。
二つ目のたとえは他国の王と戦おうとする王様のたとえです(ルカによる福音書14章31-32節)。
このたとえでは王様はまず相手の国の兵力と自国の兵力を比較し、戦いに勝てるかどうかをあらかじめしっかりと考えます。それで勝てる見込みがないと分かれば和平を求めるだろうとイエス様はおっしゃいます。
過去の歴史上の戦争の事例を考えていただくと分かると思いますが、戦争において自分が不利な(負けそうな)立場にある場合、相手との和平を成立させるためには多かれ少なかれ何らかの不利な条件を受け入れる必要があります。
それでも、戦争で負けるのに比べればマシだから不利な条件を受け入れてでも講和しようとする訳です。
この講和のための不利な条件というのはイエス様に付き従うことに伴う苦難・困難です(14章26, 27, 33節)。
それでも戦争に負けること、即ち、イエス様に付いて行かずに救いにあずかれないことに比べればはるかにマシだと言えます。
だからこそ、そのような
訳です。
結論
神様・イエス様を第一にしようとすることで家族との意見の食い違いがあるかもしれません。
キリスト教の価値観とは異なる社会で生きることに息苦しさや肩身の狭さを覚えることがあるかもしれません。
財産に対する執着を捨てることで、それまでの生活水準を手放さなければならないかもしれません。
そのような
とはいえ、ここでイエス様に付いて行くことに伴う苦難・困難だけを強調して終わるのは十分とは言えません。
なぜなら、
ものだからです。事実、私たちがそれまでの生き方を改め、イエス様を救い主と信じ、神様・イエス様の望まれる生き方を生きようとするとき、
そして、
それは血のつながった家族・家庭とはまた異なる素晴らしいつながりをもたらしてくれるものです。
また、この世の人々はたとえ親しい友人や家族であったとしても、個々人の状況を完全に理解することはできません。
私たちは自分自身のことさえも完全に知ることができない存在です。
そのために往々にして、疎外感や孤独を感じることがあります。
しかしながら、
です。しかも、ただ理解してくださるだけではなく、
そして、
のです。
あなたを完全に理解してくださるお方があなたを無条件で愛し受け入れ、いつも共にいてあなたを守り導いてくださっている。
その真理はどのような苦難・困難に対しても立ち向かう力と勇気を与えてくれます。
最後に、イエス様に付き従うことで受け取る報いはこの世の苦難・困難を補って余りあるとイエス様自身が約束してくださっていることを覚えたいと思います。
イエス様はマタイによる福音書19章29節で、
とおっしゃっています。
が、しかし、
実際問題、神様に対する信仰の故に愛する人と離れ離れになってしまったり、関係が切れてしまったりするのは非常につらく悲しいことです。
そのような辛さ・悲しさを補って余りある報いがあると言っても、すんなりとは納得できないと思います。
と叫びたくなると思います。
では、そのような気持ちを持つことは「不信仰」なのでしょうか。
そのような感情を押し殺して、自分を偽りながら生きるのが「信仰的」な生き方なのでしょうか。
私はそうだとは思いません。
もし神様に対して納得できない思いがあるならば、
その気持ちを素直に神様にぶつけた上で全てを神様に委ね、
完全には納得できないながらも「神様がそうおっしゃるならば」と神様に信頼して、
その報いを待ち望む
それが信仰者であるイエス様の弟子の在り方ではないかと思います(参考:ルカ1:38)。
参考文献および注釈
- Bock, Darrell L. Luke. The NIV Application Commentary. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 1996.
- ———. Luke 9:51-24:53. Baker Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Baker Bk House, 1996.
- Garland, David E. Luke. Edited by Clinton E. Arnold. Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament. Grand Rapids, Mich.: Zondervan, 2011.