礼拝説教の要旨です。
- 日時:2024年1月21日(日)
- 場所:Tokyo Multicultural Church (みんなのためのキリスト教会)
- 説教タイトル・テーマ:「祈りの中心」
- 聖書個所:列王記下20章5-6節1
導入
2024年が始まりましたが、新年早々、悲惨なニュースが相次いでいます。
そのような悲惨な出来事を耳にすると、被害状況の回復のために祈る人は多いと思います。
また、個人的な生活において悲劇・災難に直面すると誰もが「神様、この悲惨な状況をどうにか元に戻してください」と祈ると思います。
今日は私たちの日常でも馴染みのある「祈り」について、少し考えたいと思います。
特に今日の聖書個所に出て来るヒゼキヤという王様の「祈り」を通して、
また
を考えたいと思います。
神中心の祈り
今日の聖書個所に出て来るヒゼキヤ王の時代、南ユダ王国はアッシリア帝国によって滅ぼされようとしていました(参照:列王記下18章13, 17節)。
このときアッシリアの王センナケリブは降伏を勧めるべくヒゼキヤに使者を遣わします(列王記下18章19, 31節; 19章10節)。
そして、イスラエル民族の神様は信頼に足る神ではなく彼らをアッシリア帝国から救い出すことはできないと罵ります(列王記下18章35節; 19章10-11節)。
この言葉を聞いたヒゼキヤは神様に祈りますが、その
にありました(参照:列王記下19章16, 19節)。
神様の御名が罵られ、神様の名誉が傷つけられた。
だから、その名誉を回復すべく、イスラエルの民を救い出してください。
そうすれば、地上の全ての人々は神様だけが唯一まことの神であることを知るようになるでしょう。
そう彼は祈ります。
神中心の祈りを聞く神
神様はそのような神様中心のヒゼキヤの祈りを聞き、奇跡的な方法でイスラエル民族をアッシリアの手から救われました(列王記下19章35-37節)。
ここで注目すべきは、ヒゼキヤの祈りに対する神様の最後の言葉(列王記下19:34)です。
というのも神様は、
だとおっしゃっているからです。
という意味です。
しています(サムエル記下7章16節)。
そのとき神様は、イスラエルの王とその民が神様だけに付き従うならば、その王国が永遠に続くと約束されていました(列王記上9章4-9節)。
ところが、イスラエルの王とその民は何度となくイスラエルの神様から離れ、他の神々に従うようになっていました。
それ故に神様はアッシリアを用いて北イスラエル王国を滅ぼし、今や南ユダ王国も滅ぼそうとされていた訳です(参考:列王記下17章7-20節; 18章25節; 比較:18章13節; 19章25-26節)。
けれども、
訳です。
心からの切なる祈り
実はこの列王記下19章34節とほとんど同じ言葉が今日の聖書個所となる列王記下20章6節に出て来ています。
これはヒゼキヤが死に至る病の癒しを神様に祈り求めたとき、神様が彼に語った言葉です。
ここでヒゼキヤの病が癒されたのは、彼が神様の前に忠実に生きてきたからだと思う方がいらっしゃるかもしれません(比較:列王記下18章3-7節; 20章3節)。
しかしながら、彼の神様に対する信仰(従順さ)は決して揺るぎないものではありませんでした。
事実、ヒゼキヤはアッシリアの王センナケリブがユダの町々を占拠したとき、神様に助けを求めるどころか、センナケリブに貢物を送って和睦を申し入れました(列王記下18章13-16節)。
訳です(比較:列王記下20章12-18節)。
心からの切なる祈りを聞く神
神様に信頼しきれず、自らの知恵・策略により頼もうとするヒゼキヤなのにもかかわらず、神様は彼の祈りを聞かれ、その病を癒されました。
それは、
です(列王記下20章5節)
神様に信頼しきれず、自らの知恵・策略により頼もうとするヒゼキヤの姿には神様に信頼しきれず、他の神々により頼もうとするイスラエル民族の姿が重なります。
です(比較:創世記16章11節; 21章17節; 出エジプト記2章23-25節;サムエル記上1章19-20節)。
結論
です。その
また、たとえ私たちが神様に信頼しきれず、神様以外のモノ・ヒトにより頼むことがあったとしても、神様中心の祈りを捧げられないことがあったとしても、神様は私たちを見捨てるようなお方ではありません。
ここで大事なことは、
ということです。
だからです。
自分や自分に近しい人たちの思い・願いがかなえられることだけを祈ってはいないでしょうか。
もちろん、自分や自分に近しい人の思い・願いがかなえられることを祈ること自体は悪いことではありません。
今日の個所のヒゼキヤも自分の病が癒されるように祈っています。
しかしながら、神様は私たちの願いを何でもかなえてくれるランプの精ではありません。
です。と同時に、
でもあります。
私たちにできることは
こと、ただそれだけです。
自分にはどうにもならない状況に陥ったとき、どうして良いか分からないとき、
自分の無力さを認め、神様の前にへりくだって、神様の助けを祈り求めてみてください。
神様の思い・願いが何であるかを示してくださるように祈り求めてください。
自分の思い・願いではなく神様の御心がなるように祈り求めてみてください(参考:マタイによる福音書26章39節)。
そうすればきっと神様はあなたのその祈りに答えてくださるでしょう。
ただし、
大切なことは、
ことです(参考:サムエル記下12章15-23節)。
祈りの中心に神様を置く。
神様の御心がなるように祈り求める。
神様に対する絶対的な信頼・信仰をもって祈る。
と言うのは簡単ですが、実際問題、そのような神様中心の祈りをするのは簡単なことではありません。
からです。この
でも神様はそのような状態をよしとはされず、その独り子イエス様をこの世に遣わされました。
そして、
ようになりました(参考:エフェソの信徒への手紙2章13, 18節)。
訳です。
この特権もまた私たちの行いによるのではなく、神様の愛と恵みと憐れみによるものです。
あなたが神様に祈ることができるのは神様の愛と恵みと憐れみにおかげ、
神様があなたの祈りを聞いてくださるのもまた神様の愛と恵みと憐れみのおかげ
です。この
参考文献および注釈
- Wray Beal, Lissa M. 1 & 2 Kings: An Introduction And Survey. The Apollos Old Testament Commentary. Downers Grove, Ill.: Apollos, 2014.